04
全体の緑は蔓延る苔で、石の地肌がところどころわずかに覗き、たもとの辺りはこびりついた汚泥で黒ずむ三角柱。
二十センチ弱の幅、一メートル足らずの高さのそれが、陽射しの目映い水面のうちで、ぽつんと佇立していた。
欄干のない石橋から数メートル離れた北面である。
村長が、雑巾のような手ぬぐいを首にかけ言った。
「毎年、春先に洗ってはいるんですけどね。どうしても」
「うむ。水場ん中だからなあ。なんも憑いとらん柱だし」
井戸屋形とシイソウの建つ空き地を東へ通り過ぎ、防風林の梢をくぐり抜けた先に広がるその人工池は、総面積およそ三十平方メートル、あたかも自然の池を模したかのような、凸凹とした縁取りの造成であった。
擁壁を方形に囲む一般的な貯水池とは異なる設計となった理由は、道すがら聞いた長老の話しで察せられた。
この貯水池の建設目的は三百年前に被災した火難の土地の鎮撫とのことであり、蔵に残る二百年前の設計図に記されてあったその覚え書きから古来より大火慰霊の供養碑と伝えられてきた、もの悲しき石柱と言う。
柱に関しての覚書は設計図にも蔵にもないらしく、柱自体にも印刻やその痕跡はないとのこと。
ルイメレクが当時オズカラガス様に柱の謂れを質しているそうだが、確たる証言は得られなかったようだ。
つまり、正三角形がそこに存在する理由は……不明。
「そんでも水張りが効いてるね。みんな穏やかな顔しとる」
サリアタ様のお見立てでは、この場所で二百年前なにかがあって、曰く付きとなった焼け跡の土地の有効活用を考えたとき溜め池を築く選択が最善だったのだろうと。
今や一帯は水棲の生きものたちの憩い場となっており、石橋の上を歩き出した一匹の躄蟹をつかんで戻した池の水深は三十センチもなさそうだったが、今朝方の土砂降りで若干、昨日より水嵩は増してる模様。
おれは屈めた腰をおろし、靴を脱いで裸足になった。
「さてもさてもだ。フロリダス先生よう。あの形ですわ」
下穿きの裾をめくりあげながら応える。
「貯水池の建設意図は設計図ともども、しっかり残され明らかなのに、その貯水池に立つ柱の意図は明らかでない。池の造成以前から、あれは、ここにあったのかもしれません」
おうい婆さん、と、サリアタ様が虚空に呼んだ。
「あの三角形の柱なんだがよ。あんたが生きとった頃もあったんかのう。そんくらいなら憶えとるんじゃないんか。例の、木枯らしが吹いた晩の頃だ。ちと頑張って思い出せ」
もし、それが事実なら、あの柱は供養碑とは考えにくい。
違うなにかの場所を示す標識である疑いが濃厚になる。
その標識が正三角柱……禁足地への地図と見立てた天井絵と同じ正三角形となると、看過するわけにはいかない。
長老が、羽織の裾を気にしながら屈んで言う。
「近くでご覧になりますか」
「ええ。拝見させて頂きます。風化の状態を見たいです」
村長が隣で言う。
「入りましょう。これ、どうぞ」
作業用手袋をおれに渡し、クランチ氏も靴を脱いだ。
「苔でわかりにくいですが表面、結構、歪んでます」
「基礎地盤に固定されてるんですか?」
「はい。三角の挿し口に、がっちり埋め込まれてます」
「そうそう池ん中に立っとる柱だ。思い出したか?」
手袋をしつつ声に見あげた。
オズカラガス様の返答や、いかに。
「違うだろうよ……躄蟹は……水場があってこそだろ。ここに池が造られたんは二百年前だっつうから、そのシャルロッテが柱を登っとるんを見たんは婆さんが死んだあとだよ。そうじゃなくてさ。あんたがぴんぴんしとった頃……いやあシャルロッテが頑張った時代は三百年前じゃないなあ」
だめそうである。
両足を橋下におろし、おれは立ちあがった。
池底の砂をざらざら踏んで、ばしゃばしゃ柱に近づく。
濡らした雑巾で苔を拭う村長の手元で露わになる石肌は、どこもかしこも穴だらけ、角も漏れなく丸みを帯び、酷い風化が見られたが指圧で崩れるほど脆くはなってない。
しかし、思った以上に表面には、波打ちがあった。
天面の正三角形をかたちづくる三つの辺もあちこちうねって歪んでおり、この斑は、風化作用とは見做し難い。
手作業で岩を削り出し、正三角柱に成形するのは確かに骨の折れる工程だが、どうやら元から正確な仕上がりではなかったようで、受けた印象は……雑。
製作者に、正三角形に対するこだわりが感じられない。
そして聞いたとおり、三面のどこにも、刻字はなかった。
観察結果を石橋へ告げる。
