01
百枚足らずで仕上がった。
原稿を、とんとんと整えたその上に、そっと文鎮をのせた時――偶然なのか。
昼前まで降っていた名残りのような小雨が止んで、窓の彼方はきらめいた。
水化粧をした森の滴り。
ひさかたぶりの陽の光りに、耀くように照り映えた。
筆を握ったこの四日。
窓の向こうは、雨であった。
深い森に囲まれた魔法使いの隠れ家は、終日の長雨に、白く烟った。
あるじとはあの日以来まともに話しをしていなかった。
用足しに雨中へ出た折り、幾度か傘が行き合って、かるく立ち話をした程度だった。
一昨日の朝方だったか、遠く濡れそぼる一軒家の軒陰に、坊っちゃんを見た。
また見たと思う。
目を何度こすっても半透明だった。
庇の下には、大量のじゃがいもが積まれてあった。
わずかの雨間に度々、マルセマルスカス氏が訪れた。
雑談しながら不意に必ず顕微眼の目遣いをしていった。
無理をしていないか、診に来てくれていたようだった。
アラム少年も時々一緒にやって来て、そのたびに背嚢の中身を興味津々に眺め、あれこれと質問を受けた。
当地においては異物のような常人の客を、彼なりに、受け入れてくれたようだった。
二人はまるで親子のような距離感で、微笑ましく見た。
事情が少し、気になったが、聞かなかった。
それから一度だけ、セナ魔法使い。
マルセマルスカス氏に頼んでいた墨の補充をしに来てくれた。
ただ、小鉢を持った傘下の美人は、暇だったようで。
気にするなと言われ、学問を続けろと言われ、おれが向かった机の斜向かいに、坐り込み。
上がったばかりの原稿を、頬杖を突いて読んでいった。
ものすごく気が散った。
しばらくいた。
ほかの居住者とは、会うことはなかった。
鶏たちの退屈そうな塒の横は、ずっと無人だった。
うずくまる男も日がな一日、頭から水を垂らすのは好まなかったようである。
重苦しい曇天を時間に見あげる、静やかな雨音の四日間であった。
写本と仕上がった原稿を、清潔な布でまるごと包む。
小屋に籠っていたあいだ気づいたことがあった。
ルイメレクがおもちゃ箱に残した、土鉄と銀である。
自分のことで精一杯で、うっかりしてしまっていた。
規制金属の土鉄はともかく、銀は、貴金属。
売れば相応の額になる。
その銀を、氏は印画紙の作成に消費していたのだった。
放置状態とは言え師匠の遺品の一部であり、相続した個人資産に違いなく、礼のみで済ますわけにはいかない。
その代価についても、話す必要があった。
こちらから出向くつもりで靴を履いたのだったが、先に玄関扉を叩いたのは、依頼主のほうだった。
「ようやく雨があがったの。顔を見にきたよ」
玄関口の敷石で、靴底の泥を落としながら、微笑んだ。
恐縮しつつ、サリアタ氏を招じ入れる。
そうして今しがた、翻訳が完了した旨を伝えると。
「ずいぶんと早かったな。徹夜なんぞしておるまいな」
そう言って笑い、上がり框に腰かけたのだった。
履いた靴を急いで脱ぎ、板間にあがって布包みを――結果をおれは差し出した。
氏は頷いて、ひらいた布から原稿の束を手に取った。
見るなり、これはこれは、と声をあげた。
「綺麗な字だのう。師の字とはえらい違いだ」
「恐れ入ります」
細い目元に微笑の余韻を残し、原稿を読みはじめたその横顔を、ひそやかに窺う。
まもなく。
一頁目の文字列を辿っていた視線が、すっと脇に逸れ、また原稿に戻った。
歴史書の一文に、思考が引っかかったように感じた。
滞りのないままに何枚かめくったところで、顔をあげ。
「いやはや見事だ。フロリダス殿」
誉めの言葉をいただいた。
「これが本職の仕事か。恐れ入った」
おれは頭を下げながら――本職の仕事。
その言い方を受けて、目の前の原語写本を指し示した。
「こちらも、本職の仕事と申しあげて、よろしいかと」
ぱらぱら頁をめくっていた手がとまり、おれを見た。
怪訝そうな瞳を見つめ返し、疑問の一端を口にした。
「ルイメレク様は、この古語の読み書き。精通しておられたのでは、ありませんか?」
「……ほう。どうしてそう思う」
真顔で問い返された。
おれは根拠を説明した。
この原語写本が、逆翻訳である可能性を示唆する原稿の状態だったこと、それが事実であればルイメレク魔法使いの古語知識は、先祖学者に比肩すること。
そして、先生が言い残されたお言葉をいま一度話し、一人の先祖学者が一人の魔法使いを賢者と評し、その名を自分にだけ伝えた理由に、ルイメレク魔法使いが、先史人類となんらかのつながりを有していたと仮定すると合点がいくと述べ、水を向けた。
すると、サリアタ氏は――。
厚い瞼をぐっと閉じ、吐息まじりに何言か呟くと、すぐに取り繕ったような笑顔になって。
