01
寝相で掛け布団が遠のいて、少し肌寒く感じはしたが。
目が醒めたのは、きっと雨音のせいだろう。
瞼をあけても真っ暗な深夜の村屋に、ざあざあと。
ざあざあと、つよく耳に響いていた。
(朝方は、降るかもしれんから傘を忘れるな)
灯台の火を消してから、どれくらい経ったのか。
おれが就いた床は坐卓にいちばん近い端っこで、隣の布団で眠っているゾミナ様のほうへ退けてしまった掛け布団をゆっくり引き寄せ、足も使ってこそこそと整える。
あのあと暫し、三人で話し合ったこと。
セナ魔法使いが坐卓に残していった憶測について、オズカラガス様に確認しようにも雲隠れしたままつかまらず、所感を突き合わせるだけでは、もちろん答えは出ず。
可能性として只、有り得ると判ぜられたのみだった。
魔法使いの老夫婦は釈然としない顔であった。
メイバドルでおれが買った塩の話しにそれからなって、明日われらが留守をする午前のあいだにゾミナ様が、里へ持ち帰るぶんの袋詰めをしておいてくれることになった。
すっかり忘れていたから有り難い。
もし、おれに掛けられた命を守る魔法をも、サオリ・クラモチの手引きの一つだったとしたら。
彼女の思惑は奈辺にありやと、静まり返った夜間のうちで不毛に考えてしまって、なかなか寝付けなかったのに。
それでもようやく眠れたのに。
仕方ない。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹。
…………。
長い昼が終わり、長い夜が始まった。
西に昇り、そして東へ。
大地に橙色の別れを告げ、太陽は、流れていった。
歓迎すべき夜の到来。
広きな隕石孔を眼下に望む、切り岸の縁。
去りやらぬ昼の名残りで、表面に微かな光沢を映す小型の穹窿が、おれの仕事場だった。
そこに配属されたのは、おれ一人だけだった。
ほかには誰もいず、寿命規制の勤務時刻を過ぎると、絶壁にたたずむ淋しい職場は静かな寝床と化す。
おれは穹窿のあるじだった。
干からびた大地に覗く鉱床が点々と綺羅めいていた。
どこまでも藍色に沈む砂漠を地平線の彼方に追いやり、そのまま夜空へ視線を転じると、そこには幾万幾億の皎々たる光りの渦がひろがっている。
その銀河の群れは、耀かず、瞬きもせず。
潰えることなく、まばゆい光りを放ち続けていた。
そこへ月が現れる。
どちらかと言えば地球の面影に似た、蒼く美しい満月。
待ち焦がれた展望が、萎えた心を癒しはじめる。
孤独が紛れた。
けれども夜空を仰ぐたび、戸惑いもするのだった。
あの万感の月の下へ、この身を曝すほどに、おれは意義ある存在であろうか。
考えるとたちまち苦しくなって、頭を振る。
そんな無意味な思考と動作を、幾度も繰り返していた。
ある日おれは彼女に、ささやかな贈り物をした。
手製の円盤に名前を刻んで、彼女のもとへ届けたのだ。
配達人は、固形燃料を搭載した多段式の飛翔体。
穹窿のそとで、秒読み開始。
三。
二。
一。
点火。
紫色の炎を噴いて、天よりも高く飛んでった。
おれの眠りを妨げるのは、決まってこの箱だった。
散々それは、ざあざあと耳障りな音を発したのち、最後に小さく、ぴぴっと鳴って、文字列を見せつけてくる。
『サワダ先生。定時通信です。五分後にお繋ぎします』
その短い言葉を見るのは、これで何度目になるだろう。
思い出すこともできない。
けれど、初めて見た日のことは憶えている。
静寂に冴えた星空の、冬の匂いを。
ひたすらに蒼い月の光りを。
彼女のあの産声を、憶えている。
…………。
瞼をあけても真っ暗な天井に、ざあざあと。
ざあざあと、雨音が耳に響いていた。
まったく妙な夢をみたものだ。
「羊。どこまで数えたっけ」
暗い村屋の玄関で、とんとんとんと履いた靴のつま先を叩く魔法使いの少年に続いておれも上がり口に屈み込む。
背嚢を傍らに置き、火の点った角灯を持って広々とした土間を照らしながら自分の靴を探していると、灯りのそとから細らかな腕が伸びてきて、見慣れた靴が揃えて置かれた。
(メソルデや。どうかな? 昨日はわしらも、ああ言いはしたものの、無理強いはしたくない。構わんのだぞ?)
