05
四頭立ての獣車を車道に停めたままでは邪魔になる。
少し戻った林道脇に非常用の駐車帯があるとのことで、掛け声とともに手綱が振るわれ、ふたたび車輪が回り出す。
「わしらはそこで、帰りを待つとしよう」
「仕方ないわね。でも暇すぎるわ。もう」
「つまんない。超つまんない」
まもなく乗り入れた駐車帯の奥で、獣車は停車した。
林に囲まれた、こじんまりとした空き地であった。
「そういや。タミちゃんの実家って、こっちのほうだったよな。この道の向こうだっけ?」
「そうです。先の丁字路をまっすぐ行って、林を抜けてすぐですね。コガヤシ牧場」
「ああそうそう。親父さん、上手の牛飼いなんだよな」
メソルデが荷台の後部で傘束の紐をほどいて傘を三本かかえ持ち、おれはご先祖の手帳が入った背嚢を肩に引っ掛け、サリアタ様に続き泥濘みの雑草地を踏んだ。
見あげた一面は変わらずの雨曇りであり、いつ降り出してもおかしくない空模様。
チャルが、御者台の上部で丸められていた幌を解いて前方へ展げていき、停車中の兎馬たちが雨曝しにならぬよう臨時の天幕を張る作業を手際よく行う。
おれも手伝って、仮設の支柱を押さえていると。
「メソルデや。ちょっとな。おでこの眼を見せとくれ」
背後でそう声が聞こえ、返り見た老魔法使いが手招く。
面前に立った少女の額に、そうして片手をすっと翳し。
「……うむ。いい塩梅だのう。ゾミナもようやっとるわ」
「フロリダス様。ありがとうございます」
支柱をチャルに預け、振り返って二人の様子を窺う。
「これなら、ある程度、把握できそうだな。現場の状況。可愛い魔女さんのちからを通してな。後ろを向いてごらん」
従って、くるり背を向ける。
三つ編みの金髪の後頭部を、鋭く凝視するサリアタ様。
すると、彼女が。
「あ……」
驚いたように両目を見ひらいた。
「聞こえたかい?」
「は、はい。聞こえました。わたしの名前……」
「わしが呼んだんだ。今の音。その音が、向こうで鳴ったらな。すぐにフロリダス先生に伝えるんだ。そんとき先生がなにをしてても構わん。必ず伝えること。いいね?」
含むようにそう言うと、念の為だ、とおれを見た。
「メソルデが、わしが送ったその音を聞いたと言ったら、必ず、場を離れてくれ。あわてず、旧墓地から出てくれ」
なるほど。
危険信号か。
「承知しました」
その間に雨が、ぽつり、ぽつり、落ちはじめた。
天幕を張り終え、荷台の後部から持ち物を取り出すチャルを待つうち段々と雨あしが強くなり、メソルデから受け取った傘をひらいた時……たちまちの土砂降りとなった。
三人の魔法使いたちが急いで車に乗り込んで、御者台から顔を覗かせたサリアタ様が片手をひらひら振った。
俄に騒然となって声はかき消され、おれも手で応じる。
二つの傘が、揃ってこちらへ歩み寄り、驟雨が天幕を叩く烈しい音に驚く兎馬たちを暫し、落ち着かせてのち。
われわれは駐車帯を出た。
降り頻る、烟る視界の林の道。
メソルデを挟んで横並びで歩いていく互いの声は、喧しい雨音に遮られ、聞き取りづらくあったので黙々と。
風がないのが幸いだったが、跳ね立つ雨と泥とで足元は早々に汚れきり、靴中もすでにびっしょりで、気持ち悪い。
チャルがたびたび振り返っているのは、たぶん、背後から来る車輌を気にしてのことだろう。
彼の大きな背が負う皮袋の中には、角灯が入っていた。
おれが注意を注ぐ少女は隣をちゃぽちゃぽ歩いていた。
万全の合羽姿で、傘の中棒を両手で握りしめながら。
こうなると……少なからずの期待をしてしまう。
メソルデ・クランチ魔法使い。
推定される過去生は神にかしづく聖なる乙女……巫女。
もし、彼女が、サオリと支障なく疎通できたとしたら。
一気に、核心へ踏み込めるかもしれなかった。
ビルヴァの三つ目の伝承――鍵穴である。
龍の柱を調べるまでもなく、その正体を知るはずの女神様から直接、情報を引き出せるかもしれなかった。
ルイメレクが百年前、書庫の在処を聞き出したように。
それが叶えば最善であるが、勿論、最優先ではない。
無難にお伺いを頼めるか、どうか。
よくよく見極めなければ……。
やがて、われらは丁字路に差し掛かった。
林道は直進と右折の二手に岐れ、チャルの誘導で右へ。
直進の北の道の彼方を横目に見ながら曲がりかけた時。
不意に片腕が引っ張られ、目をやった。
隣から伸びたメソルデの手が、上衣の袖を攫んでいた。
足をとめると彼女もとまり、その傘が後ろへ傾く。
そうして心細げな眼差しが、おれを見あげたのだった。
篠突く雨の三叉路で、われわれは立ち止まった。
「どうしました?」
問いかけに彼女の唇がうごいたが、声は届かなかった。
歩みを制止したその振る舞いから、心境を察する。
だめ……だったようだ。
サオリへ近づいていくことに抵抗を感じた模様。
行けるかと思ったが、厳しかったか。
やむなし。
メソルデの安全より先に立つものは今はないのだ。
健気な性格の子だから、言い出しにくかったろう。
おれは微笑んで、傍らに屈み込んだ。
「いいんですよ。大丈夫。教えてくれてありがとう」
ともに傍らに屈んだチャルへ、いったん戻って出直しましょうと告げると彼女が、おれをじっと見おろしながら。
少しばかり張った声で。
「お化けが、いるんです。旧墓地に。たくさんの人が」
言って、東へ延びている道の彼方を見つめたのだった。
道先を見やるメソルデの表情を、つくづくと観察した。
不安げでは確かにあったが、畏怖の色は見られない。
神座への接近に際し、気後れしてはいないようだ。
「サリアタ様から連絡が?」
「いえ。まだ、ないです」
どうやら、彼女の振る舞いは、言葉のとおり。
おでこの眼が、進路の異状を感知した。
そういうことのようだった。
「なるほど。大勢の霊が旧墓地に……。御祭神様の影響でしょうかね。昇天を望む方々が、集まってしまったのかな」
述べると彼女が、前を見つめたまま、首を横に振った。
「なんとなく、そうじゃないような気がします。あの人たち、神殿のほうを向いてない。みんなこっちを見てるんです」
目線をおれに移した。
「フロリダス様のこと見てるんです」
え?
