05
「発見時点で、この小部屋にあったものは木箱に納まったそれだけだった。けれど師も最初は、御神体とは考えなかったよ。それを御神体と見なす推定の材料を、いろいろと教えてくれたのも婆さんなんだ。なあ、婆さん」
――待てってば。もう少しで、手鏡だったと思い出せそうだ。
「うん。手鏡だよな。うん。……天井……のことは? 憶えとるか?」
――天井? なんの話しだ。
「筒抜けの話しだよ。婆さんが死んだとき、この天井が消えてたって。だからここが見えたんだろ?」
天井が消えていた?
思わず石室の上部をまわし見た。
のしかかるような圧迫感を覚える平坦な石の表面のどこにも、継ぎ目のような線は見当たらない。
すると、ややあってから。
――ああ、天井な。そうそう。ここは、筒抜けだった。地面が透けておった。だから見えた。
「地面が……。透けてたとは、どういうことですか?」
「それがな、わからんのだ」
――そうだったな。おまえに話したな。思い出したわ。あの頃のカユの坊やも、かわゆかった。嬉しかったな……。わたしはなんで、嬉しかったのだろう……。
氏が、呆れたような表情の顔を、こちらへ向けた。
「婆さんが死後、地中のこの小部屋に気づいたのは、墓地の一画の地面が透けておったからだと言うんだ。わしらが立ち入った百年前には、その痕跡は欠片も残っとらんかった。ただ、当時の天井に、落書きのようなものが書かれてあったらしい」
「落書き?」
「それがどんなものだったのか、婆さんはまったく憶えてなくて、見たような気がすると答えるのが精一杯のようでな。もはや、わからんのだ。仕掛人はご先祖だから、魔法なのか、科学なのか」
おれはふたたび天井を見あげた。
それと気づけるような箇所は、どこにもなかった。
「確かなところはなにもわからんのだが、一つだけ確かなのは、この婆さんは、小言は喧しいが、嘘をついて人を惑わすような性根の曲がったお化けじゃあ、ないってことだ。惚けとっても、その言葉は信じられる」
――よくぞ申した。小遣いをやりたいが、あいにく持ち合わせがない。また今度な。
「婆さんのその話しの肝心は、ご先祖がわざわざ、そんな手間をかけている点だ。地中に築いた小部屋の天井を、無いものとした。なんらかの細工をもって、あたかも吹き抜けのような空間を、つくりだした。その動機とは?」
――某殿は魔法使いではないのう。徴がない。
「霊的存在のみが感じる、風通しのよい天窓が設えられた、地下室。そこに安置された手鏡よ。それだけでも、ただの落とし物とは、思えん」
聞いていて、思い出したことがあった。
ルイメレクが学んだ古語――ご先祖の手帳に綴られていたという先史言語の文化圏の民族には、文字はちからを宿す、という思想があったようだ。
詳しくはおれもわからないのだが、その思想に根差す価値観が、彼らの用いた言葉の端々から窺えるのだった。
うーんと、おれは唸ってしまった。
――なのに、わたしの姿が見えるし、声も聞こえる。聞こえておるよな?
問いかけだったので、はい聞こえますと答え、おでこの眼が開きかけていることを伝えた。
――難儀なことよ。お気の毒様。……そういえば、ゾミナのところに出入りしとる小娘。あの子も魔女ではないのにときどき、わたしの声に応えておるな。にこにこ笑顔をくれる。かわゆい子だ。
ぼそりと聞こえたその言葉に、ふっと注意が向いた。
メソルデのことだろうか。
夫人のもとで花嫁修業をしていると、聞いたが。
言われてみれば、彼女もおれと似た環境なのかも。
だとすると見せてくれたあの首飾り――虹色の硝子玉は、おれがもらったお守りと同じような、魔法の目隠し?