(いえ、無理してません。皆さんと一緒に行きたいです)
三つ編みに束ねた金髪の幼い面が、ちらとおれを見る。
「ありがとうございます。メソルデさん」
礼を言うと、恥ずかしそうに微笑んで、彼女は離れた。
開け放たれた表戸から覗く朝未きの円形広場は真っ暗だったが、深夜あれほど降りしきっていた雨は、止んでいた。
どうせ汚れるだろうと思って着ていく服は決まっていたが、それが昨日のうちに洗濯されて畳まれてあって恐縮した。
皆が起床して早々に、車の支度が整いましたと村長が顔を見せていたので、朝食が終わったのはつい先刻。
予定どおり、夜が明けきる前の出発となった。
旧墓地へ赴くのは、おれも含めて六名。
サリアタ様とメソルデと、セナ魔法使いとアラム少年。
そして御者にはチャルが就いてくれる。
今朝の漁番だった彼がその面子から外れることは急な話しであったため、代わりの者が見つからなかったら村長みずから手綱を握るつもりでいたらしい。
玄関口で、息子になにやら言い含めていた。
「ねえねえ先生。なんかわくわくする。わくわくするう」
今にも小躍りしそうな口調で言った少年は里から着てきた大きめの作務衣に短弓を背負い、右手には昨日メイバドルの衛者にもらった紙製の鳥の玩具を装備していた。
おれの目の前ぴいぴい、ぴいぴい甲高い音が鳴りだす。
「アラムうるさい。それ置いてって。今日は使わないわ」
彼の隣に立つ魔女も里から着てきた貫頭衣と外套を纏い、付属の頭巾をかぶっていたが顔に垂れ布は掛けていない。
「え? いらないの?」
「いらないでしょうよ。わたしも一緒に入るんだから」
帰りがけの寄り道ではなくビルヴァへ戻ってくる段取りだったので、ポハンカ・セナとアラマルグ・バレストランドの両名には村屋で帰りを待つという選択肢もあった。
神殿内部の狭さも含め、サリアタ様がさっきあらためて二人に道理を説いていたが、彼らは揃ってきょとんとし、なにを言ってるのかわからないというふうな態度であった。
「婆さんの予報どおりだったなあ。足場が悪うなった」
玄関前に張り出す庇から夜空を見あげる老魔法使い。
その装いも同じく里から着てきた寛衣姿で、だんだら模様が少しゆがんだ奥様手製の丸い毛織帽子もかぶっていた。
「こりゃ向こうでも一雨くるな」
「チャル。雨具は積んであるわよね?」
「もちろんです。皆様のぶん。あでも傘だけなんですが」
「充分だよ。わしらの用事は地下だからのう」
振り返って屋内に向かい、上がり口に座るおれを見た。
「よし。フロリダス殿。準備はよろしいかな」
頷いて腰をあげた。
背嚢を取って肩に負う。
中身はご先祖の手帳が納まる木箱のみ。
念のために持って行く。
するとセナ魔法使いがおれの胸ぐらをつかんだ。
目隠しのお守りも持っている。
「それではゾミナ様。行って参ります」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「メソルデや。天気はともかくな。言ったらこれは野遊びだ。わしはそのつもりでおるぞ。気楽に参ろう」
「はい」
合羽を着込んだ彼女が笑顔で、こくんと頷いた。




