02
淡い翠の艶やかな光源に接した時、モハネトク鉱石のような女性と思った。
その印象、当たらずとも遠からずであったようだ。
異能者特有の機微などおれには想像を絶するが、彼女はかつて、ゆえに心に闇をかかえた。
樹海の魔法使いに頭をさげられ、とても困惑したが、彼女を闇から救い出したサリアタ氏は、その身柄を当地にとどめている保護者であり、言動にも責任を負っているということなのだろう。
氏の意を察しながら我を通した昨夜の発言は、血のつながりに似た甘えによるものか。
古株のマルセマルスカス魔法使いは、当地のあるじを、サリアタ様と呼ぶ。
セナ魔法使いは、当地のあるじのことを、お爺ちゃんとも呼ぶ。
結って垂らした長い黒髪が、風に靡いていた。
無表情で小首を傾げ、麦藁帽子を目で追っている彼女を見ながら、ゆっくりと立ちあがった。
魔女の視線がこちらへ向いた。
背筋がぞわりと粟立ったが、避けなかった。
その感覚はきっと、いまだ拭いきれない彼女の闇だ。
「あら。どなたかと思ったら、フロリダス先生」
切り揃えられた前髪に隠れる魔法使いの徴が、わずかに覗いた。
「セナ様。いただいた数々のお言葉、沁みました。本当に、ありがとうございました。目が醒めた思いです」
「そのようね。男振りまで上がったんじゃない?」
それはなんとも、と苦笑いすると、続けて彼女が。
「ついでに。あなたにも言っておく。一応ね。言い忘れたことよ」
鎌を振る手がとまった。
顔の強張るのが自分でわかった。
「はい。なんでしょうか」
「わたしは、無理だから。ほかの女を当たってちょうだい」
すぐには言葉が出なかった。
先ほど、サリアタ氏が口にした。
(一人の女として、母親として生きる道も)
(誰かを愛して。あなたの子を)
昨晩、去り際に自身が告げたその言葉を踏んでの牽制。
あるいは、すでに意中の男性がいるからか。
そう思ったが、しかし。
視線に敏感な彼女であれば、とっくに気づいているのでは。
畠のなかに立つ男に、そんなゆとりなど、ない。
それでも彼女が、わざわざ言い添えた真意が、奈辺にあるのかが、わからなかった。
ただ、なんの抵抗もなく、おれは微笑むことができた。
「なるほど。わかりました。残念ですが」
最後は下手な世辞だったが。
ぞくりと、流し目をくれ。
「心にもないことを」
やはり通じていた。
「でも、悪い気はしない。素直に受けとっておくわ」
西に向かって去ったセナ魔法使いが、うずくまる男を素通りしたところで、サリアタ氏は鎌を置き、畝に溜まっている刈り取った茎を無造作に投げはじめた。
沿道にはそれらが散らばっており、じゃがいもの茎葉には毒が含まれていると聞くので肥やしにするのだろうなと思い、その作業を手伝うと、氏が小声で言った。
「深く反省しております、などと、殊勝なことを申しておったが、反省なんぞしとらんぞあれは……。しかし、まあ、当人のおまえさんが、あれの仕業を是とするなら、なにも申すまい。実際のところ、同じ意味合いの話しをだ。この爺いの口が申して、同じ結果になったかどうか。果たしてな」
投げる手をとめ、持ったままの茎を見おろした。
「おまえさんは、一人で背負うには重過ぎる荷を、背負って参った。その男に、さらなる重荷を負わせることは、酷な気がしてのう。悪意がつくりだした呪いでないのはあきらかだったから、迷いが生じた。真実を知らぬままでも、解決する方法が、あるのなら、そちらの道へ案内してやれば、よいのではないか。時間が必要なら好きなだけここにおれと、申したが、時間が必要だったのは、実はわしのほうなのだよ」
手ぬぐいを払って汗をふきながら、苦笑した。
「そんな考慮など七面倒とばかりに、あれが早々ぶちまけてしもうたがな。その手段は、ともあれ。幸い、深刻な難もなく、おまえさんは峠を越した。くだり坂に入ったが、麓まで、道はまだまだ続いとる。終点にたどり着く距離は、向後の念慮次第だが、ひとたび姿をもった呪いを、魔法ではなく、道理で、あとかたもなく消し去るには、長らくの時を要するだろう」
そこでおれは、不意にたまらなくなり、言葉がのどまで出かかった。
自我崩壊は考慮せず、このまま人形を消してくれと。
あの呪いは、おれの不覚の結果であり、君の姿をしているのだった。
できることなら、今すぐにでも、消したかった。
