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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
己の座標

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63/219

02

 東の沿道を北に向かう。


 ルイメレクが遺した、原語写本。

 その翻訳。

 よもや、樹海のこの奥地で、仕事をすることになるとは。

 案外の依頼だったが、沸き立つような気分だった。

 わくわくしていた。

 久しく忘れていた感情だ。


 そう思ったおれを見て、同行の魔法使いが。


「こういう言い方は、失礼かもしれませんが。ようやく、フロリダス様ご本人にお会いできるような、そんな感じがしています」


 言われ、おれは苦笑した。

 自分でもそう思うと答えると、彼は相好そうごうを崩し、楽しそうに笑ったのだった。


 おれの身体の具合の見立てに、サリアタ氏は、この人物を呼んだ。

 顕微眼けんびがんの使い手を。

 かねてよりの推測が口をつく。


「マルセマルスカス様は、お医者様ですか?」


 すると、眩しそうに両目を細め、微笑みながら、首を横に振った。


「その成りそこないみたいなものです。なので今は、ただの趣味です」


 過去、医師をこころざした。

 叶わなかったのか。

 彼は笑って答えてくれたが、古傷に、触れてしまったかもしれない。

 だが趣味と言っても、その眼力は確かだろう。

 でなければサリアタ氏が、わざわざ呼ぶはずがない。

 おれは話しを変えた。


「こちらには、何人くらいの魔法使いの方が、お住まいなのですか?」


「わたしと、同じような弟子入り志願の客分が、もう一人。今ちょっと出ておりまして」


「ああ、サリアタ様がさっき、バレストランドと」


「そうです。アラマルグ・バレストランド。サリアタ様は名字でお呼びになりますが、わたしはアラムと呼んでいます。のちほどご紹介します。それから」


 おもむろに畠の西を指し示した。

 とやの傍らに、うずくまった背が見えた。


「あの男も、長いですね。しかし、素性に関しては、なにもわかりません。われわれと一切、交渉を持とうとしないのです。ずっとあんな調子で。今ではもう風景の一部と化してます。だいぶ前に一度、ポハンカに、記憶をみてくれと頼んだことがあるのですが、絶対に嫌と断られました」


 苦笑い。


「ほかにも何人か、新参の者がおりますが、古参のわれら二人と無名の一人が、サリアタ様にとって、馴染みの顔ぶれ、と言ったところです。ポハンカも含めて、常在じょうざいは四人ですね。ただ、彼女は弟子志願ではありません。わたしらとは滞在の経緯が違ってまして、サリアタ様の手引きでここに。事情は、お聞きになりましたか?」


「ええ。おおむね」


 答えた時、ともども足が差しかかったのは、コズヒメノグサの植え込みだった。

 その木陰から、すっと月色の寛衣かんいが出て、道端に立った。

 両腕を、胸元で組んで小首を傾げ、無表情。

 沿道を横切っていくマルセマルスカス氏の顔を、じっと目で追う。

 捕捉されている魔法使いは、前方をかたくなに見つめ、押し黙り、そのまま通り過ぎた。

 おれとちらりと、視線をかすめた魔女の微笑。


「アラムは、性格は穏やかなのですが、ちからの指向性が非常に攻撃的で、なにかと重宝しております」


 心なしか安堵したような声音が、続けた。


「自分の立場を棚にあげて申しますと、この場所には、サリアタ様のおちからに気づいた者が、様々の理由で寄って参ります。彼らは無害の訪問者ですが、ただ、そうしたなかに、たまさか。有害の紛れ込んでいることが、ありまして」


「有害?」


「姿は人でも、心はもはや、人で無し。そんな人面邪心じんめんじゃしんやからです。とは言えご安心を。そのような者はめったにあらわれませんし、あらわれたところでサリアタ様のお膝元。すぐに追い払われます。その払いの役目を、おもにアラムが。わたしでは手に負えない相手や、サリアタ様が手をくだすまでもない相手は、彼が対応し、懲らしめてくれています」


「ほう。それはそれは」


 姿は人でも、心はもはや、人で無し。

 耳の痛い言葉だった。

 おれも一歩、違えたら、その仲間入りをしていたかもしれない。


「と、言うことは。なにか、あったのですか」


「いやいや、違います。アラムのちからはとても尖っていて、狩りにも使えるので、朝から森に行かせているのです。ここの鶏たちを絞めると、坊っちゃんが怒って泣いて大変なんです。あ、坊っちゃんのことは」


