01
獣車の向かう方角は、道なりに南北に振られながらも、ほぼ西であった。
外れた煉瓦道と並走するような進路と思うが、今はわずかに北へ傾き、眺める景色はふたたび雑木林である。
先刻までの草原で、野生の象擬の群れを見た。
古都から遠く離れた、このネルテサス。
名峰ホズ・レインジ山麓の樹海の中に、本来ならば宇宙船もろとも海底に有って然るべき遺物が、現存した。
その裏側に、先史文明の影……。
ご先祖は、自分たちをこの星へと追いやった戦争に対する憎悪――と解釈される理由により、争いの因子と断じた先史人類の価値観を、われわれの社会から消し去った。
その行動の究極が、宇宙船の放棄である。
ロヴリアンス地方の西にひろがるクグニエ海。
沖合いの深底に、超高度文明が生んだ科学技術の結晶は、沈められたのだった。
その瞬間を見守ろうと多くのご先祖が、唯一の眺望点である海岸線の浜辺に集まったと伝わる。
手記もたくさん残されており、水没時に発生した津波によって波打ち際の何人かが足を浚われ、救助の騒ぎになったことや、かつて天を駆け、命を繋いでくれた母なる船との決別に、当時の人々の複雑な心情などが読み取れた。
しかしながら、棄てなかったものもある。
歴史。
ご先祖はそれを、石の砦の内に残した。
公文書館の原本作成に携わった一人、文学者クライレ・ユゲ・モンデスの言葉が残る。
そこに生まれ、そこで見る者を、わたしは信じる。
本のかたちをした地球から清濁の前例を汲みあげ、真っさらの心で取捨選択した知識をもって新たな人類社会を築きあげていくことを、子孫に望む言葉と思う。
そうした背景を後世に伝える原初の時代に、僻地の洞窟でご先祖は、いったいなにをしていたのか。
もうすぐ、その答えが、詳らかとなるわけだが……。
ゆっくりと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
雨上がりの日の昼下がりに、手帳の現存を明かされたとき、サリアタ氏は多くを語らなかった。
この帰路に至るまで、一言も触れなかった。
それが、今となっては不気味だった。
内容を語るに際し、おれの心構えが整うのを、待っていたかのようで。
その段階を慎重に踏んでいたかのようで。
聞いてしまうのが怖くもあった。
蒸気機関の眠る洞窟に見え隠れする、先史人類の足跡。
樹海の魔法使いの背後から、遥かなる地球の巨大が、迫ってくるような感じがした。
何度目かの深呼吸をし、周りに目をやった時だった。
おそらくやっと気がついた。
先の車の幌の下、その後ろ板の上に頬杖を突いた大きな瞳が、おれを見ていたのだった。
垂布は掛けておらず、表情には微笑があった。
「眠れないみたいね」
落ち着かぬ様子を見られていたのかと苦笑が漏れる。
「どうにも、緊張してしまって……。今のうちに休んでおきたい気持ちはあるのですが」
隣に銀髪は見えず、静かだったので、彼は寝てますかと訊ねると、涎がたれてるとの返事だった。
「ねえ先生。ゾミナ様へのお土産のお菓子。わたしも一つ、食べてもい?」
「もちろんです。売ってもらえたのが十個だけで、一個しか差しあげられず、申しわけない」
言って背嚢から出した菓子袋を、互いに腕を伸ばして受け渡し、返ってきた菓子袋を、ごそごそ背嚢に戻す。
「はい」
声に振り向くと、細い腕がこちらへ伸びていた。
その白い手には、半分に割られたボンボン菓子が。
「え……。いや、どうぞ、セナ様。お一人で」
「たぶん。今のフロリダス先生には、これが、いちばん必要なもの。だから、はんぶんこ」
彼女にそこで、微笑まれてしまっては、断れない。
「ありがとうございます。では遠慮なく。いただきます」
砂糖の甘みと煎豆の苦みとが混じり合った独特の旨味が、口中いっぱいにひろがった。
糖分が心血に滲み込んでいくような感じがし、幸せな気分になる。
その味覚が不意に、いつかの記憶を引き揚げた。
(魔性の女の流し目。例えたら、そんな感じかしら。ふふふ、残念ながら。フロリダス先生が、もの好きなだけです。ちょっと、それ、あとで食べようと思ってたのに)
思い切って笑顔を向けるとそこに彼女の瞳はなく、後頭部だけを後ろ板の上に小さく見た。
礼をもう一度、おれは告げてうつ向いた。
すると、少し間があいたのち、聞こえたのだった。
「大丈夫よ。崩れそうになったら、踏ん張らないで力を抜いてしまえばいい。今のあなたの周りにも、あなたを支えたいと思ってる人間が、ちゃんといるから」
花模様の髪飾りが、呟いた。
「美味しい」
土煙りの遠ざかる、夕映えの道。
