02
東の沿道を北に向かう。
ルイメレクが遺した、原語写本。
その翻訳。
よもや、樹海のこの奥地で、仕事をすることになるとは。
案外の依頼だったが、沸き立つような気分だった。
わくわくしていた。
久しく忘れていた感情だ。
そう思ったおれを見て、同行の魔法使いが。
「こういう言い方は、失礼かもしれませんが。ようやく、フロリダス様ご本人にお会いできるような、そんな感じがしています」
言われ、おれは苦笑した。
自分でもそう思うと答えると、彼は相好を崩し、楽しそうに笑ったのだった。
おれの身体の具合の見立てに、サリアタ氏は、この人物を呼んだ。
顕微眼の使い手を。
かねてよりの推測が口をつく。
「マルセマルスカス様は、お医者様ですか?」
すると、眩しそうに両目を細め、微笑みながら、首を横に振った。
「その成り損ないみたいなものです。なので今は、ただの趣味です」
過去、医師を志した。
叶わなかったのか。
彼は笑って答えてくれたが、古傷に、触れてしまったかもしれない。
だが趣味と言っても、その眼力は確かだろう。
でなければサリアタ氏が、わざわざ呼ぶはずがない。
おれは話しを変えた。
「こちらには、何人くらいの魔法使いの方が、お住まいなのですか?」
「わたしと、同じような弟子入り志願の客分が、もう一人。今ちょっと出ておりまして」
「ああ、サリアタ様がさっき、バレストランドと」
「そうです。アラマルグ・バレストランド。サリアタ様は名字でお呼びになりますが、わたしはアラムと呼んでいます。のちほどご紹介します。それから」
おもむろに畠の西を指し示した。
塒の傍らに、うずくまった背が見えた。
「あの男も、長いですね。しかし、素性に関しては、なにもわかりません。われわれと一切、交渉を持とうとしないのです。ずっとあんな調子で。今ではもう風景の一部と化してます。だいぶ前に一度、ポハンカに、記憶をみてくれと頼んだことがあるのですが、絶対に嫌と断られました」
苦笑い。
「ほかにも何人か、新参の者がおりますが、古参のわれら二人と無名の一人が、サリアタ様にとって、馴染みの顔ぶれ、と言ったところです。ポハンカも含めて、常在は四人ですね。ただ、彼女は弟子志願ではありません。わたしらとは滞在の経緯が違ってまして、サリアタ様の手引きでここに。事情は、お聞きになりましたか?」
「ええ。おおむね」
答えた時、ともども足が差しかかったのは、コズヒメノグサの植え込みだった。
その木陰から、すっと月色の寛衣が出て、道端に立った。
両腕を、胸元で組んで小首を傾げ、無表情。
沿道を横切っていくマルセマルスカス氏の顔を、じっと目で追う。
捕捉されている魔法使いは、前方を頑なに見つめ、押し黙り、そのまま通り過ぎた。
おれとちらりと、視線をかすめた魔女の微笑。
「アラムは、性格は穏やかなのですが、ちからの指向性が非常に攻撃的で、なにかと重宝しております」
心なしか安堵したような声音が、続けた。
「自分の立場を棚にあげて申しますと、この場所には、サリアタ様のおちからに気づいた者が、様々の理由で寄って参ります。彼らは無害の訪問者ですが、ただ、そうしたなかに、たまさか。有害の紛れ込んでいることが、ありまして」
「有害?」
「姿は人でも、心はもはや、人で無し。そんな人面邪心の輩です。とは言えご安心を。そのような者はめったにあらわれませんし、あらわれたところでサリアタ様のお膝元。すぐに追い払われます。その払いの役目を、おもにアラムが。わたしでは手に負えない相手や、サリアタ様が手をくだすまでもない相手は、彼が対応し、懲らしめてくれています」
「ほう。それはそれは」
姿は人でも、心はもはや、人で無し。
耳の痛い言葉だった。
おれも一歩、違えたら、その仲間入りをしていたかもしれない。
「と、言うことは。なにか、あったのですか」
