03
兎馬たちが刻む速歩の拍子と、道形に弾む車輪の調子。
天井の幌骨からぶら下がる角灯が、ゆらゆら揺れる。
火の点ったその車内照明は、しかし、もう必要ない。
御者台の彼方を流れゆく景色は、朝であった。
今にも降りそうな雨曇りの空の下。
ビルヴァの旧墓地へと向かっているこの道は、一昨日の夕刻に一度、象擬たちに牽かれ通った道だったが、あのときはすぐに陽が落ちて、眺めらしい眺めは月しかなかった。
ひろびろとした草原いちめんに染まる夏花の優しい薄紅色も、画家のご老人が孤独を愉しんでいるという小さな庵ののっぽな煙突も、行商の荷車から零れ落ちた木の実がこしらえたという長閑やかな果樹の並木道も、どれもこれも、初めて目にする風景であった。
「このあと里へお発ちと聞きました」
手綱を握るチャルのすぐ後ろ――荷台の側面を背にして向かい合わせに固定された三人掛けの長椅子だった。
サリアタ様はその左側、おれは右側にそれぞれ一人で尻を据え、分厚い座布団のおかげで伝う震動はやわらかい。
「ああ、昼頃にな。チャルにも随分と世話になったのう」
「こたびのお越しで、これが最後のご用かと思うと、寂しいです。普段はできない経験を色々とさせて頂きました」
「わしらもだ。一段落ついたら、また皆で遊びに来るよ」
「ええ是非。いつでもいらしてください。大歓迎です」
長椅子から少し離れた荷台の両側には、一人掛けの座席が二脚ずつ、長椅子と同じく対面で設置されてあって、サリアタ様の横に位置する席にセナ魔法使いとメソルデが並んで座り、おれの横にバレストランド魔法使いが座り、彼の隣は空席だった。
そちらの四脚の座席は板発条式の緩衝装置が組み込まれた吊り椅子であり、脚部と座板とが分離した構造のため走行時の衝撃をほとんど受けないが、体重制限がある。
基本的には子供用の即席だったが、加減を知るチャルは乗り込んだセナ魔法使いをその吊り椅子に案内した。
魔女の腰かける板発条が、揺れに軋みをあげるたび、少年がいちいち憎まれ口を叩くのでメソルデが弁護に忙しい。
三人は先刻から、暇潰しの手遊びに興じていた。
「ぐーとちょきとぱーが全部あるんだよ。最強なんだよ」
「つまんないわよねえ、そんなの。ずるよ、ずる」
「でもアラムくん。それって、たしかに負けないかもだけど、勝ってもなくない? 勝ちと負けが混ざってるもん」
「そうよ。ぜんぜん最強じゃないわ。ただのあいこよ」
「うん。あいこ。アラムくんのそれは、あいこ」
「あんたはずっとあいこよ。永遠のあいこアラマルグ」
「いやだっ。その呼び方やだっ」
メソルデが声をあげて笑った。
この道行きにはチャルも一緒だったこともあって、同行する十二歳の少女への配慮が足りてなかったように思う。
セナ魔法使いとバレストランド魔法使いの両人はわれらの目的に直には関わりなかったが、これが正解だったろう。
おれにしても、サリアタ様にしてもだ。
メソルデの緊張を解きほぐす力は、彼らに及ぶまい。
湿り気を帯びた風が、絶えず穏やかに吹き過ぎる。
荷台の後ろにまとめて置かれた水桶や傘束や、整備道具の入った箱やなにかの詰まった袋などが、車の背面で絞られた幌の隙間から覗く光りで、うっすら浮かびあがっていた。
「……どうしました?」
不意にチャルの張り声がし、振り返る。
「すまんが停めてくれ」
サリアタ様が停車の指示を出していた。
「もう少しで着きますが……」
「わかっとる。だから停めてくれ」
従ってただちに手綱が引かれた。
兎馬たちの足並みが乱れ、速度がゆるむ。
まもなく、がこん、かたん……と車輪が止まった。
チャルがすぐさま振り返って。
「どなたか酔われましたか?」
「いや、違うんだ」
応えながら身を乗り出し、行く手を見やる老魔法使い。
御者台越しに外を窺う眼差しが、なにやら険しい。
……なんだろう。
獣車が停車したところは木立の疎らな林の中途で、陽射しがないため薄暗いが、進路上に目につくものは、ない。
墓樹オズカラガスの葉が放つ芳香も、微かも匂わず。