その道沿いの左手側に繁茂する木々の影が、彼方へ向かって長々と延びていた。
黄昏を間近に迎えても、まだ、眠れずにいた。
鼾をかいて熟睡している魔法使いの傍らで、心臓が、ずっと早鐘を叩いていた。
今夜もまた、長い夜になる。
眠っておかなければと、瞼を閉じると……。
揺蕩うような意識の岸辺に、寄せては返す……。
匂いがあった。
涼やかに、爽やかに鼻腔を抜けていったその匂いの正体を、おれはたぶん知っている。
オズカラガスと呼ばれる常緑高木の葉の匂い。
成育に土地を選ばず、芳香がとても強いことから、古代より特定の場所に意図的に多く植えられた。
墓地である。
ロヴリアンスで始まった葬送のその慣習が、生活圏の拡大とともに世界中に広まり、いつしかオズカラガスの樹名には、墓所の意が加わった。
爽やかながらも強いその匂いの薫る近くには、高確率で、墓地があった……。
その時、大きく揺れた身体に目を見ひらくと眼前に、緑色に光る手のひらが見え、驚いて顔をあげると真横で中腰になった――頭巾と垂布の間に覗く長い睫毛の大きな瞳が、無感情におれを凝視していた。
あわてて周囲をあらためると獣車は停車しており、荷台の外に立っていたアラム少年が車の前方へ呼びかけた。
「サリアタ様あ。先生やっと起きたあ」
面前に翳されていた手の光りが、すうと消えていく。
「着いたわよ」
言って貫頭衣の裾を翻し、荷台を降りたのだった。
流れた空気に、覚えのある匂いが鼻先をかすめた。
はっとなって、すぐに辺りをまわし見た。
路肩に停まった獣車を囲む、陽の陰りはじめた薄暗い雑木林に、オズカラガスの木は、見当たらない。
だが、微かに漂うこの香り……。
後尾の車から急いで降りて、傍らに立つセナ魔法使いとバレストランド魔法使いに粗相を詫び、訊ねた。
「ここは墓地ですか?」
「そうらしいわ。わたしたちも、初めて来た場所」
「ぼくこの匂い嫌い」
すると背後で氏の声が。
「フロリダス殿。ゾミナが渡した目隠し、どこにある?」
問われ、外套の懐をまさぐりながら。
「あのう。近くに、墓地が?」
聞くと氏は頷いて、人気のない道の北側にひろがる雑木林を指し示した。
「ちょっとばかり奥まったところにな」
「わたくしどもの旧墓地です」
おれの後ろに立っていたチャルが言った。
身をひらくと、言葉を継いだ。
「ここが使われていたのは、三百年ほど前までと聞いております。それ以降は、現在も、近隣町村の共同墓地へ。村からかなり離れているのですが、そちらは設備がいろいろと、整っているので」
「そうでしたか。なるほど」
どうやら……。
ご先祖の手帳の保存場所は、人跡の絶えた古墓……。
「例の厄介な魔女の件があったから、町へ出る前におまえさんに渡せて、都合はよかったんだがな」
お守りの入った小袋を取り出して見せると、含んだような笑みを浮かべ、おれの額を指差した。
「どうだろう。ここで一つ、ものは試しに、お化けと対面してみるか?」
え?
「それを置いて墓地へ行けば、目隠しの作用は届かん」
急な提案に、戸惑った。
もちろん、それは……。
そういう体験は、みずから望んだことであり。
やぶさかではないのだが、ただ。
魔法使いの視力を能動的に使う初めてが、墓地というのは、ちょっと欲張りな気がする。
おれは、大丈夫だろうか。
氏が続ける。
「墓地と申しても、ここの墓穴はもう長いこと掘られていないし、おでこの眼もまだ半開きだから、そこらへんをうろうろしとる弱い魂は感じない。今のおまえさんに視えるのは、強い魂だけだ」
「つ、強い魂?」
「それも一人だけな。ビルヴァに住んでた魔女の霊。今朝方、村屋で朝飯を食ったとき、少し話したろ。ゾミナに天気の移り変わりを教えてくれるお化けがおるって」
思い出した。
(この村に古くから憑いておるお化けが、予知のちからを持っておって、空模様の変わり目をいちいち教えてくれるのよ。三百年ほど前に死んだ、魔女でな)
「旧墓地に葬られた故人のなかでただ一人、未だに天下に居残っておる腰の重い魂なんだが、もちろん悪い者ではない。その魔女の婆さんがな、どうもわしが参るのを、朝から墓地で待っておったようなんだ。村で見かけないと思ったら、こっちに来ておった。待ち合わせの約束をした憶えはないんだがなあ」
けらけら笑った。
「まあ、会ったところで、小言を聞かされるだけかもしらんが。理解の助けくらいには、なるだろう」
理解の……助け?
するとそこでサリアタ氏が、力強くおれを見た。
「ご先祖の手帳にまつわる事柄について、婆さんも絡んでおるのよ。だからおまえさんも、本人に会っておいてよいかなと思ってな」




