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01

 山に映えていた代赭(たいしゃ)色の残照がようやく潰え、東の星間(ほしま)に月を見る。

 宵の空風(からかぜ)に当たるおもちゃ箱から、ことこと聞こえてくる音は、サリアタ氏だった。

 森の所々(しょしょ)にまだ泥濘(ぬかる)みが残っているらしく、やはり杖が欲しいと言って、今しがた取りに入ったのだった。

 外套(がいとう)をまとっていても少し肌寒く。

 出立(しゅったつ)を目前に控えた、足の浮くような時間であった。


 寝床の小屋の玄関横に、古びた棒が二本、転がっていた。

 それらは(すき)(くわ)木柄(もくえ)であり、杖代わりに持っていくつもりだったのだが、長さの具合がよろしくなく、置いていくことになった。

 修理に出す金物部分は取り外し、(から)にした背嚢(はいのう)に入れてあり、おれが背負う。

 青銅は重い金属だが、じゃがいもに比べれば、だいぶん楽である。


 一昨日。

 ラズマーフの話しを拝聴したのち、売り物の選別を終えたのは、夕刻だった。

 満杯になった竹籠を見て、おれは覚悟を決めた。

 さすがに全部は無理と思ったが、その半分以上は担いで歩く覚悟をである。

 身体を休ませろと氏に言われ、昨日(きのう)は一日、とくになにもせずに過ごした。

 四日間の翻訳作業で実際、疲れが残っていたし、ビルヴァの村への道程は(まった)くの夜行となる。

 運搬のための体力を蓄える意味でも、当日の今日もなにもしないで夕方早くから仮眠をとり、浅い眠りの()に便所へ(おもむ)いた先刻である。

 (ひさし)の下に置かれていた山盛りの籠が、空っぽになっていることに気がついたのだった。

 びっくりし、どうしたのか訊ねると、坊っちゃんが運んだとの返事。

 どうやら運び出しは毎度、坊っちゃんの仕事だったようで、最初からそのつもりだったようで、おれの覚悟は杞憂となった。

 売り物のじゃがいもは、一足(ひとあし)先に村の外れで、あるじの到着を待っているという。


「どうにも心配です。見てください、あの顔」


 寝床の扉を開けると、上がり(がまち)に腰をかけているマルセマルスカス氏が、円卓を指し示した。

 そこに灯る蝋缶(ろうかん)の火があかるく照らすのは、アラム少年。

 卓上にひらいた地図を彼は、本当に嬉しそうに眺めていた。

 寸法の合っていない大きめの作務衣(さむえ)を着ており、その左脇には短弓が置かれてあった。


「大丈夫だって。ちゃんとやるから。わかってるよもう」


 サリアタ氏から同行を求められたアラム少年はご機嫌で、浮かれ気味の彼を(たしな)めているマルセマルスカス氏は、あるじ不在となる隠れ家の留守居となった。

 三人での道行きと聞いた。

 セナ魔法使いは、もとより衆目の集まる場所は好まないだろう。


「いいや、おまえはわかってない。町へ遊びに行く凄く楽しみって顔に書いてある」


 助けを求めるような視線が円卓から飛んできたので、板間(いたのま)にあがり、一緒に地図を眺めた。

 久しぶりにひらいたそれは、ウルグラドルールの地図屋で買った観光地図だった。

 今やくたくたになってしまっているが、彩飾のほどこされた鮮やかな地図である。

 山麓の南側――樹海の部分は大きな空白になっていて、そこにネルテサス地方の名所案内が細かな字で書かれてあり、メイバドルについても記されてあった。


『象徴である時計塔は、紀元三〇〇年にネルテサスへの前哨基地として築かれた物見櫓(ものみやぐら)を転用し、造られました。町は時計塔を軸に巨大な日時計の構造をしています。それは基地の建設中、作業員の定時休憩の際に、完成していた(やぐら)の日陰に人が集まり一服をしたことから、いつしか日陰の近くに多数の屋根が建てられ自然と影が道をなしたことで、日時計の機能を有する町割りの構想を得たと伝わります。約五十メートルの時計塔の天辺(てっぺん)に掛かる吊り鐘は、かつては危険を知らせる警鐘(けいしょう)でしたが、その高らかな音色(ねいろ)は現在、人々に平和の(とき)を告げています』


「実はわたしも、バレストランド魔法使いと気持ちは同じです。メイバドルへは一度、行ってみたいと思っていたので」


 少年のこぼれるような笑顔を弁護するとマルセマルスカス氏は苦笑した。


「初訪問ならば、当然でしょう。そもそもフロリダス様とアラムとでは行く意味が違います。アラマルグ・バレストランド。おまえは遊びに行くんじゃないんだぞ。護衛として同伴するんだ。あ、いやいや、お二人だって別に遊びに行くわけじゃない。大事な用事を含んでの外出だ。それが目的だ」


