08
(集いし亡者たち。かつての祭神の風に触れ、目覚めましたか)
(居ても立ってもいられない気分になって、歩いてる男のひとのことを止めるんです。このまま進んだら危ないって)
(風に乗る気がないのなら、せめて聞き分け、引いてください。いいえ。頼みでは、ありません)
(そしたらその女のひとが、なにかを言って、聞いたわたしは、安心するんです)
(聞く耳を失った亡者たち。そうですか。引かぬおつもりですか)
(それを聞いて、もう大丈夫って思うんです)
(ならば……消えなさい)
やはり、先刻のメソルデ豹変を引き起こした第三者については、やはり。
彼女の過去生ウニク・ビルヴァレスと看做す判断は、保留すべきだろう。
謎の霊団と対話をし、魔法を行使した存在に関しては、違う角度からの可能性も残すべきだ。
もとより過去生の人格が、現世の肉体を操ったとする解釈には疑問の捨てきれない部分があり。
当事者の主張と言えど除かれる余地、充分にあった。
しかし、彼女がみた夢そのものは、非常に興味深い。
ビルヴァの古を解き明かさんとする思考の大きな推進力になりそうだった。
「ほかに憶えている夢は、ありませんか? あればぜひともお聞きしたいのですが。できれば詳しく」
「あとの夢は……夢をみたことだけを憶えてる感じなんです。内容は、もう」
ふたたび屈んで待ったのだったが、返ってきたのはおれの欲深さだけであった。
少女の困ったような目つきを見て、ただちに好奇心を引っ込める。
微笑み頷き、立ちあがり、頭を切り替えた。
「そうですか。いや、お伺いできた内容だけでも、貴重な情報でした。おかげで過去への道。また一歩、進めた気がします」
ひとまず、差し当たっての問題は、旧墓地への道だった。
彼女の身に起こった先ほどの異変も、予期せぬ出来事の一つ。
このまま進むべきか、いったん退くべきか。
すると。
「ただ、ちょっと思ったのは」
うつ向き加減にメソルデが、思案げな口調で。
「手鏡の上にあった青い花。色は濃い……けど花びらの形が。もしかしたらあれ……ミオパテラかも」
言っておれを見あげた目線を、傍らのチャルへ移した。
「ミオパテラ。タミおばさんが好きな花。よく摘んでるでしょ?」
「ああ、あの花か。うん。確かにあれも青っぽい」
こちらを向いた。
「この時期、岸壁の辺りに咲く花なんです。看護婦のタミちゃんが毎年、夏場になると採ってきて、診療所に飾るんですよね」
「ほう。ミオパテラ」
知らない名であったが、その花の群生場所は、たぶん、知っていた。
二日前、メイバドルへ発つ直前の待ち時間に、おれは村の東端の台地崖へと足を向けた。
そこにひろがる森から走り出、魔女の住む家の玄関に消えた銀髪の少年が、握っていた一輪の花。
(そこで摘んだ花よ)
そう教えてくれたのは、森を抜けた切り岸で、ひとり佇んでいたポハンカ・セナ。
広大なポトス湖を共に望んだ柵の向こうの崖際に、水色の花が咲き乱れていた。
「なるほど。夢の手鏡に添えられていた花の種類も、ビルヴァの村と、関わりが」
……どどど、どどど、どどど、どどど……。
不意にその時、雨音の狭間に遠く。
林の東のほうから籠ったような打音が断続的に聞こえてきて、耳を欹てた。
徐々に大きくなっていくその三拍子の刻みは、制御された獣の襲歩と思われ、こちらへ向かって来ているようだ。
チャルが言う。
「メイバドルからの早馬でしょうかね。この道を使うなら行き先は、山麓の北のカリノかな」
まもなく、われらの視界を横切ったのは雨中を疾駆する人馬であった。
馬上の姿が認められたのは一瞬間、林道の泥濘を跳ね飛ばして行った四つの蹄は、果たして三叉路を右折した模様。
忙しげな調子の脚音が、彼方へ籠り、遠ざかる。
駆け抜けた風に触れ、わずかながら感じられた。
これまでまったく匂わなかったオズカラガスの芳香……。
「チャルさん。この場所からだと、駐車帯と旧墓地、どちらが近いですか?」
「まだ駐車帯のほうが、いくらか近いんじゃないかなと思います」
言いながら傘を持ち直し、雨下の林道へ出ていく。
そこで左右を見渡していた顔が、東の道先に留まり、目を凝らした。
「あれ? あの切り株……。ああ、旧墓地の口、ここから見えます。なんだ。もうここまで来てたのか」
墓樹の存在を捉えた嗅覚は、錯覚ではなかったようだ。
どうやら、先刻のメソルデの歩みに混乱したまま引っ張られ、知らず知らず目前まで進んでいたようである。
つまりすでにわれわれは、サオリの目と鼻の先。
けれどもメソルデは、その点、なにも訴えていなかった。
表情を窺うおれを、無言でちらちら見あげる幼い眼差しにも、怯えは一抹も覗かれず。
「メソルデさん。言うまでもないかもしれませんが、旧墓地には、今」
