05
その後ろ姿が、広間の薄暗闇に消えてもおれはしばらく呆然と、布団の上に身を起こしたままであった。
たった今の出来事。
繰り返し、繰り返し考えていた。
やはり……あれは夢ではない。
夢をみていたのではなかった。
覚醒していた意識が、あの情景を見た。
だが現実でもない。
現実だったと言えるのは……メソルデ・クランチ。
闇間に去った寝間着姿のその背中だけだろう。
彼女は先刻まで、おれの枕元に立っていたようだった。
しかし、だからと言って決めつけられないことがある。
枕元に認めた少女の立ち姿は、寝間着ではなかった。
……赤と白の装束、黒髪に花飾り。
それはおれが知るサオリ・クラモチの姿。
メソルデの守護様を彷彿する風貌であったのだ。
あまつさえあの情景を眺めていた第三者の視点。
果たして、疑わしいのはどちらであろうか。
その時ふと。
(枕もとだったよ。かわゆい顔で寝ておったの。ゾミナが目をかけてる子。おでこに徴はないのにのう)
昨晩オズカラガス様から聞いた話が思い出された。
(光の柱が立ったのよ。天に向かって、でっかいの)
寝静まっている暗中に点る緑色の光りの列はあたかも波が引くように順々に消えかけていた。
返り見たおれの枕もだいぶん薄まってきていたが、ただちにつかんで小脇に抱え、布団を払う。
心細げな明かりを頼りに玄関へ摺り足で歩いて自分の靴を土間に探すも見つからず、共用草履を履き立った。
音を発てぬよう、そうっと開けた表戸の合間を通り抜け、玄関前の大きな庇の下から円形広場の夜陰へ進み出る。
そうしておれは夜空をうち仰いだ。
すぐさま全天を回し見た。
が、目を引く光源は、月光のみ。
星間に架かる衛星の反射光だけであった。
(立ちのぼった光りのたもとに居たのさ。あれまあ、あの子だよって。あっという間に消えちゃったけども)
触れた首元の手応えは、目隠しのお守り。
さすがにおれも、もう忘れず、常に身につけていた。
……これは、関係ないとは思うが。
期待の外れた夜空に遠く、カラチ鳥の鳴き渡りを聞く。
夜分遅くの円形広場に人の気配は、ないようだった。
共用草履の慣れてない履き心地を足裏に感じつつ村屋に戻り、表戸をゆっくりと静かに閉めた。
上がり口に腰をおろし、土間の暗闇に吐息をこぼす。
潰えかけている緑光の枕が、手元を朧に照らしていた。
メソルデの振る舞いも含め、動いていたのは十中八九。
あの情景をおれに見せたのは……倉持さおり。
視点の不条理は、おそらく神の全知視点。
あれはたぶん神の子自身の記憶だ。
こたびの手引きも、例によって真意は定かでなかったが。
(参ります。ドレイク・ビルヴァレス、大義でした)
これまで記号でしかなかった人物の存在を、実感した。
ウニクの最期に立ち会い、泣き崩れた一人の金髪男性。
刹那だったが重なり合った眼差しには深みがあった。
瀬戸際に立つ男の覚悟のような迫力があった。
彼こそが、反体制側の指導者ビルヴァレスその人だろう。
曰くを秘めるビルヴァの村の名称由来となった家名。
メソルデの魂から明らかとなった過去生ウニクの家名。
ビルヴァレスの名で結ばれた両者は、やはり、父娘か。
旧墓地に残る可憐な先史遺物は、父から娘への贈り物。
ただ……。
その父親は、わが子のことを敬称付きで呼んでいた。
かしづくような言葉遣いからも上下関係は明白。
ウニクの立場は地球国の礎とも見なせるし、そもそもが神の子の巫女という別格の存在であることを考えると、自分の娘であっても一線を画す相手となるのは当然かもしれない。
重い役目を負った両人が、極々平凡な、普通の親子になれた時間は、ほんの纔かだったようである。
明るかったあの夜の遥か向こうで、月光に綺羅めいていた広大な波影は、まずもってポトス湖であったろう。
