03
「アポニ・ドレスンなる人物」
やがて口をひらいた。
「わしは存じあげぬ。ルイメレク本人も、知らぬはずだ」
やはり――。
先生とルイメレクとは、面識がない。
ならば、どうして先生は。
「だが、ドレスンという名字には、心当たりが。少しばかり見知った男の名字と、同じなのだ。ただ、百年ちかくも前のことでな。一つどうかね?」
卓上に残る一個の卵を指し示した。
空腹ではあったが、遠慮した。
「名字は、しかと憶えておったのだが、名前がな。あの男の名前はなんだったか、思い出せん。完全に失念してしまった。しかし、同じドレスンの姓と、ルイメレクの名を知っていた事実からして、間違いなかろう。おまえさんの恩師であるアポニ氏は、わしの知るドレスンの血縁者だ。年齢や状況を考えると、息子だな」
ルイメレクと面識があったのは、先生の――お父上様?
「なんぞ聞いてはおらんかね。自身の父親のことを。職業など」
ただちに記憶をめぐらせたが、そのような会話をした覚えはなかった。
「いえ。お父上様のことまでは、なにも」
「そうか。そのドレスンもな、やつは魔法使いではないのだが、わしら師弟と一緒に、しばらくここで寝起きしていたことがあるのだよ。あの男が森を去って、以後の消息は、まったく知らんかったが、どうやらラステゴマへ行ったようだな。そこでおそらく結婚し、子をもうけた。その一人の倅が、のちに学者となり、おまえさんの師となった。大方そんなところだろう。アポニ氏は、父親から聞いたのだ。ドレスンも、わが子にだけは話したか」
沁々とそう言って、サリアタ氏は口を閉じた。
先生が亡くなられたあと、残されたお言葉の深意を知るために、ご昵懇であった方々に過去を訊ねてまわったが、樹海につながる情報は得られなかった。
おれは、調査対象を間違えていた。
当たるべきは先生ご本人の過去ではなく、先生のお父上様の過去であったか。
しかし。
先生のお父上様が、当地に滞在していた?
どういうことなのか。
ふたたび口が開くのを、おれは待ったが、ひび割れた茹卵の殻を腐心に剥きはじめていて、言葉は続かなかった。
話しはどうやら、それで仕舞いのようだった。
詳細を確かめようとしたが、先に声が掛かった。
「支度が終わったな。フロリダス殿。今日は、もう休みなさい。とりあえずでも、負った重荷は、おろせたはずだ」
言われてなお、問いを重ねるのは気が引けた。
彼方の暗中に点る灯りが、ちらちらと瞬いた。
「あ、そうそう。畠のなかに襤褸屋が建っとるだろ。あれが便所だ。そのそばにな、肥壺があるから、踏み抜かぬよう気をつけてな。屎まみれのまま川まで歩く羽目になるぞ。遠くはないが、結構つらいぞ」
「――気をつけます」
就寝の挨拶をし、おれはサリアタ氏の居宅を辞した。
あてがわれた西の家屋に通じる路は、ここまで拾った畠の北東側の沿道のほかにもう一本、便所と言われた掘っ立て小屋と鶏たちの塒の前を通過する畦道があった。
緑の光りは植え込みから消えていたが、ついでに用を足そうと思い、畦道に入った。
角灯を捧げながら、畠の夜の狭間を歩く。
よもや先生のお父上様が、百年前。
この場所に、滞在していたとは。
おそらくはその顛末が、ルイメレクの名を先生に、賢者と言わしめた。
だが、そうであったとしても、なぜだろう。
偉大なる先祖学者が、その人生の幕引きを前にして。
お父上様から聞いた昔話を、思い出したのは。
それを教え子のおれにだけ、伝えたのは。
烟るような星空を見あげた。
今はまだ、朧げな糸ではあったが。
先生と、樹海の魔法使いと、おれ自身とを。
微かながらに結んでいるのは。
地球――。
宵の風に、外套の頭巾をかぶった。




