03
持ってきた空の水筒に渓川の水を汲んでいると、サリアタ氏が肩を叩いた。
これよりは段々と土地の浮き沈みがきつくなるから怪我をしないようにと言われた。
先ほどの脱線を踏まえての注意に違いなく、畏まって了解した。
わずかに重くなった背嚢を背負って進んだその道程は、見憶えのある樹海の有り様であった。
川辺から遠ざかるにつれ、繁茂していた羊歯植物が減り、苔の群生が林床にひろがる。
それらが緑色の光りに映え、あたかもみずから発光するかのように、足元で神秘的に輝いた。
起伏が強くなっていくのは標高が下がっているからで、パガン台地に近づいているのを実感する。
背後で時々、弦を弾く軽快な調子の音が鳴った。
川越えから五時間ほどのち、山麓の南東部へ深入りしたと思われる頃に天心に月が出て、差しかかった森の湿地帯で夜食となった。
樹海の東側に広がっていたその景観は美しく、星月夜の湿原に点在する静やかな水面はまるで、明鏡止水を見ているようで、深遠な雰囲気があった。
湫の畔に突き立てられた光りの杖を中心に、車座となり、握り飯を頬張りながら談笑する。
ウチウ猫の生息域が目前に迫っていたが、事前にサリアタ氏が話したとおり、ここに至るまで獣の姿はまったく見かけていなかった。
縄張りについて触れる様子もなかった。
逆にそれが、進路において些少の問題であることを示し、安心感を与えてくれた。
セナ魔法使いがアラム少年の町行きについて、マルセマルスカス氏が案じたのと同じ内容を口にし、抜かりないよう念押しの言葉を告げたところ彼が、ポハンカこそ油断するなと不愉快そうに言い返したことがきっかけで、二人の口喧嘩がはじまった。
余計な世話を焼く姉に反抗する弟のような遣り取りで、苦笑しつつ微笑ましく眺めていたのだが、双方の話しを耳にするうち口論の原因が見えてきた。
どうやら、先刻の倒木不明の待ち時間に、アラム少年が対岸に見た男の幽霊が、われわれのあとをついて来ていたようだった。
その理由を察し、ああ……と思った。
男の幽霊につきまとわれてしまう事態は彼女も弁えていたようで、そうならないように魔法で容貌を誤魔化していたらしいのだが、予定になかった渓流渡りで集中力が逸れ、幽霊の目にその素顔をすっかり曝してしまったようだ。
油断するから追い払うのに苦労したと文句を言うアラム少年に、油断ではなく不可抗力と頑なに言い張るセナ魔法使いであった。
われらの真ん中で長杖は、彼女の左手から離れているのに妙なる光りを発し続けていた。
不思議だったので訊ねると、時間の問題とのこと。
なるほど食べ終わる頃には光りはだいぶん心細くなって、潰える前に魔女が杖を手に取った。
北に向かって程なく、気づいた。
湿地帯を境に、地勢が変わった。
土地の緩急がゆるやかになり、森の天井に覗いていた星空が消え、密林の閉塞感が強まった。
ともなって先導者の歩調も幾分、速くなった。
樹海を脱し、山麓の東部に踏み込んだのだ。
植生は南西側とほとんど変わりがないようだったが、地面は西側よりも幾らか平坦で歩きやすい。
緑色の視界に映る生き物はわれら以外に一切なく、聞こえてくるのは遠くのほうで鳴く野鳥たちの声と、山颪の強い北風が林冠を揺らす音だけであったので、安心しきっていたところ――。
先で、緑の光りが不意に大きくゆらめいた。
するとサリアタ氏が、歩きながらちらと返り見て、左手側を指し示した。
「喰い止しの死骸がある。少し急ぐぞ。バレストランド」
「了解です」
二人の疎通に、にわかに緊張した。
速足で氏のあとを追ってまもなく目に飛び込んだのは、樹洞の空いた根方に無惨な姿で横たわる一頭の哺乳動物だった。
体長体高ともに一メートル足らず、ずんぐりとした身体は長毛に覆われ、顔面から長く伸びる鼻がだらりと垂れている。
全身を深く抉られており、杖の光りで濃緑に見える鮮血らしい液体が、辺りに溜まりをつくっていた。
確認したのはわずかだったが、特徴的な長鼻のあの遺骸は間違いなく、象擬だった。