 それは、そのとおりだった。

 昨日今日と見事になにもしなかったが、落ち着けていたのではもちろんなかった。

 未発見の原語資料に接するのは初めての経験であり、予断をもって向かい合いたくはなかったので、あまり深くは考えなかったが、しかし。


「だからわかってるってば。遊ばない。約束する」


 アラム少年の肩を、とんと叩いて立ちあがり、水を飲もうと土間におりた。


 ご先祖の手帳を読み解いたルイメレク魔法使い。

 サリアタ魔法使いは、そのお弟子。

 樹海に住まう魔法使いと先生のお父上様ドレスン氏とは、知り合いであった。

 そのドレスン氏が、ルイメレクにまつわる出来事を語った相手が、ご子息であり、のちに先祖学者となるアポニ・ドレスン。

 そしてその人物の弟子が、おれだ。


 ネルテサスに暮らす魔法使いの師弟と、ラステゴマに暮らす先祖学者の師弟。

 互いに地理上の真裏に当たる対蹠点(たいせきてん)

 本来ならば交わることなどないであろう双方の橋渡し役となったのは、ドレスン氏だった。

 先生のお父上様には、当地に滞在していた過去があった。

 そうなる必然性のもっとも高い理由を、考えると――。

 今のところ、正体のあきらかでない立場は、ほかでもない。

 手帳の所有者である。


 柄杓(ひしゃく)を傾けた。


 ただ、その仮定が、事実だったとしても。

 わが師アポニ・ドレスンは、当代随一の先祖学者。

 その人物が、未発見の原語文献を看過するとは思えない。

 おそらく、その現存までは、ご存じでなかった。

 先生のお父上様は、手帳については語らず、解読後に魔法使いが示した行動のみを語った。

 それが、一人の先祖学者に畏敬の念をいだかせた。


 大筋としては、破綻しない。

 これで一応、点と点とが線でつながる。

 もし、そうであったなら、手帳を読み解いたルイメレクは、いったい、なにをやったのか。

 サリアタ氏が、現物を介し、おれに語ろうとしているのは、たぶん。

 在りし日の先生が、お父上様から聞いたはずの――賢者が生まれた昔話だ。


「ゾミナ様にもお会いするだろうから。失礼のないようにな」


 マルセマルスカス氏の言葉が耳に入った。

 ゾミナ様?

 気になって、訊ねた。


「あのう。そのお方は、どなた様ですか?」


 すると魔法使いが、ああ失礼しました、とすぐに答えた。


「サリアタ様の奥様です」


 聞いて一瞬、驚いた。

 が、なにも驚くことはないだろうと自分で思った。


「以前は、ここにお住まいだったようなのですが……。わたしが当地に来た時にはすでに、ビルヴァのほうへ居を移しておられまして。今もそちらに」


「そうでしたか。奥様が」


「ええ。まあ、その……」


「別居中」


 アラム少年がにやにやしながらそう言って、魔法使いが苦笑いを浮かべた時だった。

 扉が(ひら)き、サリアタ氏があらわれたので少しあわてた。

 われらの様子に怪訝な顔をした氏に即座に、問題ありません、とマルセマルスカス氏がすっくと立ちあがる。


「参られますか?」


「うむ。待たせたの。フロリダス殿。準備はよろしいかな」


「はい」


 応えて(から)の水筒と、農具の金物が間違いなく入っている背嚢(はいのう)の口を閉め、背負った。

 (ふところ)の財布を今一度確認し、灯る角灯を手に取った。

 短剣は持っていかないと決めていた。

 サリアタ氏はいつもの作務衣(さむえ)ではなく寛衣(かんい)を着ており、段袋(だんぶくろ)を背に負って、だんだら模様の丸い毛織帽子をかぶっていた。

 その右手がつかんでいる短杖を見て、気づいた。

 装飾の一切ない質素な造りのそれは、あの写真の中で、ルイメレクが持っていた杖だった。


「すまんがのう、おまえさんのぶんが見つからんかった。古い長杖が一本あったはずなんだが」


「いえ、構いません。ありがとうございます」


 揃って月明かりの路地へ出た。

 吹き降ろす風が、やや強くなったと感じた。

 触れる空気も()やりとしたが、森に入ってしまえば、いくらかは和らぐはずだ。


「おやおや」


 あるじの声に顔を向ける。

 すると――。

 北の路沿(みちぞ)いの暗がりに、一点の淡い緑の光り。


「見送りとは珍しい。なんぞ欲しいものでもあるのかな」


 言って近づく氏のあとに続く。

 宵闇に、徐々に浮かびあがる立ち姿。

 幽玄な光りを放つその不思議な左手に認めたのは、握られている長杖だった。


「んん? ポハンカ、おまえ……」


「サリアタ様。わたくしも、お供いたします」


 セナ魔法使いが、(うやうや)しく辞儀をした。

 裾の長い貫頭衣(かんとうい)の上に、星色の短い外套(がいとう)をまとっていた。

 その付属の頭巾をかぶり、耳に掛けた紐から薄い布を垂らし、目元から下を隠している。


「お供って……。わかっとるのか? わしらは町へ参るんだぞ?」


「勿論、承知しております。微力ながら、お二人の露払(つゆはら)いをと」


 頭巾と垂布の()に覗く、(えん)な瞳が、ちらとおれのほうを見て。

 長い睫毛を、彼女はすっと伏せたのだった。


「そうか……。そういうことならば……。わかった。共に参ろう。夜道を拾うのに助かるよ」


 振り返った。


「リリ。留守は任せた」


「心得ました」


 深々と頭を下げたマルセマルスカス氏が、上体を起こし、微笑んだ。


「サリアタ様、フロリダス様、どうぞお気をつけて。アラム、しっかり頼むぞ。ポハンカ――」


 じろりと横目で、魔女が見返す。


「なんでもない」

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