07
細く鋭い奔流が、絶えなく岩を洗う荒々しい水音と、弾けるような水飛沫。
渓川に出た。
鬱蒼とした森に挟まれたその両岸は、上流も下流も大小の岩石がごろごろと詰まった岩場であったが、小道の通ずる近辺だけ、平らかな岩が飛び石のように点在する川原になっていた。
その岸辺に、湯けむりの白々と漏れる掘っ立て小屋が建っていた。
川に面する側の地面がざっくりと掘られていて、その地下の小屋側に石造りの竈が設けてあり、竹筒の長い煙突から白煙が昇っていた。
段々に迫りあがっていく川上に目をやると、彼方に横たわる黒々とした林冠の上に、夕陽を浴びるホズ・レインジの巨体があった。
滝壺から溢れた山の水は、北から南へと流れていた。
その川筋のどこにも、獣の姿は見当たらなかった。
「ここは結界の中です。安全です」
おれの視線を察してか、アラム少年はそう言ってから、風呂小屋の戸をあけた。
むわっと烟った屋内の床は、外の川原となにも変わらず、飛び石のような平たい石が点々と見える地面だった。
洗い場になっているその地面の奥に、湯気の立ちのぼる四角い浴槽が埋まっていた。
どう頑張っても一人しか浸かれない寸法だった。
足元に竹籠が置いてあって、中に手桶があり石鹸と手ぬぐいが入っていた。
「用があったら、坊っちゃんに言ってください。向かいの川で泳いでますから。ぼくは上流のほうを見てきます」
洗い場に立てかけてあった竹の玉網をひっつかみ、川沿いを彼は飛ぶように走って去った。
どことなく楽しそうに感じたうしろ姿を見送って、おれはいったん戸を閉めた。
魔法使いはちからによっては年少時からの教導が必要と聞く。
親元を離れるのも早いとは聞くが、十二歳は初等教育の終わる年齢だった。
客分での滞在も長いような話しだった。
学校は、どうしていたのだろう。
マルセマルスカス氏が諸々面倒をみているような雰囲気であったが。
向かいの渓川を眺めた。
激しい流れを観察すると、あきらかに不自然に、飛沫の大きくあがっている箇所があった。
岩間ではない底の浅い川中で、衝突するように乱れている。
その場所へ、角灯を差し向け、声をかけてみた。
「坊っちゃん」
すると、水流が盛りあがるように跳ねた一瞬、散った水がサリアタ氏に似た人影を象った。
おれは思わず笑顔になった。
儚い水影に、風呂の礼を告げ、小屋の正面に戻った。
左腰にぶらさがっている無駄な荷物を戸脇に置く。
服を入れた竹籠を外に出し、角灯を持って戸を閉めた。
湯加減は丁度よく、かけ湯をし、ゆっくりと湯槽に身を沈める。
湯に浸かるのも、ウルグラドルールを発って以来だった。
自然と吐息がこぼれてしまう。
この風呂場の掘っ立て小屋は、あの便所と、様子がまったく同じだった。
浴槽のぐるりを板壁と屋根で囲っただけ。
とっぱらえば、露天風呂である。
基礎設備の便所はともかく、こっちは最初、野天だったのではと思う。
だが、それでは困る勢力が、あらわれた。
わからないが、事情はどうあれ、このままだと便所も風呂も。
冬場になったら潰れてしまうのではなかろうか。
湯槽の竈側の面は木組みの格子になっていて、槽が区切られていた。
格子の隙間の向こうに円柱形の物体が垂直に数本、横に並んでいるのが微かに見えた。
風呂の湯沸かしの構造としては一般的なものだった。
横列の円柱は銅管で、それを火床で熱している。
アラム少年から聞いた、あの結界の話し。
サリアタ氏は、隠りの魔法によって、みずからの存在を隠そうとはしていない。
結界の張られた隠れ家のなかに訪問者の姿があるのも道理。
死んでいる常人と、死んでいる魔法使いと、生きている魔法使い。
死者はさておき、なるほど異能者の目には、筒抜けなのだ。
森に立ち入る魔法使いたちの目的は、強烈な発信源であり、そして彼らは沈黙する。
氏が、結界をめぐらせた意図は、おそらく。
隠りの魔法は、生きている常人の目を、完璧に欺くと言う。
この樹海には、二十年ほど前まで、探検家が踏み入っていた……。
戻ったら早速、作業をはじめよう。
今からだと、蝋缶を消費することになるが、もう準備は整っている。
湯上がりの渓谷はうっすらと、薄暮に染まっていた。
涼やかな風に、なにかの焦げる匂いがし、小火かとあわてて小屋の裏手にまわってみると。
川とのあいだに掘られた地下にアラム少年がうずくまって、開いた竈で小魚を焼いていた。