「聞きました。いやはや、まったく驚きました」


 感嘆して答えると。


「ええ、ええ」


 相槌を打ったマルセマルスカス氏の表情は、どことなく、自慢気だった。


 近づきつつあるおもちゃ箱の向こうからその時、路地を曲がってこちらへ歩いてくる女性が一人。

 金髪で、肩にかかる程度の長さ、寛衣かんいを着ており、柄物がらものの大きな布を腰に巻いていた。

 目鼻立ちのはっきりした派手な顔つき。

 年齢は、三十絡みと思えた。


 すれ違いで互いに会釈し、行き過ぎる。


「十日ほど前に来た魔法使いです。例のごとく、サリアタ様のおちからに引かれて参ったと。そろそろ帰ると言っていたので、そのうちいなくなるでしょう。いつ帰るのかな」


 言いながら彼は振り返った。

 釣られておれも振り向くと、相手もこちらを返り見て、恥ずかしそうに微笑んで、小さく手を振った。

 おれは辞儀を返した。

 隣を見ると、手を振っていた。


「話しを戻しますが。今晩からしばらく、献立に肉料理が加わります。しっかり栄養を摂ってください」


「肉料理ですか」


 栄養?


 ただちに察し、少しあわてた。


「もしかして、バレストランド魔法使いは、わたしのために、狩りを?」


 恐縮して訊ねると、おもちゃ箱の扉の前で、魔法使いが言った。


「サリアタ様ご自身、定期的に獣肉けものにくを食されるのです。生命力を食らうことで、肉体を持たぬ霊的存在への抵抗力を高めるためです。なので、こたびの狩りもそのため。お気になさらず」


 穏やかに笑いかけながら、閉じている扉に向かって、右手をかるく払った。

 すると扉が、ゆっくりと、ひらいていく。

 そうして今度は家内の暗がりに向かって右手をもたげ、なれた動きでくうを払うと、奥の壁の両開きの窓が、ひらいたのだった。


「なるほど」


「どうぞ。足元ご注意を」


 窓辺から午後の陽が射し込んだ屋内へ、おれも続いた。




 年季を経た建材に染み込んでいるのか、棚に散らばる小瓶から漏れているのか。

 入るなり、やはり独特の臭気が彷彿ほうふつと、鼻腔をかすめた。

 先に入ったマルセマルスカス氏は、右側の棚の前に立ち、いくつかの袋に手をのばしていた。

 左側の三段の棚の中段の半ば。

 実際に木箱を前にすると、今はまだ、動揺する自分の心が、ままならなかった。

 だが、今でこそ、見えなくてよかったと思う。

 あの時、闇一色だったこの小屋の中に。

 かすかにでも君の姿を、見てしまっていたら。

 おれは、正気でいられただろうか。

 セナ魔法使いの言葉に、苦痛を感じることが、できただろうか。


 深呼吸を一つして、蓋に手を置いた。

 力を込めて持ちあげると、裏に貼られた印画紙は。

 中央部分に認められたまばらであった黒ずみが、放射状にひろがって、一層に濃く変じていた。

 それはまるで。

 太陽の輝きのようだった。


「マルセマルスカス様も」


 静かに蓋を閉じ、振り返る。


「気づいておられたのですね。夢の森で、お会いしたとき。すでに」


 魔法使いの探す手が、とまった。

 しばしの、とまっていた。

 そのうしろ姿に、言葉を探す思慮を見た。

 やがて、小さく何度も頷いて、ふたたび袋の中身をあらためながら。


土鉄つちがねの板で、封じをほどこす際。あなたは、手離すのをためらわれた。そして自分でやらせてくれと、言われた。気づいたのは、その時です。姫様が訴えておられた、不吉の原因に。ですが」


 咳払いをした。


「それはもう過去のこと。昨日までのあなた──と言うより。もはや過去のあなたです」


 振り返り、まっすぐにおれを見た。


「マテワト・フロリダスは、終わってなどいない。むしろこれから」


 右手を差し出した。


「始まろうとしている」


 その手が持つのは、一冊の本だった。

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