08
あの観光地図の入手は、情報の対価に過ぎなかった。
地図屋の卓上にひろげられた鮮やかなその図面に、山麓とつながる川筋の地形を認め、樹海への掛かり口と見定めたそれらの地理情報を記憶し体よく辞去するつもりであったところが、商売人の期待を真正面に受け、礼ついでに買っただけの不要の地図であったのだ。
なにがどこで役立つか、わからんもんだな。
「ふたりの話し聞いてると、もう解けちゃったみたいね」
サリアタ様に続いておれも御者台脇の梯子を降りる。
先に降りたセナ魔法使いがわれらを見あげ、そう言った。
「まあな。おまえの言うとおり先生は普通じゃないからな」
「……少なくとも、行動に移せる筋道は得られました」
地面を踏んで応えると、彼女はおれをじいっと見つめた。
ぞくり、背筋をざわつかせながらちらちら見返した魔女の瞳は、しかし、なにも言わぬまま老魔法使いへ移ろった。
「お爺ちゃん土地勘あるんだから地図なくてもやれない?」
「おまえは本当に無茶を言う子だね」
噪ぐ声に目を向けると駐車帯の隅っこでアラマルグとメソルデが、その場で自転するチャルの両腕に各々ぶら下がり、ぐるんぐるん振り回されながらわあわあ歓声をあげていた。
屈強な体躯のチャルならではの遊び方だったが、見ているだけで三半規管にくる独楽状態でも軸足がまったく振れていないのは、船乗りの経験も積んでいるからか。
賑やかな彼らに向かって歩き出す。
「どっちにしたって目指す宛は、神の領分なんだ。母神がお手ずから封じた禁足地と、神の子が垣間見える鍵穴。来たる待ち人のために門戸はすでにひらかれておったとしてもだよ。当てずっぽうな眼飛ばしで探り当てられる状態じゃなかろ。そこを暴き出そうってんだから、土地勘あったって目安なしはさすがに絶望だよ。それに先生が所有する地図なら、わしにとって理想なんだ」
ただ……あれはウルグラドルールの近隣地域の観光案内を目的とした地図であり、ホズ・レインジと山裾の地理情報は一切、描かれていなかった。
着眼点となる山域は漏れなく、回遊者向けの案内文で埋め尽くされてしまっている。
「そこは問題ない。書庫の位置なら、だいたい山のどこらへんか、見当つくからね。そこら辺りを何度か覗いてみて、視えた地形で正確な位置を地図上に絞り込める。籠堂の位置も同じ要領。寸法さえ合ってりゃ問題ないよ」
千里眼の使い手はそう言って、頷いたのだった。
「だが、そうだな。本腰は里に帰ってからになるとしても、物差しを使うだけなら借り物でもいけるな。おういチャル」
呼び声に、自転が緩まった。
まもなく地に立った少年少女の傍らで、屈強な青年はその場にうずくまり時々こちらを見やって……嘔吐いた。
「まったく重ね重ねご苦労さん」
近づきながらサリアタ様が労いの言葉をかけ。
「おまえさん家にさ。尺の正確な地図ってあるかい」
続いた問いに、心なしか青褪めた顔がもちあがる。
「ああ、はい。一枚あったはずです。ネルテサスの地図が」
「すまんがのう。帰ったらそれ、村屋に持ってきてくれんか。ちと確かめたいことがあってな」
「わかりました。ただ、古い地図なので載ってない地名も」
「構わん。縮尺率が載ってりゃ満足だ。すまんが頼むよ」
親父さんには言っとくから、と、おれを見た。
「物差しで目星をつけるだけなら用に足りる。当てが、どこらへんになるか、やってみよう」
大神殿と地球国。
それぞれに通ずる門の座標の下調べ。
応じて口元を引き締め、頷き返した。
「さあてさて……メソルデや」
強い目つきをにわかに和らげると、チャルの背中をさすっている生まれたての魔女へ、サリアタ様は向き直った。
「おまえさんも、ご苦労さんだったね。よく頑張った。大手柄だったぞ。けど色々あったな。怖かったかい?」
「先生が一緒だったから、ぜんぜん怖くありませんでした」
「そうかい。肝っ玉の据わり具合も、いよいよ魔女の様になってきたのう。ちょいと、おでこの眼を見せておくれな」
こくんと頷いた少女の額に老魔法使いの手が翳された。
そうして暫時。
