03
「足労を癒すにも英気を養うにも時がかかろう。しばらくは、ここにいなさい」
そこで視線を戻したおもちゃ箱に、ところが今見た姿がない。
しばたたき、周辺に目を配るも、見当たらなかった。
「なにより石が、まだ石座に嵌まったままだ。因縁は深かろうがのう。それでもやはり、あの首飾りは、おまえさんの手元に残してやりたい。どうかな。その洗濯。とりかかってもよろしいかな?」
はっとして、向きなおった。
「はい。お手数をおかけします。よろしくお願い、いたします」
ひきつっているはずの顔を、ぎこちなく縦に振るおれを見て、氏は鷹揚に頷いた。
見間違いではない。
遠目だったが、おもちゃ箱から出てきたのは、サリアタ魔法使いだった。
おれはひざを詰めた。
「実は、昨晩――」
麦藁帽子のつばがもちあがった。
「――夜遅く。就寝後のことなのですが」
寝床の小屋に、ご本人と思われる人物があらわれ、空の食器を持って去ったこと。
ふるまいは、しかし、子供じみた印象であったこと。
その旨をマルセマルスカス氏に告げたところ、坊っちゃんと言う呼び名を教えてもらったことを、おれは話した。
加えて、たった今、目にしたことも。
すると氏は、ぽかんと口をあけ、きょとんとした顔をして、しばらくこちらを見つめたあと、ああそうか、と、なにかに気づいたように呟いて。
「それは、わしのワケミタマだ」
笑ったのだった。
ワケミタマ?
「そうだったな。坊のこと、話しとらんかったな。すまんすまん」
ワケミタマ――その言葉。
聞き憶えがあった。
マルセマルスカス氏から。
確か、姫様の素性を、教えてくれた時だ。
(魂という言葉が、一般に与えている意味は、存在の根源としての観念ですが、それだけでは片手落ちです。生きとし生けるもの、それぞれに宿る魂は、母体となる存在から生じ、個体となった存在。その意味も含めた存在の根源をあらわす言葉を、分魂と言います)
唖然となった。
「坊はな、わしの魂から分かれた魂なんだよ。だいぶ昔に搾り出した。こうやって、ぽんとな」
「ぽんと」
まるで大便でもするかのように、気張って見せた。
「わしから生じた存在だが、自我は異なる。個の魂だ。あれの精神年齢が幼いまま、成長しない理由は、よくわからん。肉体を持ったことがないからかもしれんな。人間になったことがないから、見かけの姿が、わしのまんまだ。おのれの醜悪さにうんざりしとるよ」
ちらりとおもちゃ箱へ目をやって、苦笑した。
「それでも用は足りとる。肉体なんぞなくともな。物質をあやつる術を教え込んであるから、食事の支度、洗濯や掃除、鶏たちの世話。この不器用な手に余る不可欠な作業をあれこれとやらせておるのよ。なかでも作物の収穫は、坊のお気に入りでな。わしが掘ってしまうと泣くのだ。そのくせ、いつ掘るかは気分次第。まったく、気まぐれで困るわい」
おれは大いに面食らった。
人間が、自己の魂から、別の新たな魂を生み出す。
推測のはるか上をいく、人間離れした回答だった。
神秘的な出来事にはもうすっかり慣れたつもりであったが、おれはそのなにも解っていないということが、よくわかった。
あの食事。
用意してくれていたのは、サリアタ氏の分魂――坊っちゃんだったのか。
それで食器をさげにきたのかと、納得しつつ。
はっと気づいて、訊ねた。
「では昨日のわたしの出迎えも?」
「ああ、そうそう。あれも坊だ。おまえさんからは石の力が漏れておったから、迎えもリリにやらせるつもりでおったのだが、別件に行かせてしまってな。姫様がご同行されていたし、そのうち勝手に入ってくるだろうと思って、わしは土をいじりながら待っておった。おまえさんに言われて、坊が迎えに出ていたことを知ったが、あのときはそれどころではなかったからなあ」
そうだった。
目の前のこの老人は。
女神である姫様が、頼みとした魔法使いなのだった。
只者であるはずがなかった。
動揺が、表情に出てしまっていたのだろう。
おれの顔をまじまじと見て、やがて嗄れた笑声をこぼしながら、頷いた。
「いかにも。誰彼とできる仕業ではないかもな。けれど魂は、魂から生まれる。そのこと自体に不思議はない。そうなっているからくりについては……。うむ、聞いてくれるな。わしにもわからん」