「さっき、手帳の記述に、ここの安置物と符合する一文があったと話したろ。それが、手鏡なんだよ。はっきり手鏡を意味する文字が書かれてあった。どの頁だったかな」
言いながら手帳を手に取った。
「ああ、断っておくが、わしは古語はろくに読めん。わしの話しは、ほとんど師の言葉の受け売りだから、そのつもりで聞いておくれ」
内蓋の上にそっと置き、小口からはみ出している紙の一枚一枚を確かめはじめた。
明かりを向けて、固唾をのんで、見守る。
「その記述は、ここを発見する前に読めておったんで、ルイメレクはすぐに察した。洞窟のご先祖が記した手鏡とは、これのことではないのかと。それでこの場所とも足跡がつながっている可能性に考えが及んだわけよ。……もっと後ろのほうか」
――カユの坊や。わたしは悲しい。
「なにがだよ」
――穴のたもとで、某殿との話しのうちでだ。わたしのことをお喋り婆のようにぬかしてくれたな。大仰だ。
「大仰なもんか。事実だろ」
――小憎らしい子だわ。おまえは昔も口が悪かった。小遣いはやらん。
「ああ、ここだ。おまえさんなら直接、読めるだろ」
蓋の上に置いたまま、半開きにした手帳の一か所を指し示した。
おれは顔を近づけた。
見開き二枚の大部分は、字形の滲みが酷く判読不能。
だがその一隅に、かろうじて浸食を免れている一文があった。
線の細い黒字の肉筆で、丸みを帯びた筆跡。
『我々■手鏡を持ち出し■。巫女■の思い出■共に』
われわれ、てかがみをもちだし。
「ええ。書かれてありますね。手鏡を持ち出し……」
……のおもいで、ともに。
続く文章の始めの二文字を読み飛ばした。
『巫女』
この表意文字、すぐに読めなかった。
後の『女』の字は、読みはオンナで、女性を意味する単語とわかったが、字間がほとんどない。
前の『巫』の字の語意に掛かった、なんらかの女性をあらわす熟語と思う。
しかし、読み方も意味も、出てこない。
耳鳴りが邪魔だ。
見憶えは、あるように思うのだが。
いかなる女性をあらわす言葉だったか。
思い出せない、けれども……。
『我々■手鏡を持ち出し■。巫女■の思い出■共に』
やはりこの手鏡には、女性の関わりがあったようだ。
――ああ、龍だ。
不意にビルヴァの魔女がそう言った。
すると氏が。
「ん? あっ、そうだった。おまえさんに見せたいものが、もういっこ、あるんだ」
手招いておれを促すと、その場にうつ伏せた。
「これだ」
木箱が載る石製の薄い台の下を指差した。
光りの鳥を差し向けつつおれも頭をさげ、覗き込み。
変な声が漏れた。
石の台を支えている、長さ三十センチほどの一本の円い石の柱。
その意匠が、龍の纏繞だったのだ。
一体の龍の長い胴が、支柱に巻きつくように螺旋状に浮き彫りされ、台に接する辺りで二つの鋭い眼差しが、頭上を向いていた。
思わず、こぼれた。
「ラズマーフ……」
「似てるだろ」
にやりと笑って、起きあがった。
「その杖の発祥はもしかすると、ここかもな」
身を起こしながら、浮かんだ疑問を口にした。
「龍は、まごうかたなき、神なる存在。この手鏡よりも、こちらの造形物のほうが、御神体にふさわしいような」
「もっともだ。だが、この柱が御神体である可能性は、低いんだ。ご先祖が地中に小部屋を築いた理由は、やはり鏡のほうらしいんだよ。この神殿のあるじは木箱の納品。彫り物のほうは飾りと、師は判断した」
頷いて、背の段袋をおろした。
「さて、ここで見られる足跡は、そんなところだ」
言葉が袋口から出したのは、木製の小箱だった。
そこに、ご先祖の手帳を氏は納めた。
――わたしが墓で、おまえの参るのを待とうと思い、待っていた。
「なんぞ用でもあったのか? わしらはもう帰るぞ」
――ようやっと思い出したよ。どうしてなのか。
「どうしてだ?」
――カユの坊やとまた、散歩をしたいと思ったのだ。わたしの手をとって、誘ってくれたな。嬉しかった……。あの折みたいに手をつないで、一緒にまた、歩けたらと。
小箱を段袋に仕舞いながら、おれの顔をちらと見て、決まり悪そうに苦笑した。
そうして中央の木箱の蓋を、ゆっくりと、閉じた。
「わかったよ……。だが、今日は無理だ。明日な。手が空いてから。それでもいいか?」
――それでもいいよ。明日も、晴れるはずだから。
言い終えた瞬間だった。
ゆらめいていた貫頭衣が、溶けるように闇間に消え。
煩わしい耳鳴りが、ぱたりと止んだ。
薫り立つ墓地は、すっかり宵の刻だった。
屋根の下であかるく点っていた左手が、上がったおれと入れ替わりに嬉々と降りていく少年を、照らしつつ。
「あなた好みの展開ね。地下には、なにがあったの?」
見たものを簡潔に話すと彼女は、手鏡について訊ね返し、ふうんと言って小首を傾げ、縦穴を覗き込んだ。
内部の汚れ具合を聞いてきたので酷くはないが梯子を握ると錆がつくと答えたら、外套の袖を少し伸ばして両手を隠し、緑の光りも降りていったのだった。
まもなく穴から、おまえも来たんかと声が聞こえた。
暗くなった屋根の木柱に寄りかかり、吐息をつく。
集中力を散らす間断ない耳鳴りには閉口したが。
我々、手鏡を持ち出し。
……の思い出、共に。
ご先祖の手帳と読めない文字、御神体と示された手鏡、天井が透けた不思議な話し、支柱に彫られた龍の纏繞。
そして、ビルヴァの魔女。
幽霊との初対面は、結局、散漫な意識下で終わった。
その去り際は、なんとも微笑ましい約束であった。
事情はわからないながらも、ささやかな望みと拒まない心に、それまでの緊張がやわらいで、温かな疲労感。
明日も、晴れるはず……。
今日の残照が、東の空を赤々と染めあげていた。
三百年前の魔法使いは一足先に古巣の村へ、帰ったのかなと思いながら、葉擦れのさわぐ人気のない墓地の夜を、ぼんやり見渡す。
ぴーん、と不意に、音の無い音。
響く声。
――某殿。
帰ってなかった。