「……ほおう。こりゃまた綺麗な整えだねえ。やっぱり先生の御陰様、只者じゃねえな。お見事と言うほかない。一応ゾミナにはもう状況を伝えてあるんだが、実際に愛弟子のこの整えを見たらあいつ、ひっくり返るんじゃねえか」
手をおろし、からから笑った。
セナ魔法使いがそこで、駐車帯の空き地を囲んでいる木々の一画を指差して言う。
「さっきみたく、葉っぱに当てるつもりで、射ってみて」
はいと応じてメソルデが、指示された木立を凝視する。
その背に垂れている束ねた金髪の毛先が、やがて。
不自然に、わずかに浮きあがった瞬間だった。
見つめる彼方の枝葉が風もなく揺れ騒ぎ、はらりと。
数枚の葉が舞い落ちたのだった。
「ね? アラムと似てるでしょ?」
「そうだのう。おんなじ念動魔法だのう」
言いながら少女の額にふたたび手を翳すサリアタ様。
その手を、額から一メートルほど遠ざけた。
「今度はお爺ちゃんのこの手に向かって射ってごらん」
え……とメソルデが驚き、戸惑う。
「遠慮せんでいい。ちからいっぱいな。やってごらん」
促され、ためらいがちに彼女は頷くと、自身の正面に差し出されている皺だらけの手のひらを、凝視。
まもなく老魔法使いのその片腕が、外に向かって弾かれるように大きく振れた。
「ほおう。なるほどのう。……はい次バレストランド」
呼びかけた彼の正面に片手を差し出す。
「え? ぼくも?」
「射ってみろ。ただし、おまえの場合は、軽くだ」
「ええ? 強くう? わかったあ」
「軽くだ」
少年が、えへへと笑いながら正面を見つめた刹那。
ぱんっと手を打ち鳴らすような音と同時に老魔法使いの片腕が、やはり外へ弾かれるように大きく振れたのだった。
「うむ。こりゃ間違いないな。面白い」
感心するようにそう言って、メソルデを見やった。
セナ魔法使いが怪訝に問う。
「なにが面白いの? アラムと同じでしょ?」
「結果はな」
こちらを向いた。
「確かに、メソルデに発現したちからも、バレストランドと同じ念動魔法。放ったちからが対象に直接的に作用するもんだ。けれども同じなんは見かけの結果だけ。対象に働いとるちからは、メソルデとバレストランドは……逆だ」
どゆこと? とアラマルグが小首を傾げる。
「おまえのは押す念動。メソルデは引く念動ってこと」
そう答え、まっすぐにおれを見た。
「メソルデが、わしの手に向かって射ったとき。手のひらを押されたっていうより、手の甲を引っ張られた感じがした」
へえ。
「いやはや。これも個性なんかのう」
少女へ向き直り、微笑みかける。
「ちからの出方ってのは人それぞれだ。まさに十人十色。念動魔法っつうとバレストランドの押すちから……攻撃的な指向性をもつ場合がほとんどなんだが、メソルデの場合は押すんじゃなくて、引く。対象を引っ張る念動魔法だな。いかにもおまえさんらしい、奥ゆかしいちからの出方だのう」
好々爺の眼差しで、少女の頭をよしよし撫でる。
「まあ、そんでもな。見た感じ、ちからは未だ充分に整えきっておらんようだ。魔法使いとしての生き方を見定めるんは当分、先の話しになろう。ひとまず今は、これまでどおり。おっかないお師匠さんのもとで、精進するとよい。な?」
「はいっ」
心から嬉しそうに、元気な声音の返事であった。
その新米魔女へ。
「わたしの手にも射ってみて」
「ぼくの手にも射ってみて」
二人の先輩が歩み寄る。
「ほんじゃ、みんな。村に戻るぞ」
おれと揃ってサリアタ様が、獣車へと足を向けながら。
前方を見つめながら、思案げな口調で言った。
「いずれ、わしが預かることになるかもなあ。ちからが整えきったら、たぶん、ゾミナじゃ持て余す。まだまだ眠っておったからのう。あれが地球の巫女のちからかい」
こちらを一瞥。
「そのちからの出方だがな。過去生における巫女としての役割と関係しとってもおかしくない。神の子を助けるために誕生したっていうウニク・ビルヴァレスの存在理由を知る手がかりに、なるやもしれん」
「……わかりました。引くちから。頭に留めておきます」