「はい。さっきからずっと、肌が、ぴりぴりしてます」
「大丈夫なんですか? ご気分は?」
「平気です。神様の雰囲気に触ったのも、初めてで。……でも、わたし怖くない」
そう答えた声音に痩せ我慢の張り色は一切なく、口元には微笑すら浮かんでいた。
懸念していた魔法使い特有の問題は、彼女には当てはまらないようだ。
それどころか落ち着き払った様子であり、三つ編みの解けてしまった金髪の乱れを、年頃の少女は気にしていた。
ふと昨晩、村長から聞いた言葉を思い出す。
(人当たりはやわらかで、受け答えも素直で従順、自分というものをあまり表に出さない、なににつけ控えめな性格……だけれども意志は、とても強い子です。こうと決めたら梃子でも動かないような)
魔女の度胸の逞しさ。
ゾミナ様然り、セナ魔法使い然り……メソルデ然りか。
「この道はいつも車で通ってるもんで、距離感が」
一方、林道から戻ってきた肉体の逞しい青年は、父親譲りの愛嬌ある面立ちを曇らせていた。
チャル・クランチもビルヴァの血族の一人であったが、どちらかと言うと彼はこの一件に巻き込まれてしまった立場。
村長である父親から、客の世話役を仰せつかったばかりに、農村の日常とは異質な出来事と幾度も遭遇することとなった。
それらの経験を彼は楽しかったと言ってくれたが、その体験がふたたび現在進行形なのだから、顔も曇って当然だ。
「ちょっと持ってて」
メソルデが、自身の傘をチャルに押しつけた。
そうして合羽の前釦を外し、懐から紐を取り出すと、両手をあげて乱れた髪を結う。
二本の傘を差しながら。
「どうされますか? わたしたちは、フロリダス様のご判断に従います」
……巫女が神殿に帰還する。
その結論に至ったこの件は、昨日の朝の地下道から始まった。
それからの一連の流れを考えると、われわれの進捗は、サオリ・クラモチの手引きが濃厚であった。
しかし、そう彼女を衝き動かすに能う巨大な存在が、メソルデの背後に憑く守護様の背後に、今や見え隠れしていた。
三百年以上にも渡ってご不在だった古巣に現在、お帰り遊ばされている古代ビルヴァの御祭神。
「サリアタ様から連絡は?」
「いえ、ないです」
われらの動向を、見習い魔女のちからを伝って見通しているのなら、その身に起こった異変も当然、把握しておられるはず。
にも関わらず、中断を指示されない。
形而上の専門家は、あの憑依現象を非常事態とは看ていないようだ。
おそらく、メソルデ同行に至ったこの流れの源泉……フンダンサマの思し召し。
その可能性が、サリアタ様に状況の推移を観察させている理由だろう。
(お化けが、いるんです。旧墓地に。たくさんの人が)
現状を確認すると。
「もういません。みんな、どっかへ吹き飛んでいっちゃったみたいです」
閉じられていた旧墓地も、今や開かれた。
メソルデの精神状態にも火急の問題はみられない。
進むべきか、退くべきか。
老魔法使いの沈黙が、おれの背中を押していた。
チャルに向き直った。
「先ほど、われわれが面食らったメソルデさんの異変。どうやらその答えが、現場にありそうです。ゆえにサリアタ様のご判断も、前進と考えてよいと思います。彼女がみた夢も、その答えが理由のはず。わたしは、それをこの目で確かめたい」
紀元元年。
正式に樹立が宣言された中央議会を政の枢軸とした共和体制下の一統集団。
それが、この星に根づいた人類の社会構造であった。
地球における一つの国家の有り方と同じ内実と確かに言えたが、それでもご先祖は、国という言葉を用いなかった。
人間同士を分断する概念が含まれているからだ。
よってこの星の上に、国と呼ばれる独立地域があった記録は、過去をどこまで遡っても。
(違います。国家元首ではありません。それは誤解なのです。あなた方の地球国は、もうないのですよ)
意味ありげな亡者の集団が現れたのは、ビルヴァの祖先が眠る旧墓地。
宇宙船の放棄を決断したロヴリアンスを見限り、地球人であることを求めた反体制の異端集団。
その彼らが、ネルテサスに築いたはずの暗躍の潜伏拠点。
パガン台地の地下にひろがる推定の巨大洞窟。
われわれの歴史には存在しない国家組織……地球国……今や失われた、もう一つのビルヴァの村。
「神殿への口を塞いでいるあの巨石。あれを除くには、しかし、わたし一人では難儀です。チャルさん。お力添え願えますか」
「もちろんです、フロリダス様。お供いたします」
「メソルデ・クランチ魔法使い」
その傘の下、長い金髪を一本に結いまとめた十二歳の女の子。
神様の御前に際し、われらの中でもっとも冷静なのは彼女であろう。
思わず、笑みがこぼれた。
「参りましょう」