「わたしを見てる?」
「はい。なんだか、あの人たち」
ふたたび前方へ目をやった。
「フロリダス様のこと……待ってるみたい」
なにそれ。
「待ってるような感じがするんです。旧墓地で」
そう言った少女の視線を追い、おれも東へ目を向けた。
こちらの林道が、煉瓦道とつながるもう一つの経路。
旧墓地まで、もうまもなくとのことだった。
それでも未だオズカラガスの葉の匂いがわずかも鼻腔に触れないのは、地を叩くこの大降り雨のせいであろう。
いくらか弱まってはきたものの、止む気配はなかった。
霊の群衆が、ビルヴァの旧墓地で、おれを待っている。
「メソルデさん。その方々は、何者ですか?」
「……わかりません。でも、嫌な感じは、しません」
そこでチャルが。
「村のご先祖様なんじゃないか? 旧墓地にいるんなら」
確かに。
彼女も応じて頷いた。
「うん。そうなのかも。……けど、よくわかんない」
見習いの魔女に精密な探知を求めるのは無理のようだ。
「どうされます? 戻って、サリアタ様にご判断を」
仰ぐのが間違いないだろう。
連絡はないとのことだったが、駐車帯は遠くない。
進むのは、老魔法使いに確かめてからでも遅くない。
「戻りましょう。状況が読めません」
いやはや、次から次に、予期せぬ出来事……ん?
彼女が歩きはじめた。
三叉路から、東の林道へ。
「おい、メソルデ。そっちじゃない。車に戻るんだぞ」
旧墓地に続く道を、黙って歩きはじめたのだった。
怪訝に顔を見合わせたチャルと揃ってすぐさま立ちあがり、急いで彼女のあとを追う。
「メソルデさん?」
追いつつその傘の下を覗き込んで、おれは驚いた。
行く手を見つめる彼女の顔が、別人に見えたからだ。
いや、顔はメソルデなのだが、表情が。
か細く不安げだった表情が、まるきり変わっていた。
前方をひたと睨み据え、自信に満ち満ちた面構え……。
「チャルさんっ。様子がおかしいっ」
「おい待ってって。メソルデっ。おいっ」
その時だった。
雨中に、女性の声がつらぬき通った。
「集いし亡者たち。かつての祭神の風に触れ、目覚めましたか。死してなお争い合う、悲しき魂たち。憐れなり」
唖然となった。
響いたその言葉……メソルデの口から発せられていた。
声も彼女のようだったが、いつもの彼女と口調が違う。
「気づきなさい。争いは、とうに終わっているのです。恨み辛みにしがみつくのはおやめなさい。あなた方の居るべき場所は、ここではありません。風に乗って昇りなさい」
どうしよう……。
こういう場合の対処方法は聞いてなかった。
豹変したメソルデの言動にチャルも動揺している。
助けを求めるような視線が何度も彼から飛んできたが。
迷いのない歩調に合わせて、ついていくしかなかった。
「違います。国家元首ではありません。それは誤解なのです。あなた方の地球国は、もうないのですよ」
……ちきゅうこく?
「旗印ではありません。彼は、あなた方を知りません。関わりのない魂なのです。風に乗る気がないのなら、せめて聞き分け、引いてください。いいえ。頼みでは、ありません」
そこで言葉が不意にやみ、メソルデの足取りも。
立ち止まって傘を、ゆっくりと閉じてゆく。
雨は今なお、強い降りである。
金髪が濡れそぼる前におれは慌てて傘を差し向けた。
「メ、メメソルデさん? 雨まだ止んでないよ?」
そう呼びかけた自分の状況に、違和感を覚えた。
なんか、おかしい。
思った瞬間、はたと気づいた。
傘布を絶えなく叩き続けていた雨音が、やんでいる。
咄嗟に空をうち仰いだ。
降り注ぐ雨粒が、われら三人の頭上で、弾かれていた。
あたかも透明の天幕で蔽われているかのように雨が漏れなく脇へ除け、滝のように周囲へ流れ落ちていたのだった。
「フロリダス様……これは」
呆然たる様子のチャルと、おれは顔を見合わせた。
これが、見習いのはずの魔女の……ちから?
「やむを得ません。当座しのぎにしかなりませんが、聞く耳を失った亡者たち。そうですか。引かぬおつもりですか」
言いながら手に持つ傘をおもむろに掲げるメソルデ。
すると、われらの周りを滝のように流れ落ちている雨水が、軌跡を湾曲させ、彼女の前方へ吸い寄せられはじめた。
と同時に背に垂れていた三つ編みが不自然にするりと解け、風もなく豪奢に舞いあがる長く美しい髪の金色。
その眼前の宙空で、渦巻いていく無数の雨粒が――。
「ならば……消えなさい」
万本の銀箭のごとく彼方へ向かって迸った。




