06
叩きつけるような破裂音が土砂降り雨の狭間に聞こえ、少し離れた林道脇で散り広がった霧のような水煙りが、降り頻る雨にたちまち紛れ、消えていく。
奔った雨水が衝突した、薄白く烟る木立の群れ。
木々の枝葉の揺れのみが、放たれたちからの跡だった。
止まったような時間のなかで、突然、耳朶に響く。
……ざああああ……。
手に持つ傘の周りで雨が自然に落ちはじめ、おれはすぐさま隣へ目を向けた。
そこに見おろす、ひろがった傘布の上で跳ね立っている無数の雨粒。
魔法の杖がごとくに扱った傘を、いつのまにか差していた。
「メソルデさん」
呼びかけると、彼女は無反応だった。
ゆっくり腰を落とし、傘の下を見あげる。
三つ編みが解け、長い金髪のわずかに張りついたその顔は、塵でも見るような無表情で、正面をじっと見つめていた。
みずから飛ばした魔法の行方を追うかのように、彼方を見据えたままだった。
丁字路で、様子がおかしくなったのだった。
歩を進めながら道先を睨む、らしからぬ面構え。
霊の集団との応答と思われる意味深な話しぶり。
雨中にみせた、思いがけない魔法の行使も……。
メソルデ・クランチの開眼は、半年ほど前と聞いている。
心はすでに魔法使いでも未だ、ゾミナ様が導きの段階。
実際、探知の精度は、充分な実用の域には達していないようだった。
そんな見習い魔女の未熟と、たった今、使われた二種のちから技。
まるで、別人。
いや。
……あきらかに別人だ。
「どうなってんだ。メソルデよう。フロリダス様……」
立ち尽くす少女を見やって動揺するチャルの声。
彼を落ち着かせるように手のひらを向け、頷き返す。
一人の人間が、言葉遣いや性格までをも豹変させる。
考えられる原因は、おれの知る限り、二つ。
解離性同一性障害。
超自然的存在の干渉。
前者は、強烈な心的負荷の伴う体験を、仮想した存在に負わせることで危険な過負荷を回避する脳の防衛機能が、仮想した存在を別人格として独立してしまう重度の精神障害。
後者は、脳を支配している心が、第三者の魂の憑依によって抑え込まれ、脳の支配権を奪われることで生来の人格が後退し、取り憑いた第三者の人格が表出する心霊障害。
おおらかな農村で生まれ育った十二歳の女の子であった。
あまつさえ、彼女には前例があった。
一歳のときに発した『ウニクノテガミ』である。
(当時この子はまだ、ちゃんと言葉を喋れなかったんだから。しかも古語なんて。メソルデについた守護様が、メソルデの口を借りて喋ったとしか思えない)
雨の打ちつける傘下に佇む、一人の少女。
顔は確かにメソルデなのだが、メソルデではない瞳の奥。
まさか……瞳の奥のそのぬしは……サオリ・クラモチ?
「申し申し。お訊ねします」
固唾をのんで問いかけた。
「あなたは、誰ですか?」
すると。
感情なく正面に留まっていた横顔が、すっとこちらへ傾いた。
そうして彼女の口がうごく。
「フロリダス様……」
近くでなければ聞き取れない、線の細い少女の声。
あれ? 戻ってる?
「……わたし今」
「ああ、声が戻ったっ。よかったあ。大丈夫かっ?」
屈んで寄ったチャルの傘が、彼女の傘に当たって少しよろめいた。
支えたおれを見返した少女の顔色を、まじまじ、観察する。
目元に窺える奥ゆかしさ、恥ずかしげに視線を逸らす目遣いからも、その瞳の奥の自意識は、間違いない。
「メソルデさん。ご気分は」
すぐに、こくり頷いた。
「……平気です」
「たった今。あなたの身に、不思議なことが起こりました。自覚は、ありますか?」
「はい。夢をみているような感じでした。今は、夢から醒めて、みていた夢を思い出してる気分です」
「なるほど。ちょっと場を……林の中に入りましょう。話しを伺いたい」
おれはメソルデを誘導し、林道脇の木陰へ移った。
木々は疎らであったが、傘を打ち叩く雨音は、いくらか穏やかとなり、声も聞き取りやすくなった。
彼女の正面に屈んで、あらためて問う。
「夢のようだったその出来事。たった今メソルデさんの身に起こったこと。それを読み解く知識が、わたしにはありません。いったい、なにが起こったのか。わたしたちに説明できますか?」
訊ねると、金糸のような乱れ髪を彼女は小指で除けながら、思案顔になりうつ向いた。
少女の口がひらくのを、しばらく黙って待っていると、やがて。
「夢の続き……だったのかも」
言葉をこぼし、おれを見た。
夢の続き?
「どういうことですか?」
「夢をみたんです。今日の朝、起きたとき、夢をみてたこと憶えてて。それが、なんか変な夢だったんです。その夢を今、思い出してました。……予知夢だったのかもしれません。つながってる感じがするんです。さっきのわたしと、夢のわたしが」
そう答えた。
「予知夢ですか。その内容、聞かせてもらえますか?」
「はい。今もはっきり憶えてるのが、いくつかあって。どういう順番だったかは、もうわかんないんですけど」
構いませんと促し、大きくない声に耳を傾けた。
「きのうゾミナ様のお家で聞いた、フロリダス様の過去生の家。そっくりな部屋でした」
……え?
