01
じゃがいも畠に刻まれた、正負数の加法式。
ふと、学生の頃。
先生のお宅に転がり込んでいた日々を思い出す。
手足のごとく走りまわった。
先祖学者アポニ・ドレスンは、賢者だった。
拾い集めた茎葉を沿道の一隅にまとめて置いて、おのれの欲求もひとまず置いた。
畠仕事は不慣れだったが、置かれたままの鎌を取る。
そうしてあるじの手際を真似て、じゃがいもの青葉を刈りはじめた。
鎌刃に、土がこびりついていた。
今の今まで、まったく注意が向かなかったが、隙間に覗く刃の色味は、黒だった。
鉄である。
百年前まで、鎌のほか鍬や鋤などの農具には、木や石が使われていた。
それが銅に置き換わり、食糧増産から人口増加につながったが、鉄の発見によって農業従事者の銅に対する不満が高まり、鉄の需要が一気に高まった。
木や石に比べれば、金属製の道具は成形が容易であるものの、銅は強度に難があり、青銅であっても頻繁な修繕を要した。
田畠を保つ農具にこそ、強靭な鉄が求められた。
鋼鉄製の蒸気機関がことごとく解体された背景には、そうした強い民意があった。
これまでに採掘された鉄の消費先の八割は、農具であり、鉄製農具の普及率は現在、農業従事者の九割と謂われている。
市場経済を構築した社会で計上されるその偏った数字は、中央議会が買い上げた鉄鉱石で製作された鉄製農具を、農業従事者に賃貸しするかたちで達成された。
よって市場に流れる鉄は、鉄鉱山の低迷もあって総産出量のおよそ二割であり、農具以外の鉄製品の高騰が常態化している。
方位磁針の入手に際し、おれも門前払いをくらっていた。
鎌刃の根元の土をぬぐった。
やはり、中央議会の刻印があらわれた。
この鉄鎌は、政庁から賃借したもの。
その契約には、条件が二つあった。
一つは、農業従事者であること。
一つは、自治体に属し、身元があきらかであること。
おれは首を傾げた。
樹海の奥地に隠れ住まう魔法使い。
果たして、条件を満たしているかどうか。
あやしいところである。
と、なると。
この鉄製農具の借り主となっている名義人は、サリアタ氏ではない可能性。
背後で、ぎぎぎぎ、と扉の軋む音がした。
屈んだまま振り返ると、便所脇の水甕で手を洗う当地のあるじが、おれを見ていた。
首にかけた手ぬぐいで濡れた手をふきながら、沿道の東側にまわり込んだところで、不意に足をとめ、コズヒメノグサの果樹園のほうへ顔を向けた。
「リリ。ちょっと来てくれ」
離れた人物に呼びかけるには声量が小さく思えたが、その場で立ち話をしていたマルセマルスカス氏は反応した。
サリアタ氏がおれに向きなおり、笑いながら言った。
「おまえさんが鎌の上手なら、是非ともお任せしたいと思うがな。どうやらそうではないらしい。そんなへっぴり腰では、つんのめるぞ」
「ご用ですか」
まもなく傍らに立った魔法使いに、サリアタ氏が。
「客人の具合。みておくれ」
言って、畝に入ってきた。
おずおずと腰をあげたおれの手から、鎌を取ると、背中を押した。
「いいから。わしに付き合うことはないよ」
「どうぞ、こちらへ」
二人に促され、頭をかきながら沿道に出た。
マルセマルスカス氏の前に立つと、彼は微笑み、頷いた。
失礼しますと言って、にわかに目つきを鋭くした。
見ているような、見ていないような、なんとも不思議な目遣いで、おれの全身を眺めていく。
透視に身を曝しながら、彼の足元へ視線をやった直後。
「結構です」
顔をあげると、険しかった眼差しが、ふっと弛んだところだった。
「右肩の炎症は、もうだいぶ、ひいていますね。よかった。ほかに注意すべき点も、とくに認められない。あえて申しあげれば、寝不足です」
「どうだ。塩梅は」
「問題ありません」
「フロリダス殿」
畠のなかの魔法使いが、笑って言った。
「おまえさんのことだから、しばらく養生せいと申しても、横になってばかりでは逆に落ち着かんだろう。体調に支障がないようなら、長患いからの病みあがりに、一つ、頼みごとでもするか。先祖学の先生には、鎌ではなく、筆を持ってもらおうかな」
「筆を――ですか?」
「うむ。おもちゃ箱の中にな。ほったらかしにしている本が、一冊あってな。その翻訳を頼みたい」
「翻訳を?」
「ルイメレクが遺していった本だ」
聞いて、とっさに真横の人物へ顔を向けると。
悪戯っぽい笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
サリアタ氏が言う。
「どうやら不親切な教科書の写しのようなんだが、原本をそのまま筆写したものらしくてな。おまえさんなら、読めると思うんだが、どうだろう」
ルイメレク魔法使いが遺した、原本の写し?
「驚きました。原語写本をお持ちとは」
「しっちゃかめっちゃかだったおもちゃ箱を整理していたときに出てきたんだよ。師の筆跡だった。悪筆だから読みにくいかもしらんが」
息をのんだ。
サオリ。
夢の森での道中、マルセマルスカス氏から聞いた、あの神木の呼び名。
その語感は、先史人類の一言語圏の表音文字の発音に似ていた。
しかも意味は、神の降臨。
語源を踏まえての命名だった。
「ルイメレク様は、古語を、読まれたのですね」
「読んだ。と、おまえさんに答えるのは、おこがましいとは思うが、独学でな。好奇心の強い人だったからのう。だが、わしがそれを見つけたのは、ルイメレクが天に昇がったあとだった。そうなってしまうともう、呼びかけてもなしの礫だ」
古語を学び、読むことができたルイメレク。
先生は言うに及ばず。
面識のない二人の賢者が、つながった。
「わが師の遺品。その写本の正体を、現職の先祖学者に、見極めていただきたい。どうだ? やってくれるか?」
断る理由が、どこにあろう。
だが、翻訳となると、問題は原文。
その言語がなんであれ読解の自信はあったが、それぞれの辞書なしでは語彙に乏しい。
正確な訳出に不安がある旨を伝えると、サリアタ氏は片手をひらひらと振った。
「構わん構わん。内容がわかればよい」
「拝見させてください」
「助かるよ。リリ」
「承知しました。ご案内します」
「きちんと滋養も摂ってな。バレストランドはまだ戻らんか」
茎を放り投げながら、独り言のように。
「いったいどこまで行ったんだか」
「日暮れまでに帰らなかったら連れ戻します。遊び歩いてるに違いありませんから」
応えたマルセマルスカス氏が、おれを促した。