(生きとし生けるもの、それぞれに宿る魂は、母体となる存在から生じ、個体となった存在)
あらためて、考えてみると。
それは、因果性の葛藤だった。
魂は、魂から生まれる。
ならば、その始源となる最初の魂は、なにから生まれたのか。
沿道に散らばる葉を、啄んで遊んでいる鶏たちに目をやった。
鶏が先か、卵が先か。
それと同じような葛藤に陥る理屈である。
おれは我慢ができなかった。
その難題を、魔法使いに投げかけた。
するとサリアタ氏は、麦藁帽子をうつ向け、にやりと笑って、沈黙したのだった。
手に持った茎をいじりながら、土をほじくり、やがて言った。
「フロリダス殿は、疑問を疑問のままには、しておけないご性分。たとえ真実の答えにはたどり着けずとも、自分なりに納得する答えを見いだすことを望まれる。であるから。目の前に疑問を残したままでは、動けない。すべての疑問が解消されたときが、腰のあげ時」
よっこらしょ、と立ちあがった。
「それにしても。この態勢でずっとおると、どうしても、したくなるのう」
破顔し、頷きかけた。
「昨日までのおまえさんは、死を道連れにしておった。その男が腰をあげる答えを、口にするつもりは毛頭なかった。だが、今日からのおまえさんになら、答えてもよいと思っとるよ。首飾りの洗濯も、時がかかる。そのあいだ、日をかけて、じっくりと話しをしようではないか。とりあえずな、わしは屎をする」
小走りに沿道へ出た。
「講釈師ー、見てきたような嘘をつきー」
唄うように言いながら、サリアタ氏は便所に去った。
一人になった畠の畝で、半ば呆然と、刈られた茎を集めながら。
今の話しを反芻した。
樹海の魔法使いが指摘した、疑問とは、おそらく。
先生のお父上様であるドレスン氏が、当地にとどまった理由。
そもそもルイメレクが、この樹海に居を構えたのは、なぜなのか。
渓流沿いの洞窟で見た、あの廃れた鉄造の蒸気機関は、誰が、いつ、なんのために。
確かに、たとえ帰り支度が整っても、それらの答えを知るまでは、帰れない。
なにも得ずに立ち去れば、石とは別の心残りを、この森に残すことになる。
(昨日までのおまえさんは、死を道連れにしておった。その男が腰をあげる答えを、口にするつもりは毛頭なかった。だが、今日からのおまえさんになら、答えてもよいと思っとるよ)
閉じられた扉の鍵を手渡すようなその言葉に、胸が高鳴った。
魂の起源の問題については、煙に巻かれたような気が、しないでもなかったが。
坊っちゃんの正体を知って、その料理の腕前はなかなかのものだと思い、献立なども坊っちゃんが自分で決めているのだろうかと考えながら。
あらかた茎を拾い終えた時だった。
サリアタ氏が屈んでいた辺りの土に、細い溝が掘られていることに気がついた。
近づいて、見おろした。
(+1)+(-1)=0 ?
畠の土に描かれていたのは、初歩的な正負数の加法式と、一個の疑問符だった。
なんだろうと思った。
そういえば、先ほど氏は、持っていた茎の先端で、土をほじっていた。
これを書いていたのか。
魂の因果性の葛藤を、問いかけた時だ。
覗き込んだ。
どういう意味だろう。
正数と負数の足し算。
その単純な式を見て、つくづくと見て。
魂は魂から生まれる。
ならば、その始源となる最初の魂は、なにから生まれたのか。
はっとなり、おれは瞠目した。
零から、正負の一が、生まれている。
始源の魂は、零から生まれた?
がばりと顔をあげ、便所に目を向けた。
現象は、無からでも生じうる可能性があることを、この式が示唆している。
そういうことか。
「おもしろい」
思わず、口からこぼれた。
正数一が意味しているのは、霊魂。
負数一が意味しているのは、物質。
正負二つの次元が重なり合っているのが、この宇宙。
そして宇宙の始まりは、零。
その解釈が、真実であるか否かは、どうでもいい。
鶏が先でも卵が先でも、天下は成り立つ。
単純な数式に、因果性の葛藤のみならず、宇宙開闢をも観るその着眼が、おもしろいと思った。
畠のなかに建つ、簡素な掘っ立て便所のなかで、頑張っているはずの魔法使い。
心が、ぐぐっと彼方へ傾くのを、おれは感じた。




