02
六日前の風呂場への道中で、アラム少年から聞いた結界の話しを思い出す。
結界には、出入りの穴を必ず空ける。
それを息抜きと言う。
おそらく今、角灯の火にぼんやりと、眼下に浮かびあがっているのが、その息抜きだ。
北端の家屋前の枝折戸である。
サリアタ氏とセナ魔法使いはすでに柵の外にいて、なにやら言葉を交わしていた。
柵の内で、横に立つバレストランド魔法使いに目をやると、察したようにこくんと頷いた。
「ちゃんとここから出ないとだめ。途中で結界にぶつかって、先に進めなくなるよ」
「結界に、ぶつかるのかい?」
「うん。サリアタ様の結界はものすごくやわらかいから、ぶつかっても、びよーんって伸びる感覚に近いけど。中から結界にぶつかると、内側をぐるぐるぐるぐる周るだけになる。まっすぐ進んでいるつもりでも、また元のところに戻っちゃう」
「いわゆる輪形彷徨だ」
氏の声に、下から角灯を照らし上げると、とても恐ろしいご面相となったその口元が、にたりと笑った。
「結界が原因のな。似た状態になる」
悪天候など進行方向の目標物を認識できない状況下で、直進しているはずが実際は円を描く進路をとって同じ場所を周回してしまい、気づかぬうちに遭難状態に陥る錯覚現象。
「なるほど……」
「だから、この箱庭から出る必要がある。けれども案じることはない。村まで、わしが魔法を飛ばしていくから、森の獣は寄りつかん。バレストランドはおまえさんの剣になるし、眼となるポハンカもおるしのう」
樹海の魔法使いご本人と、侍う二人の魔法使い。
夜行と言えど、お三方に伴われての道程に、危険のあろうはずがなかった。
おれは尤もと頷いて、枝折戸を抜けた。
土地のただの境界ではなく、結界の外側へ。
知っているがゆえの不安と知らないがゆえの安心なら、前者を望む性格である。
背後で、とん、と、戸が閉まった。
この隠れ家から、ビルヴァの村へ出るには、経路はどうあれ、ホズ・レインジの東部を通過することになる。
迂回はできない。
南部の樹海の真東はポトス湖であり、山麓の森の東側一帯の外縁はパガン台地。
この緯度のまま東へ直進しても、ぶち当たるのは湖北の切り立った断崖なのである。
山の南東部から北上し、必ず東部を経由しなければならなかった。
単純に距離だけの話しなら、おれは樹海への掛かり口を間違えた。
最短と判じた南西側からだと山麓まで、推定で三日ほどを要したのだった。
慣れた足で半日と聞いた東側から入っていれば、もっと早くに到達していたろう。
だが、その間違いは、正しい間違いだったと思う。
東からだとあの神木――サオリの宿る神社の地に、立ち寄ることはなかったはずだ。
その場合、姫様の恩恵に与ることが叶ったかどうかわからない。
それだけではない。
(渓川をさらにのぼったところに、大きな滝がありましてね。その滝壺に魚がたくさん棲んでいて、野鳥たちの餌場になっている。その野鳥や魚を狙って、山の東からおりてくるんです。棲み着いているのは間違いありません)
彼らに嗅ぎつけられていたら、そもそも樹海に辿り着けていたか、どうか。
当時のおれの心理ならばそれでも甘受したろうが、今となっては戦慄する事実であった。
魔法を飛ばしていくから森の獣は寄りつかないと、氏は言った。
その森の獣とは、われらの進路に縄張りをもつ、ウチウ猫のことにほかならない。
路地の彼方に目をやると、寝床から漏れる明かりが、玄関前に立つ名代を照らしていた。
二本の棒を左手に持ち、こちらへ右手を挙げているマルセマルスカス氏におれも応えた。
アラム少年が言う。
「フロリダス先生。角灯は、もう」
「いらんな。背中に仕舞って大丈夫だ」
サリアタ氏が言い継いだ。
従って火を吹き消すと、宵の森に浮かぶ緑色をした淡い光りが、闇間に際立った。
「見ていなさい」
夜影に佇む魔女を指差す。
光りの映えるその白い左手が握るのは、一本の長杖。
目を凝らすとそれは、樹木の瘤杢目を活かした意匠のようで、表面が凸凹としており、わずかながらうねりがあった。
精緻な技巧のラズマーフとは異なる、大自然が生み出した趣のある杖であった。
それを地面に突いたまま、佇立していた彼女がおもむろに、光る手元を目の高さまで持ちあげた。
斜めになった長杖が、静止する。
その瞬間だった。
かあぁーん…………。
例えようもない金しい音が、嫋々と、夜気に響き渡った。
すると左手から緑の光りが、まるで波が伝うように、長杖の端々へひろがってゆく。
やがて杖は、神妙な光りを纏い、眠りつくような草木の闇を、明るく照らし出したのだった。
辺りはたちまち、翠の紗を掛けたような、幻想的な光景となった。
得も言われず、ただ、ため息がこぼれた。
サリアタ氏がぼそり呟く。
「まったく綺麗なもんだ。あの娘の上手を見るたび、甲斐があったとつくづく思うよ」
「ご一同、参ります」
われらに向かって一礼し、光りの杖を翳すと魔女は、衣を翻した。