それが自分には至難となれば、目の前の人物に、お頼みするしかない。
だが、そんな考えは捨てるようにと諭したマルセマルスカス氏の言葉が、おしとどめた。
確かにそれは、なによりも無礼と気づいた。
招かざる客にも関わらず、見捨てなかったあるじの対応を、完全に無視する考えだった。
サリアタ氏が言った。
「焦ることはない。フロリダス殿。想像してごらん」
おもむろに右腕をもたげ、畠の彼方に建つおもちゃ箱を指さした。
「問題の石を納めた木箱が、左側の棚に置いてある。その棚の前に、サリアタという名前の老いぼれ魔法使いが立っている。そのサリアタが、木箱に向かって、両手をさしのべた。つかんだ。持ちあげて、木箱をかかえながら、おまえさんのことを、じっと見ている。その情景を、思い浮かべているおまえさんの心は、脳みそに、なんと訴えておる?」
おれは目を閉じた。
その情景を、現実感を込めて、想像した。
まもなく心に、治りかけの瘡蓋をわずかに剥がしたような小さな痛みが伝わった。
それは昨日の夕刻、実際にあの木箱を、氏が持った瞬間に感じた痛みと同じであった。
ただ、その時に同時に湧きあがった差し迫る焦燥は、湧いてこない。
失うことを思っただけで、落ち着かなくなっていた心が。
心がただ、感じた微かな痛みに、頬が少し、歪んだだけだった。
われながら驚いて、目を見ひらいて答えると。
「心が痛みを感じるのは、石とのつながりが、今もって変わっていないということだ。だが、のっぴきならぬ衝動は、失せた。石とのつながりは変わらずとも、石とのかかわりは、変わった、ということよ」
こちらへ躄り寄った。
「わしはな、モハネトク鉱石が欲しいわけではないのだよ。なにもおまえさんから、あの石を奪おうとしているわけではないのだ。自由にしておくには危険に過ぎる代物だから、封印したい。それだけだ。そこのところは、今さら言わずとも、わかるだろう」
おれは大きく頷いた。
「あの石を、誰が所有するかは、問題ではない。なんならこれからも、ずっとおまえさんの所有物であって構わんのだ。そのうえで、あの小屋の中で、眠らせておけばよい。ただの詭弁と思うかもしらんが、そういう心懸けでおっても、おまえさんはもう平気になった。あの石との物理的な距離は、意味を失ったのだ。そのように受けとめたなら、おまえさんは、自由になれる。その身をどこに置くかは、関係なくなる。この天下。ひろい広いその世界には、おまえさんのことを待っている人間が、たくさんおるのではないかな。モハネトク鉱石を自由にするのではなく、マテワト・フロリダスが自由になる。そうしていつか、樹海に眠る一つの石を、すっかり忘れている自分に気づいたとき。さっきの想像を試してごらん。それで、痛みも消えたなら、それが、人形の消えた証だ。この旅の終わりを告げる報せだ」
うなだれている左肩に、そっと手を置いた。
「軽くなったこの肩で、これからいずこへ向かうかは、自分で決めなさい」
ぽんぽんと叩いて、樹海の魔法使いは鎌を取った。
心残りのように、重く引きずる石とのわだかまりを、本当に軽くしてくれる言葉だった。
おれは何度も頷きながら、ありがとうございますと、何度も何度も言ったのだった。
夏の訪れる山下の庭が、視野いっぱいにひろがった。
風が吹き、鳥が鳴き、太陽が照り。
コズヒメノグサの植え込み傍に、マルセマルスカス氏の姿。
その奥に、金髪の人影が見えたので、塒に目をやると、うずくまる男はまだそこにいた。
いったい何人の魔法使いが、ここに住んでいるのやら。
ただ、そうしたいと思う彼らの気持ちは、今ではなんとなく、わかる気がした。
古株の魔法使いからは二十年近く当地にとどまっていると聞いたが、実際に、サリアタという人物の人となりに触れてみると、昨日の今日のおれですら、深く感じ入るものがあったのだ。
だが、おれ自身が、当地にとどまる実質の理由は、なくなったようだ。
早晩ここを去ることになる。
この世に残した一つの石を、この森に、眠らせたまま。
思わず見つめたおもちゃ箱の扉がひらき、麦藁帽子をかぶった作務衣姿の老人が出てきた。
一瞬間、固まったのち。
「ああ。だからと言って。とっとと出てけと申しておるのではないぞ」
すばやく横を見ると。
麦藁帽子をかぶった作務衣姿の老人が、屈んで鎌を振るっていた。