「彫刻のきれいな扉と、円いかたちをした机」
そう言ってメソルデが、窺うようにおれを見た。
「ええ、その二つは、オキナツ・サワダ邸の特徴と言えるものです」
「夢のわたしは、そこにいました」
……予知夢。
「おとなの男のひとが一人いて、円い机の周りを、ゆっくり歩いてまわってるんです。顔とか服とかは、よくわからないんですけど、夢のわたしは、その男のひとを知っていて、話しをしながら笑ってる。そうしているのが、あたりまえな感じでした。それなのに急に、居ても立ってもいられない気分になって、歩いてる男のひとのことを止めるんです。このまま進んだら危ないって」
ほう。
「それからすぐにわたしは、彫刻の扉の前に立ちました。その扉をひらいたら目の前いっぱいに、真っ白い光りが、ぱあっと広がって。その光りのなかに、おとなの女のひとが立ってるんです。顔とか服とかは、やっぱりわからないんですけど、そのひとが魔法使いなのはわかりました。ちからが伝わって、なんだか、遠い親戚のお姉さんに会ったみたいな、そんなふうに感じたのを憶えてます。そしたらその女のひとが、なにかを言って、聞いたわたしは、安心するんです。なんて言ったのかは、思い出せません。でも、それを聞いて、もう大丈夫って思うんです。わたしは頷いて、女のひとがいる扉の外……真っ白い光りのなかに入りました」
おれを見つめた視線が移ろい、夢と現をつなげるように滴る林の東の彼方へ。
「なるほど。それで、夢の続きと」
メソルデがみたその夢は、確かに。
先刻の不可解な状況と、無理なくつながる内容と言えそうだった。
彫刻の綺麗な扉、円い形をした机、その周りを歩く大人の男。
それが彼女の言うように予知夢なのだとしたら、その周る男の正体は、たぶん。
おれの過去生と縁の深い特徴をもつ部屋を歩く大人の男は、おれを意味する暗示であろう。
そのおれに向かって、夢のメソルデが発した言葉。
……このまま進んだら危ない。
豹変したメソルデが、おそらく旧墓地に集まっていた謎の霊団に対して為した言動と、意味合いが通じている。
そして彼女のその豹変は、ひらいた扉の彼方――光りの渦中に立っていたという魔法使いの成人女性に通じていた。
先ほどの異変を引き起こした当人とみる解釈だった。
雨の最中に響いた意味深なあの語り口。
口調から受けた印象は、子供のそれでは確かになかった。
「大人の魔女ですか。遠い親戚のお姉さんに会ったような。うーん」
誰なんだ。
「知らない人だった?」
「はい」
「でも親しみは感じた?」
「はい。わたしのことを、知ってるひとだと感じました。……だから」
言い差して、口を閉じ、沈思する様子を見せた。
なにか思い当たることがあるのか。
ややあってのち、彼女は目線を、濡れそぼる林道へ向けた。
「さっきのわたしは……ウニク・ビルヴァレスだったんじゃないかと思うんです」
土の道を激しく叩き続けていた大降り雨が、いつしか、小降りになっていた。
そんなことが起こり得るのだろうか。
現世の肉体を、過去生の人格が操る。
さすがにそれは、にわかには信じられなかった。
振る舞いの急変したメソルデが、夢に現れた光りの魔女に操られたメソルデだったのだとしても、その魔女の正体を自身の過去生ウニクとみる解釈は、いくらなんでも。
夢の舞台となった場所が、ウニクと同時代人だったオキナツ・サワダ邸を彷彿する部屋だったからだろうか。
その相似は、しかし、本人が言ったとおり昨日のゾミナ様のお宅でのわれわれの会話を聞いていたメソルデの記憶が情報源となって投影された心象だった可能性があり、魂の年輪に由来する過去生の情景である線は薄いように思う。
だが、そうは考えられても……ウニク起源の先祖返り説……フンダンサマの神殿復古。
まつわる諸々の不可思議を背景にもつ当事者の解釈なのだった。
たとえ無理筋でも、考慮しないわけにはいかないだろう。
われわれが認識しているサオリ・クラモチの推定年齢は、十歳前後であり、すなわちその年齢がビルヴァの古霊の没年と見込まれるが、ウニク・ビルヴァレスの没年に関しては、推し量る情報は今のところ得られていなかった。
おれの魂の年輪に残っていたメソルデ酷似の少女――ウニクと推定されるその少女の当時の年齢が、現在のメソルデと同年代と推定されたのみであり、彼女の夢に登場した成人女性が、ウニクの成長した姿との見方を否定することはできない。
「確かに。わたしが予想するウニクの素性は、地球の巫女。つまり魔女なんです。それを念頭に、お聞きした夢の内容を考えると。メソルデさんの解釈が、現実に起こった出来事の、もっとも自然に流れ着く答え」
当事者がそう捉えた主張を、今この場で否定する必要もない。
「だとしたらウニクは、オキナツ・サワダの魂をもつわたしを、守ってくれた。そういうことに、なるんでしょうかね」
意識的に微笑んで応えると、メソルデは引き結んだ口元で微笑み返し、小さくこくんと頷いた。
けれども実際、そんなことが、起こり得るか否か。
道理を、サリアタ様の知識に照らしてからでないと白黒つかないのも確か。
先ほどのメソルデの言動が、第三者による憑依現象とみる点に疑いはなかったが、その第三者として示された夢中の魔女の正体を、ウニク・ビルヴァレス本人とみる点については、おれは予断を保留した。
……ところが。
「それから、もうひとつ。はっきり憶えてるのは、お祈りをしているわたしです。青い空が見えてて、とっても明るくって、でも周りには壁があって。屋根のない部屋みたいなところ。そこにわたしは一人でいて、一所懸命、祈ってるんです。なにを祈ってるのかはわかりません。でもそれはすごく大事なことで、なにがあっても毎日やってることでした」
夢の話しは、まだ終わっていなかった。