そして振り返った星空に兀然と聳り立っていた巨大な山影は、ホズ・レインジに違いなかった。
その狭間のひらけた荒野のどこかで、ウニクは逝去。
その場所は現在のビルヴァの敷地内も当てはまろう。
その村の貯水池に立つ三角柱の天面に触れたときだった。
おれの意識は一瞬、飛んだ。
(男の声が潤んで響いた風の吹きゆく荒れ地であった。銀河の瞬くその大地に、透き徹るような女の声)
あの一瞬に見た情景と、先ほど見た情景、ぴたり重なる。
どうやらあれも、倉持さおりの仕業と看てよさそうだ。
供養碑を抜くべきと言い張り、柱の基部に刻まれていた言葉の意味を、ウニク・ビルヴァレスと言い切った。
われながら不思議だったその根拠は千年前に流れた涙か。
龍の落とし子 死没地跡
千年後のその土地は、水溜りになっていた。
……答え合わせをしてくれた、ということなのかな。
貯水池での推理は正解だよと、教えてくれたのか。
少年の寝言がなにやら聞こえ、くすり笑む。
寝よう。
おれは草履を脱いだ。
薄目で見やった表戸の、薄暗がりの隙間にぼんやり光りが滲んでいて、翌日の日ノ出は迎えたようだが覗く朝日は蒼白く、弱々しく、未だ夜は明けきってない模様。
もう少し寝られそうだなと、伏せた瞼の裏に……甦る。
なんだか夢でもみたかのように感じられた。
だが、あの情景は夢ではなく、現でもなく。
「やっぱり機会なんだと思う」
不意に耳に入ったのはゾミナ様の声だった。
老魔女が寝ている布団のほうへ意識を欹てる。
「すぐにどうこうって話じゃないけども。そのつもりでね」
すると。
「うむ」
サリアタ様が応えた。
「まあ、考えとくよ」
お二人とも、目が覚めているのか。
朝未きの時刻に遠慮するような声量だった。
少しの間があってのち、ふたたび夫人の声。
「そのときが来たら、あなたに山をおりてもらうほか」
……サリアタ様が山をおりる?
「この子は村の宝。里に預けるわけにはいかないのよ」
「うむ」
「元気なうちにこっちへとも考えるわけ。もう歳が歳だし」
「うむ」
「リリが適任だと思うけど、よく話し合ってみて。それにアラムのことも気がかり。あなたが動けば、アラムも動くわ」
老夫婦の会話は、それきり止んだ。
交わされた言葉の意には察するところがあった。
魔法使いとして覚醒したメソルデの潜在能力について。
(いずれ、わしが預かることになるかもなあ。ちからが整えきったら、たぶん、ゾミナじゃ持て余す)
時は移ろいゆく。
環境も、変わらない道理はない。
全開の窓から早朝の陽光が白々と射し込んでいた。
起床後まもなく六組の布団は広間の隅に片づけられたが、縁側に用意された桶の水を使うセナ魔法使いとアラム少年そしてメソルデの三人は寝間着姿であり、サリアタ様とゾミナ様そしておれの三人も寝間着のまま、坐卓に向かって起き抜けの顔を突き合わせていた。
並んで坐る老夫婦を交互に見やりながら、語り終えた。
「――ですので、わたしが見たその情景は、サオリ・クラモチ当人の記憶の投影。そう解釈するのが妥当かなと」
先ほどメソルデに昨夜のことをそれとなく訊ねてみたところ、思ったとおり、彼女はなにも憶えていなかった。
「うむ。状況からすっとなあ」
「ざっと伺っただけでも、興味深い部分が幾つもあるわね」
「そうなんです。得られた情報は多いです」
要点をまとめる。
「一つに、われわれが仮名したビルヴァレスの実在性。当地に及んだ異端集団の指導者に関してはすでに有力な存在でしたが、根拠は状況証拠の総合に過ぎませんでした。しかし、その存否を問う余地は、これで、ほとんどなくなったと言えそうです。……ドレイク・ビルヴァレス」
「とうとう名前が出てきたな」
にやっと笑ったサリアタ様に頷き返す。
「人物像に合致する存在感でした。間違いないと思います」