泥濘んだ道が木々の間に延びているだけの場所だった。
「お爺ちゃん。どうしたの?」
問いを受けてもサリアタ様は、無言で前方を難しく見つめたままで、その様子に戸惑いながら反応を待つとやがて。
「……枝葉はどれも……そこまで揺れとらんな……」
そう呟き、困ったように首を傾げるとおれを見た。
「今この車ん中さ。風、吹いとるか?」
次いで面々を見やる。
「吹いとらんよなあ? 風」
そうしてふたたびおれを見たので、頷き応えた。
風……と言えるほどの空気の流れは感じていない。
走行中は感じていたが停車した今は、ほぼ無風だった。
皆も風はないと言う。
するとサリアタ様が……だよなあ……と、ぼそり。
不思議そうな口調だった。
おれが訊ねる。
「どうされました? 風が、なにか?」
「うむ。ちょっとな。妙なことになったわ」
「妙なこと?」
「わしなあ。今も……風を浴びとるんだよ。びゅうびゅう。ひっきりなしに身体に当たっとるの。風がよう」
そう告げたのだった。
「いや違うか。こいつは風じゃない。風のような圧力……と言うべきだな。この林に入った辺りから」
言って目線を前方へ振り向けた。
「車ん中に吹き込んでおった風の感触が変わってのう。妙だと思って、試しに車を停めてもらったら……案の定よ」
「わたしはなにも感じないわ」
「ぼくも。なんなのそれ」
「わからん。チャル、旧墓地まであとどのくらいだ?」
「半時間もかからないかと」
すぐだな、と呟いて。
「目と鼻の先で足止めくらうとは。まいったね」
行く手を探るように睨み据え、首をひねる。
「よもや。木の精かのう。わしに教えてくれとるんか」
「ならそれ、無邪気なのね?」
「ああ邪気はない。わしに対する害意も感じん。ただな、この道の先から吹いてきとるんよ。向かい風みたく。そこが、ちと引っかかる。わしらの進みを拒んどるような感じがしてのう。これ以上、近づくな……ってさ」
「つまり。わたしたちへの警告だと?」
「かもしれん。だが、周りの木の精さんたちは、みんな黙り。呼びかけても応えんのよな。なんだろね」
「お爺ちゃんの探知……時と場合によっては役立たずよね」
「言い方な」
ふと思った。
もしかして、サリアタ様だけが感じている、その圧力。
原因は、サオリ・クラモチ――メソルデの守護様の仕業?
メソルデを伴っての旧墓地行きは間違いだったのか?
「サリアタ様。まさか、それは……彼女が」
「いや、どうだろう」
察した様子で、おれを見返した。
「実際わしらはここまで来ておるからのう。それが好まざる行動だってんなら、昨日の段階で、わしらの目的は頓挫しとるはず。なんかしらの問題が起こってよ。けれどもここに至るまで取り立てて問題がないってことはだ。目的を阻止する意思は、ないものと思われる。そこらを踏まえると、わしが感じとるこの圧力は、別口の事情のように思うよ」
「わたしたちの目的とは……無関係」
「たぶんな。少なくとも見当外れの理由には、ならん」
「だったらなんなのよ」
「皆目わかりません」
そこでアラマルグが言う。
「魔法使いのいたずらじゃない?」
「さてなあ。ここらに人家ってあるんか?」
「この近辺には、なかったと思いますが……」
頭を掻きながら周囲を見渡す。
「すみません。わからないです」
「メソルデが一緒なのよ。お爺ちゃん」
「うむ。チャルこの道たしか……回り道は、なかったよなあ?」
「はい。旧墓地に通じる車道は、ここ一本だけです。この先を迂回するとなると、林の中を歩いていくしかないですが夜中の土砂降りで、今は足場が酷い。おすすめできません。あとは湾岸道路まで戻って煉瓦道から入る経路……メイバドルの帰りに使った道もありますが、ここからですと、兎馬の駆け足でも、二時間ちかくの遠回りになってしまいます」
「だよな」
よっからせ……と腰をあげた。
「先の様子、ちょっくら視てくるわ。バレストランド」
呼ばれて少年が勢いよく立ちあがる。
「ここを頼む」
「了解です」
「皆ちょっと待っててな。判断せんと進めんからのう」