「なるほどのう。やっつけ仕事の三角形か」
「状態から世紀単位の時間を経ているのは間違いないと思いますが。天井図とのつながりは、ちょっと怪しいですね」
「ま、ご先祖様を慰めたと思えばいいさ」
応じ頷き、手袋の甲で額の濡れをぬぐう。
そうしてその手を、三角柱の天面に置いた。
男の声が潤んで響いた風の吹きゆく荒れ地であった。
銀河の瞬くその大地の底に透き徹るような女の声。
柱に手を置いているおのれをそこで自覚する。
はっとなって後退った足は池の水に浸っていた。
波紋がひろがる……。
「どうされました?」
気遣わしげな村長を見、その傍らに立つ柱を見た。
なんだ今のは。
「もう、よろしいのですか?」
「いや」
おれは柱に近づいた。
見おろす天面の正三角形。
ふたたび、手袋をしたままの手のひらを、恐る恐る。
置いた……が、なにも起こらない。
なにも変わらず、浅い池に立ち続けるおれであった。
木の精だったのか。
ごと。
柱のたもとで音が鳴った。
手袋越しにその瞬間、柱がわずかに沈むのを感じた。
間違いなく柱の下で、水の底で今。
「前言撤回しますサリアタ様。この柱めちゃくちゃ怪しい」
「え? そうなの?」
おれは前屈みになって池底を覗き込んだ。
揺蕩う苔と土の濁りで、はっきり見えない。
急いで手袋をはずし、袖を捲りあげると水の中へ両手を差し入れ、柱の根本を探った。
挿入されている三角形状の口の隙間に詰まった土砂が指先でぼろぼろ崩れ、眼下の水面で……気泡が割れた。
今し方わずかながらも、柱の沈んだ感覚があった。
下がった、ということは、上がるのでは?
「村長。この柱、一度も抜けたことないんですよね」
「あ、はい。わたしの知るかぎり」
そう答えるとおれの問いを石橋へ投げた。
そこで見守る長老が頷く。
「わたしの憶えでも、一遍もございません」
「なんだい。どこが怪しいんだ」
サリアタ様が池に入り、ばしゃばしゃと歩み寄った。
「正直よく、わからないんですが。柱のたもとが、音を発てたのは確かです。と同時に柱が沈んだ。ほんのわずかでしたが、沈んだ感覚がありました。村長、今の音」
「いや、わたしには聞こえませんでした。この供養碑は、毎年わたしが洗ってるんですけど、これまで、そんなこと」
おれは柱に両腕を回し、両足をひろげ腰を入れた。
「抜けるかも」
「待て待て先生」
持ちあげの力を満身に込める。
するとまもなく、がりっと擦れる感触が。
上がった手応えがあった。
しかし抵抗が強く、身を離した。
「抜けるかもって……ここに嵌まっとった柱だ。抜けたところで底まで抜けちまったら溜め池の用を成さなくなんぞ」
重量はおれの腕力でも応える程度。
抵抗の原因は、たぶん角度だろう。
地盤に挿し込まれている部分もおそらく長い。
穴に沿って垂直に引き上げる必要がある。
「それでもです。この柱は抜かなければなりません」
口をついて出た返事に二人が、不思議そうな目を向けた。
なんで抜かねばならんのか……自分でもそう思った。
黙って凝っとおれを見つめるサリアタ様の呆れ顔。
「そうだった。マテワト・フロリダスはそう言う男だった」
くっくと笑い。
「前代よ。先生が、抜けそうだって言っとるんだが」
「どうぞフロリダス先生のお好きなように」
「当代」
「チャルを呼んで参ります」
ばしゃり踏み出したその足をサリアタ様が制止した。
村長ナグジャーイ・クランチ氏の懐こい顔を仰ぎ見る。
「供養碑を、引っこ抜いちまっていいんだな?」
「……ありがとうございます。もとより」
「わかった。倅は呼ばんでいい」
そう言うと一歩、柱から離れた。
「わしがやろう」
こちらを一瞥。
「ふたりともあがっておくれ。爺様も橋から、ちと退いてくれんかい。そっちに置くからよ。池沿いどこも泥っとるわ」
指示に従い、ばしゃばしゃ遠ざかりながら思い出す。
旧墓地にて初訪問時のこと。
屋根の下に鎮座していた偽物の御神体――地下の出入り口を塞いでいたあの岩を、わずかの間に、奥の空き地に転がしたのはカユ・サリアタの魔法であった。
長老と村長と、共に橋詰めの道端に控え、池のうちにひとり残った老魔法使いの挙動を興味津々おれは見つめた。
両手を腰の後ろで組み少し猫背の立ち姿で、目の前の柱を見おろす眼差しは穏やか、様子に特段の色は窺えない。
すると、静まっていた水面がにわかに漣を立て。
「おっ。いけそうだねえ。よしよしよし」
柱が、上がりはじめた。