「サリアタ様におみやげ。フロリダス様も一匹、食べますか?」
彼も風呂に入ると思っていたのだが、日が暮れはじめたからか、焼きあがるのを待ってそのまま帰路に就いた。
先を歩く少年の右肩には、三尾の焼き魚が入った玉網が掛かっていた。
冷めきってしまうが、夕飯のおかずが一品、増えたようだ。
薄暗くなった森を抜け、夕焼け空を仰ぎながら北側の土地に入ると、一軒家の庭先にあるじがいて、波打っている布の庇を見あげていた。
強くなる夜風の当たり具合を確かめているような様子だった。
アラム少年が駆け寄っていく。
玉網ごと受けとって、破顔しているサリアタ氏に湯の礼を言う。
氏は焼き魚を二尾おれにくれようとしたが、一尾だけ頂戴した。
案内がとても助かったこと、彼に夕餉の礼も述べて、二人と別れた。
尾っぽをつかんだ焼き魚を、ぶらさげて歩く北の沿道。
暮れなずむ刻を拾いながら過ぎたコズヒメノグサの植え込みは、暗かった。
鶏たちの姿は一羽も見えず、皆もう寝床に入っているようだった。
目を凝らすと、うずくまる男は、まだそこにいた。
自分の寝床に入るなり、香ばしい匂いが漂った。
角灯の明かりを円卓に向けると、布をかぶせた盆が置かれてあった。
すぐにあがって布を取る。
盆に載った皿の上に、こんがりと焼かれた骨付き肉が、五本。
骨の形状からして肉はどうやら、鳥類のようである。
ぶつ切り肉の入った山菜の煮込み汁と、固そうな一個の麵麭。
ほのかに湯気立つその晩餐に、おれは焼き魚を添えた。
蝋缶に移した角灯の火を吹き消した。
ひときわ明るくなった食卓を前に、一礼する。
森の命をいただいた。
骨付きの肉は、塩をまぶして焼いてあり、とにかく美味であった。
バレストランド魔法使いの狩猟もさりながら、坊っちゃんの調理の腕も、見事である。
ここまで教え込んだのも、サリアタ氏なのか。
完食したい衝動に駈られたが、旨い白身の焼き魚もあり、三本で自制した。
おれの場合、腹八分目に抑えておかないと集中力がとんと続かない。
残りの二本は、のちほどいただくとしよう。
空けた食器を洗って戻した盆に、布をかぶせた。
新しい蝋缶の一個に、円卓の蝋缶から火を分け、二つの灯りを持って机に向かう。
時刻はまだ宵の口と思えるが、窓の彼方の西の森はすっかり暗くなっていた。
この土地は、姫様の言葉を借りれば、穢れた魂の溜まり場。
めったに姿をあらわさないと、マルセマルスカス氏は言っていた。
そもそも今まで、女神様が、おれの傍に在られたことが異常だったのだ。
その異常が、平常に戻っただけだ。
風が冷たく吹き込みはじめたので、ぱたんと閉めた。
歴史書の冒頭を今一度、確認する。
机の奥に写本をひろげ、文字列に沿って定規を置く。
竹紙の束から抜いた手元の一枚に、文鎮をのせた。
小鉢の蓋をあけ、万年筆の尖った先端を墨汁に浸す。
握りの部分に細工されている極細の長い溝に、毛細管現象で墨が吸いあげられていく。
脇の雑巾で、滴る筆先をかるく拭いた。
白紙の上に手を定め、写本に目線を落とす。
書き出した。
『時の波間に揺られていたのは、地球の記憶を持つ者ども。人類発祥の母なる星に生まれた彼らは、暗黒の大海原を超え、未開の岸辺に到達した。遡ること五十の年月。この星に、一隻の宇宙船が、降り立った。ロヴリアンスと、今では呼ばれる土地に彼らは根づく。宇宙船よりもたらされる巨大な力を糧として。彼らは戦災難民だった。自分たちを故郷から追いやった戦争を憎み、それを引き起こす人間の欲望を憎んでいた。魂の叫びとも言えるその深い憎悪が、築いた小さな社会から闘争の芽となり得る因子を、ことごとく摘んでいった。やがて、その憎悪の眼差しは、宇宙船にも向けられた。その胎内に息づく科学技術こそ、血で血を洗う惨劇の、最大の因子と見なされたからである。自給の基盤を大地に確立した彼らは、ついに、宇宙船の放棄を決断する。それは、文明から原始への回帰を意味した。ロヴリアンスの西。縹渺とひろがる、クグニエ海。その沖合いに運ばれた宇宙船は、浜辺に居並ぶ衆目の前で、海底に沈められた。これをもって紀元と定まる。地球の記憶を持つ者どもが、その分派から、この星の始祖となった瞬間であった。――。――。――』
作業は問題なく進み、雨夜の星たる太陽が三回昇った日の午後に、おれは筆を置いた。