サリアタ様が荷台から御者台へ移って足元を確かめながら道に降り、続いてアラマルグも降り立った。
ふたり揃って兎馬たちの前まで来ると、そこでいったん足をとめ、かるく言葉を交わす。
わしゃわしゃ撫でた銀髪を残し、林道を歩きはじめた。
泥濘を踏んでいく老魔法使いの後ろ姿が、遠ざかる。
「フロリダス様……」
チャルが、前方を見ながら深呼吸。
「なんだか思い出されます。昨日の朝の地下道でのこと」
心なしか不安げだった。
「今度はいったい、なんでしょう……」
「大丈夫よ」
セナ魔法使いの声に振り返った。
「なんであっても、心配いらない」
隣のメソルデに微笑みかける。
「顔面のおっかない山のお爺ちゃんは、もちろんね。永遠のあいこも、こういう時には、役に立つの」
くすりと笑う。
「アラムもあれで、凄く強いからね。ちからの出方だけを見たら、ほとんど無敵。相手を見つめるだけで、魔法の矢の狙いが決まって、相手に当たるんだもの。反則気味のちから持ち。わたしも何度か食らったわ。あの子が里に来て間もない頃だけど。歳がまだ一桁だったから、自分のちからの危険性をわかってなくて、面白半分に使ってたのね。だからわたしも、このままじゃいけないと思って。射たれるたんびに」
おれを見た。
「びんたしてやった」
言ってメソルデに向き直る。
……なぜ、そこでおれを見たのか。
「あんたのちからは、そんなふうに痛いのよって。ちからの痛みを知りなさいって叱ったの。そしたらあの子、ごめんなさいって泣きながら謝るから、抱き締めてあげてね。人の痛みがわからない人は、人で無しと同じだよって何度も諭して。そんなこと繰り返してたら、無闇に射たなくなったわ」
ああ、そうか……そうだった。
おれも、ポハンカ・セナの荒療治の経験者なのだった。
「アラムの強さも信用できる。なにがあっても大丈夫」
短弓を握った銀髪の少年が、道脇の林へ目を配る。
その顔つきは、戦士のそれに変じていた。
メイバドルでの一件を思い出す。
時計塔の天辺を見つめた彼が、直前、手向けた言葉。
(あのお姉ちゃんを怒らせると、めちゃくちゃ怖いよ。魔法の杖でぶたれるよ。ぼくの矢よりも、きっと痛い)
アラマルグ・バレストランドが示す勇者の心は、彼の幼心に植えつけられた種の芽吹きでもあるようだった。
「あっ。フロリダス様。サリアタ様が……」
チャルの言葉に振り返って前方へ目をやると、林の道の彼方からこちらに向かって老魔法使いが……駆けてくる。
その様子は、なにやら血相を変えており、雨後の路面の状態を一切かえりみない、まっしぐらの全力疾走であった。
初めて見る必死の姿に思わず腰が浮きあがる。
「セナ様。サリアタ様が走ってきます。走ってきます」
すぐさま魔女が隣に来て。
「あらほんと。どうしたのかしら」
言うなり身を翻し、後部へ移ってそこの幌の隙間から。
「お爺ちゃんが走ってくるわ。行ってあげて」
おれも行こう。
大急ぎで御者台へもたもた乗り出したところで車の脇から少年が飛び出し駆けていく。
その俊足を追って泥濘みをばしゃばしゃ踏み叩きつつこちらからも近づいていくとサリアタ様は脱力したように足をとめ、その場で両手を膝に突いて前屈みになった。
百歳を越えてなおもご壮健なお方であったが全速力での走りをされるのは、さすがに。
「大丈夫ですかっ」
まもなく駆け寄った。
「フロリダス殿……まいったよ……」
荒い呼吸の肩に手を添える。
「どうされたんです。走られるなんて」
「ああ。全く油断しとったわ。すんでで逃げ出してきた」
息も切れ切れにそう言って、おれを見あげる。
……カユ・サリアタが、逃げ出した?
「大番狂わせだ。わしは旧墓地へ行けんくなった」
「先で、なにがあったんですか」
理由を問うと、はああ……と、ひと息ついて腰をあげ、額の汗をぬぐいながら顔をゆがめた。
「生き返っとるんだよ。もぬけの殻だった地下神殿が」
え?
「御祭神様がお戻りなんだ。樹海の巨木におわしたサオリが……フンダンサマが、ビルヴァの神殿に帰ってきとるぞ」