「いやいや、違います。アラムのちからはとても尖っていて、狩りにも使えるので、朝から森に行かせているのです。ここの鶏たちを絞めると、坊っちゃんが怒って泣いて大変なんです。あ、坊っちゃんのことは」
「聞きました。いやはや、まったく驚きました」
感嘆して答えると。
「ええ、ええ」
相槌を打ったマルセマルスカス氏の表情は、どことなく、自慢気だった。
近づきつつあるおもちゃ箱の向こうからその時、路地を曲がってこちらへ歩いてくる女性が一人。
金髪で、肩にかかる程度の長さ、寛衣を着ており、柄物の大きな布を腰に巻いていた。
目鼻立ちのはっきりした派手な顔つき。
年齢は、三十絡みと思えた。
すれ違いで互いに会釈し、行き過ぎる。
「十日ほど前に来た魔法使いです。例のごとく、サリアタ様のおちからに引かれて参ったと。そろそろ帰ると言っていたので、そのうちいなくなるでしょう。いつ帰るのかな」
言いながら彼は振り返った。
釣られておれも振り向くと、相手もこちらを返り見て、恥ずかしそうに微笑んで、小さく手を振った。
おれは辞儀を返した。
隣を見ると、手を振っていた。
「話しを戻しますが。今晩からしばらく、献立に肉料理が加わります。しっかり栄養を摂ってください」
「肉料理ですか」
栄養?
ただちに察し、少しあわてた。
「もしかして、バレストランド魔法使いは、わたしのために、狩りを?」
恐縮して訊ねると、おもちゃ箱の扉の前で、魔法使いが言った。
「サリアタ様ご自身、定期的に獣肉を食されるのです。生命力を食らうことで、肉体を持たぬ霊的存在への抵抗力を高めるためです。なので、こたびの狩りもそのため。お気になさらず」
穏やかに笑いかけながら、閉じている扉に向かって、右手をかるく払った。
すると扉が、ゆっくりと、ひらいていく。
そうして今度は家内の暗がりに向かって右手をもたげ、なれた動きで空を払うと、奥の壁の両開きの窓が、ひらいたのだった。
「なるほど」
「どうぞ。足元ご注意を」
窓辺から午後の陽が射し込んだ屋内へ、おれも続いた。
年季を経た建材に染み込んでいるのか、棚に散らばる小瓶から漏れているのか。
入るなり、やはり独特の臭気が彷彿と、鼻腔をかすめた。
先に入ったマルセマルスカス氏は、右側の棚の前に立ち、いくつかの袋に手をのばしていた。
左側の三段の棚の中段の半ば。
実際に木箱を前にすると、今はまだ、動揺する自分の心が、ままならなかった。
だが、今でこそ、見えなくてよかったと思う。
あの時、闇一色だったこの小屋の中に。
幽かにでも君の姿を、見てしまっていたら。
おれは、正気でいられただろうか。
セナ魔法使いの言葉に、苦痛を感じることが、できただろうか。
深呼吸を一つして、蓋に手を置いた。
力を込めて持ちあげると、裏に貼られた印画紙は。
中央部分に認められた疎らであった黒ずみが、放射状にひろがって、一層に濃く変じていた。
それはまるで。
太陽の輝きのようだった。
「マルセマルスカス様も」
静かに蓋を閉じ、振り返る。
「気づいておられたのですね。夢の森で、お会いしたとき。すでに」
魔法使いの探す手が、とまった。
しばしの間、とまっていた。
そのうしろ姿に、言葉を探す思慮を見た。
やがて、小さく何度も頷いて、ふたたび袋の中身をあらためながら。
「土鉄の板で、封じをほどこす際。あなたは、手離すのをためらわれた。そして自分でやらせてくれと、言われた。気づいたのは、その時です。姫様が訴えておられた、不吉の原因に。ですが」
咳払いをした。
「それはもう過去のこと。昨日までのあなた──と言うより。もはや過去のあなたです」
振り返り、まっすぐにおれを見た。
「マテワト・フロリダスは、終わってなどいない。むしろこれから」
右手を差し出した。
「始まろうとしている」
その手が持つのは、一冊の本だった。