地球から持ち込まれた陸生最大級の草食哺乳類の矮小種で、その生息分布は世界中に散らばっているが、おもな活動地域は森林。
力が強く、賢く、飼い慣らすことが可能なため、われわれの社会においては役畜として重用される獣であった。
成獣の体高は約二メートルであり、頭頂部が盛り上がって口元の両脇から湾曲する大きな牙が生えるので、あれは幼獣と思われる。
通りしなに鼻腔を突いたのは腐臭ではなく、生臭い血の匂いであった。
あの象擬は死んで間がない。
今の今まで捕食者は、あれを喰らっていた……。
周囲の木陰をびくびく窺いながら振り返ると、バレストランド魔法使いは両目を閉じ、短弓を斜めに構え、弦に指をかけた状態で歩いていた。
臨戦態勢らしい彼のその様子を見て、空気に溺れそうな気分になる。
浮き足立って歩くうち、前で揺れる段袋に何度もぶつかり押してしまい、おれは樹海の魔法使いを何度もつんのめらせてしまった。
「慌てずともよい。追いかけてはこないよ。わしらが離れるだけだ」
食事中だったウチウ猫が、獲物から離れたのは、樹海の魔法使いの接近に気づいたから。
氏が飛ばしていくと言った魔法に反応したのだ。
歯向かえる相手でないことを承知している証だ。
そう判じて冷静になり、やがて喉の渇きを覚えた頃。
アラム少年の落ち着いた声を背後に聞いた。
「サリアタ様。もう大丈夫かも」
見ると彼は、うしろ向きで器用に歩きながら、後方の暗闇を見渡していた。
構えはすでに解かれていた。
「うむ。注意がすっかり食い気に移ったな。ここまで来れば互いに問題なかろう」
応えて氏は足をとめ、森の一隅で暫時、休憩となった。
思わず膝に両手をつき、深々と息を吐く。
おれの頭上で光りが強まり、お爺ちゃん、とセナ魔法使いが詰問口調で言った。
「昨日の千里眼での探知のときにも、あの死骸はあったの?」
「そんな目で見るな。あったらほかの道を選んどるわ」
「そう……。よりにもよって、食卓に突っ込むなんてね」
「しかたあるまい。あちらさんがいつどこで狩りをするかなんぞ、知ったこっちゃない。あれに関しては想定内だ」
「敵意は感じなかった」
アラム少年が口を挟む。
「サリアタ様に爪を向けたら返り討ちに遭うことくらい、やつらもわかってるよ」
「そういう問題じゃないわ」
言って魔女はそっぽを向いた。
氏がおれの顔を見て、苦笑する。
「わしのちからは老眼でなあ。遠くは見えても手元がな。あらかじめ下調べはしておっても、いざ森に入ったら、やはり色々と転がりよる。まあ、勘弁してくれ」
「もちろんです。皆様がご一緒であれば、大事に至ることはないでしょうし。それにしても、この森には、象擬もいるんですね」
水を飲み、一息ついた。
「ああ、野生のものは北に棲み着いとるな。ポルケア山道の周辺だ。たぶんあれは、群れからはぐれたやつだろう。先日の長雨で、仲間の匂いがわからなくなってしまったのやもしれん」
「象擬はでっかくて力もすごいけど、脚は速くない。一匹だけでうろうろしてたら、おとなでも、やつらにとっては格好の餌食」
「なるほど」
水筒を大きく傾けた。
その場を発って以降。
とくに何事もなく過ぎて、われわれは順調に距離を稼いだ。
途中で一度、川流れの音を耳にしたが、東部の水場は危険との判断で、寄らなかった。
鬱蒼としていた密林は次第に樹間をひらき、見上げる枝葉の間に間に、夜空が戻った。
何度目かの休憩ののち、不意に緑の光りが弱まって、辺りがふっと暗くなった。
どうしたのかと前方に目を凝らすと、セナ魔法使いが後方を指差していた。
われらの来た道の森の天井が、微かに明らみはじめていた。
今や、夜行の足を照らすのは、杖ではなくなった。
行く手の暗がりに徐々にひろがっていく朝が、立ち籠める霧のなかにうっすらと、疎らな木陰を黒々と浮かびあがらせていた。
その隙間を縫って、近いような遠いような透明の光りを、黙々と目指す。
長い夜は終わったが、この日が東に沈む頃、おれにとっては、また長い夜が始まるだろう。
われわれは、山麓の森を抜けた。