「ああ、そうだった」
不意に自分の腿を、ぱんと叩いた。
「見せようと思って、出しておいたのに忘れたわ」
くすくす笑う。
「おまえさんと話しをしていると、師の面影がちらつくのよな。姿は違えど、心向きがようく似ておるのだ。あの人も、ひとたび湧いた疑問を、疑問のまま、ほったらかしにはできん性分だった。その解消のためならば難儀も厭わない。そういう男だった。ルイメレクに……いや、おまえさんに、ルイメレクを会わせたかったよ。間に合わなかったがな」
穏やかに微笑んだ。
そうして原稿に向かって頭をさげると写本の横に置き。
「なるほどのう」
原語写本を取り、折り本の頁をひらいて、眺めた。
「この筆遣いは、間違いなく師の手によるものだ。けれど、この写本が、おまえさんの言う逆翻訳……とやらであるかどうかは、わしにもわからん。わからんが、ルイメレクが、この古語に詳しかったと言うのは、そのとおり。先祖学者に比肩するほどかどうかはともかくな。興味深く学んでいたことは確か」
氏の反応に兆しをみて、おれは膝を詰めた。
「ルイメレク様のそのご興味は、先史人類の言語に対してですか? それとも古語で書かれた原本に対してですか?」
「後者だ」
「モンデス卿のこの歴史書は訳本がすでに世に出ています。ルイメレク様が、原語を読み解くことを望まれた原本とは、どのような」
流れにまかせて踏み込んだ。
すると。
「まあ、そうなるわな。もっともな質問だ」
言って、鋭くおれを見返した。
その眼差しから、かちりと、掛金の外れる音がした。
「ルイメレクが興味を持ったのは……ご先祖の手帳だ」
きた。
「ご先祖の……手帳……。蔵書館の原語資料ですか?」
「違う。私蔵のものだ」
おれは絶句してしまった。
私蔵――個人所有の原本。
すなわち未発見の原語資料。
「だが本来の持ち主は、ルイメレクではない。言うなれば、借り物だった」
膝元の原語写本を叩く。
「この古語を、師が学んだのは、それが理由だ。その手帳に綴られていた言葉が、この古語だった……ということよ」
脇に置かれた翻訳原稿をかるく叩いた。
「そこに書かれてあったんは、今となってはわれわれの歴史だったよ。傷みが酷く、ほとんど判読できなかったがな」
過去に、ご先祖に近しい卑属が、居住地にて原語資料を発見する事例は、幾たびか、あった。
それらの報告は、しかし、すべて紀元前後に集中しており、現在に至ってはまったく聞かなくなった話しであった。
だが、あり得ない話しでも、ない。
ルイメレクが、古語解読者として立ち向かった原本は、未発見の先史文献……。
確認したい事柄が頭の中を錯綜したが、おれは黙って、うつ向いていた。
核心に通じる扉が、軋みをあげていく音に、どこか心地よく、耳を欹てていた。
たぶん、おれは今、笑っている。
手帳の所蔵者は、公文書館への届出をせず、秘匿した。
その現存を知った魔法使いの師弟も同様。
そしてルイメレクは、それを自分で読もうと考えた。
先祖学者に委ねず、古語随一の難解言語を学んでまで。
書かれてあったのは、われわれの歴史だそうだが。
(裾野の南は、樹海と呼ばれる森。そこに、賢者を訪ねよ。魔法使い。名は、ルイメレク)
ただの歴史では、おそらくあるまい。
「名は、ミラチエーゲと言う」
言葉におれは顔をあげた。
写本を見おろしていた眼差しが、こちらへ傾く。
「ミラチエーゲ・ルイメレク。それが、遥々おまえさんが求めて参った魔法使いの姓名だ。しかしな。あらためて思うよ。実際は、逆なのではと」
「……逆?」
「ミラチエーゲ・ルイメレクが、マテワト・フロリダスの現れるのを、待っていた。師こそが、おまえさんのような人間を求めていた。そう思えてならんのだ」
武者震いのような感覚が、背筋を走った。
「人が織り成すこの世の綾とは、まこと、不思議なものよのう。フロリダス殿」
言いながら腰をゆっくりと浮かせ、立ちあがった。
「近いうちに、おまえさんに手帳を見せる。今はもう、わしの手元にはないのだ。然るべき場所に保存してある。もっとも、現物は話したとおり、ぼろぼろでな。ろくに読めはせんのだが、本物を見ながらのほうがわしの説明も、おまえさんの理解も早いだろうから。森が乾くのを待って、参ろう。まあ、思うところも多いだろうが、詳しい話しはその時に」
おれは低頭した。
「承知いたしました」
「それとは別になあ。見せたいものがあってな。出して卓に置いといたのに、持ってくるのを忘れた」
険しかった目つきが、やわらいでいた。
「なんでしょうか」
「ルイメレクの写真だ。元気だった頃の師の姿をおさめた銀塩写真が、一枚あるんだよ」




