02
「お入りなさい」
玄関の前に立ってすぐ、中からサリアタ氏の声がした。
断って扉をひらくと、灯りの点る一間の家内は、思いがけず狭かった。
右手側の壁際に書物の詰まった大きな本棚が陣取り、奥に大小の箪笥が並んで、椅子のない机が中央に一つ、左手側には寝台が据えてある。
その寝台の端に、樹海の魔法使いは腰をかけていた。
正面の机の上には褐色の卵が二個と、山菜を煮込んだような汁の入った木製の椀があり、それらに向かってサリアタ氏は、茹卵の殻を面倒そうに剥いている最中だった。
反射的に目がいった本棚にぎしりと並ぶ背表紙は、どれも無地だった。
その本棚と机とのあいだに玄関口に通じるわずかの空間があったが、立ち入るのをためらった。
細かくひび割れた殻に悪戦苦闘している魔法使いが、おれをちらりと見て言った。
「ん? どうした。顔が引き攣れとるぞ」
言われて苦笑し、植え込みでの出来事を話した。
凄い美人で驚いた旨を口にすると、氏は、ぴたっと手をとめ、おれをまじまじと見た。
「ポハンカが。おのれの顔面を見せたのか。ほう。どういう風の吹きまわしだ」
首をひねり、さらにひねった。
「ここには、リリのほかにも幾人か、居着いておってな。あれもその一人なんだが……。まあ、悪さはせんから。気にするな」
弟子入り志願の一人とは言え、セナ魔法使いにはやはり、なにか事情があるようだ。
さておこう、と氏が話しを切り替えた。
「どうであった?」
おれは石敷きの狭い三和土に半身を入れ、わずかに扉をあけたまま、答えた。
「反応していました。点々と黒く」
「うむ。明日には、真っ黒になっとるだろうな」
「サリアタ様。重ね重ね、お手数をおかけし、恐縮です。ありがとうございます」
「なあに、気にするな。あれこれと知ったようなことを申しても、わし自身、あのような石に接するのは、こたびが初めてなのだ。だいぶ勉強させてもらったよ。そうそう。おまえさんの飯だがな。ちょっと待っとくれ。今、寝床のほうに用意させとるから。おもちゃ箱の西隣の小屋だ」
振り返ると、西の夜陰にいつのまにか、ぼんやり明かりが灯っていた。
「たまに昼寝に使ってる別荘でな。あれもずいぶんと古い屋根だから、あちこち傷みが目につくだろうが、汚れているわけではない。風は通してあるし、布団も整っている。ただな、暖をとる場所がない。すまんが、寒かったら、ひとまず自前でなんとかしてくれ」
「もちろんです。恐れ入ります」
誰が、準備をしてくれているのか。
差し向き、気になったのは、マルセマルスカス氏の所在だった。
成りゆきであとまわしになってしまったが、落ち着く前に到着の挨拶をしたいと思い、居どころを確認しようと、すると。
「ところでおまえさん」
茹卵の殻をつまみながら。
「先祖学者か?」
不意に問われた。
職掌を告げた記憶はなかったので、戸惑ったが。
応じると氏はにやりと笑い、頷いた。
「やはりな。道理で、ものをよく知っとるわけだ。わしの知識は生かじりだから、本職の前で講釈垂れていたとは、恥ずかしいわ」
破顔して、さも愉快そうに笑った。
その余韻を口許に残したまま、言う。
「さっき、ロヴリアンスがどうとか申しておったろう。ロヴリアンスとは、公文書館のことだろう?」
聞いて、納得した。
「そうです」
「わしも若い時分に一度だけ、行ったことがある。だが」
本棚へちらりと目をやった。
「書架室には入れたが、原本に触れることは禁じられた。相応の身元保証人が不足していたからだ。あの荘厳な書架室で、原本を手に取ることが許される人間は、天下を見渡しても多くはあるまい」
微笑を湛え、おれを見た。
「厄介な客人と思うたが、それがまさか、時代の知性とはな。驚いたよ」
「とんでもない」
あわてて頭を振って、面を伏せた。
「わたしなどは、落ちこぼれです」
「ふふん。それはどうかな? わしらのような一般人にとって、あの灰色の城郭は、単なる石の壁だ。ご先祖があれを築いたのは、未来の先祖学者のため。その一人と数えられるだけでも、たいしたものだよ。そうか。やはり先祖学者か」
忙しい手許に目線を戻した。
「その肩書きを持ってだと、原本を開くのに保証人は何人必要なのかね。わしは実績者を五人も要求されたぞ。ただの魔法使いに五人は無理だ」
ようやく殻を剥き終えたサリアタ氏が、茹卵を頬張った。
「わたしの場合は、わたしの恩師に当たりま――」
言いかけて、すかさず身を乗り出した。
「サリアタ様。アポニ・ドレスンという名に、心当たりはございますか?」
すると魔法使いは咀嚼しながら背を反らし、顔をしかめた。
「ああ、そういうことか。それもリリから聞いておるよ。ルイメレクの名をおまえさんに伝えた人物だな」
「はい。難事に際し不明が生じたら、樹海へ行け。そこに住まう魔法使い、ルイメレクを訪ねよ。そのように」
「うむ。十三年前に亡くなられたとか。享年は」
「七十七歳でした」
「おまえさんの後ろ楯ということは、学者か?」
「そうです。先祖学者です」
そこでサリアタ氏は、沈黙した。
そうして卵を一つ、おもむろに取った。
手のひらで卓上に押しつけながら、転がした。
殻の割れる音がする。