「ふふふ。オキナツ・サワダ殿が、そう感じたのかしら」
「かもしれません」
微笑み応え、続ける。
「いま一つは、そのドレイク・ビルヴァレスと、ウニク・ビルヴァレスとの関係性です。両者は父娘であることが明示されました。われわれの解釈でウニクと同姓になった反体制側の指導者は、ウニクの父親だった可能性が極めて高いです」
「やっぱりな」
「ドレイクの慇懃な接し方が少し引っかかりましたが、そこはウニクが神の子に仕える巫女という、神聖不可侵の聖女である点を考慮すれば、不自然とはならないでしょう。また、それに付随する点で、ウニク所有と確定している籠堂の手鏡についても、その背景が示唆されました。どうやらあれは、二人が地球にいた頃に、父親のドレイクが、娘のウニクに買い与えたものだったようです」
言うとゾミナ様は碧い瞳を細め、吐息をついた。
「先生が見たそのウニクさんは、大人だったのね」
「はい。年齢はわかりませんでしたが背丈は成人でした」
「あるじのサオリちゃんよりも長生きだったようだのう」
「そして最後に、ウニク・ビルヴァレスの死去と、ビルヴァの村の貯水池に立つ謎の石碑との関連性です。こちらについては明示的な情報はないのですが……ウニクが亡くなった場所の一地点から、ポトス湖とホズ・レインジ双方に該当する地形が見えています。それらに挟まれた土地の何処かで、ウニク他界の場面は展開された。現在のこの村からも、平地にすれば同様の眺望が得られるであろうことと、その敷地内に残る謎の石碑に刻まれていた言葉……龍の落とし子、死没地跡。やはり、因果があるように思えてなりません。その点はとりもなおさず、魔法陣の仮説の補強になります」
「いかにも。龍の落とし子はウニクのこと。先生のその読みから出た話だもんな。ご眷属様が絡む構造体ってよ」
「ねえ、サリアタ様ぁ」
そこでアラマルグが縁側から声をかけてきた。
屋内へ身を乗り出している。
「サリアタ様まだ生きてるよねえ? 死んでないよねえ?」
唐突なその問いかけに、老魔法使いが大声で答えた。
「たぶんなっ」
「アラム。なんでそんなこと聞くの」
ゾミナ様が質すと、裏口にセナ魔法使いが姿を見せ。
「オズカラガス様がさっきからアラムを慰めてるのよ。カユの坊やは死んじゃったけど泣くなって。頑張れって」
そう聞いて、われら三人、坐卓で顔を見合わせた。
その顔を老夫婦は同時に祠のほうへ振り向ける。
「お婆様が言うと洒落にならないんだからやめて頂戴」
「わしの寿命はまだまだ残っとるわい。勝手に殺すな」
するとその時。
玄関口のほうで慌ただしげな足音が聞こえたと思う間もなく、表戸がごとごと開いて入ってきたのはチャルだった。
そうしてこちらを見るなり。
「ああっサリアタ様。ええと、あのう。生きてますよね?」
そう言った。
「……チャル。おまえもか」
「なんか変だわね」
ゾミナ様が手招く。
「あがってらっしゃい。どうしたのよ」
「いやあ今、車庫で、車の点検をやってたんですけど。手伝いに来た者が、出掛けにサリアタ様の幽霊を見たって言うもんですから」
「わしの幽霊?」
はい、と青年は頷いて、坐卓の傍らに着座した。
「それで急いで確かめに。すみませんこんな朝っぱらから」
「冗談ではなさそうね」
「ゾミナ。一応、確認なんだが。わし、死んどらんよな?」
夫人が樹海の魔法使いの団子鼻を摘みあげた。
「このひとの幽霊どこに出たの」
「いたい痛い」
「例の溜め池だそうです。あそこを通りかかったら、池の水が、ばしゃばしゃ跳ねてたらしいんです。そしたら池の中から、身体の透きとおったサリアタ様が、ざばあんって立ちあがって、そのまま消えたって。ちびりかけたそうです」
身体の透きとおったサリアタ様?
水の中から、ざばあん、と?
あれ……それ……。
おれにも見憶えがあるぞ。




