04
換気のために窓は開けてあったので、縁側の覗く裏戸から夜風が屋内を吹き通り、たびに蝋缶の火が微かに揺れた。
サリアタ様は卓上の空き皿を見つめていた。
しかし、魔法使いのおでこの眼はオズカラガス様に向いているようで、相槌を打つように時々ちいさく頷く。
おれの視界にその話し相手の姿は映らず声もまったく聞こえなかったが、ふと思い出したのは、祠への水のお供え。
そういえば今日おれは、一度も立ち寄っていなかった。
来訪の目的はもしやそれかと、サリアタ様の反応を窺っているとやがてその口から笑い声が漏れた。
「こっちからしたら今は夜なんだよ。外はもう真っ暗なの。たしかに明日のうちに里へ帰るけどもな。うむ」
違うにしても、お気に入りと聞いた白塗り茶碗に水を満たしてから今日の床に就こうと考えていたら。
「フロリダス殿。婆さんがな、おまえさんの手で汲んだ水をご所望だ。わしの手じゃ嫌なんだと。すまんが、頼むよ」
苦笑に応え。
「わかりました。そのつもりでおりましたので、早速」
言いながら腰をあげた。
すると不意にサリアタ様が、片腕をすっとこちらへ伸ばし、おれのうごきを制止するように手のひらを向けた。
そうしてそのまま微動しない。
卓上を見つめる目つきが、なにやら難しくなっている。
どうしたのか。
「……なんだい婆さん。急にどうしたよ。んん?」
優しく問いかけるようにそう言って、顔を振り向けた。
老魔法使いが見やった先は、灯台の裏でぼんやりと照り返す板間――坐卓から少し離れた広間の中央付近だった。
おれに向けられていた手のひらが、今度はそちらへ向かってゆっくりうごいて指差すと、身体をこちらへ傾けた。
「今な、婆さん。そこんとこに突っ立って、床をじっと見おろしとる……。急に雰囲気が変わりよった。その様子がよ。同じなんだ。百年前のあのときと」
「百年前の……」
聞いて思わず声が潜み、浮かせた腰を静かにおろす。
「フンダンサマの言葉が出たときですか? 確かその前にも、この村屋で」
「そう。あの日に見せた様子と同じなんだよ。立ち位置も、雰囲気もな。こいつぁ婆さん……思い出しとるんか。さっきは師の悪口しか言わんかったが。確かめてみるか」
言うなりサリアタ様は卓の下を覗き込むと段袋を引っ張りだし、ルイメレクの書き留めの束を手にぱらぱらめくってそこから四つ折りの紙を抜き取った。
卓上にひらかれたそれは、分数の引き算の練習問題。
その一問の解答欄に残る自身の幼い筆跡を、人差し指でなぞりながら、声を張って音読した。
「木枯らしの晩に、ここで見た。わたしが愛したクランチは、書庫の番人だったから。けれども、伝える口は絶えた」
そこで顔をあげ、薄暗がりの板間に向かって。
「婆さんよ。そんときよ。あんた……なにを見た?」
三百年前の過去へと投げられた問いに、固唾をのむ。
まもなくサリアタ様の右腕が、おもむろにもちあがり、おれの左肩をがしりとつかんだ。
眉根を寄せた眼差しは、虚空の一点を見据えたまま。
「いま一度、聞かせてくれ。風で板戸が騒がしかったその晩だ。婆さんが見たそのフンダンサマは、なんだい?」
おれの肩をつかむ五指に、力が籠もった。
そうして力んで揺さぶりながら、おれを見た。
目つきは険しいままだったが、その口元には、笑みが。
「……龍の彫り物だとよ。木枯らしの晩ここで見たフンダンサマは、龍の形をしとったそうだ。やはり先生が正解だ」
言って目元もふっと和らげ、にやり、笑ったのだった。
すうっと息を吸い込んで、すうっと吐き出した。
おれの推理と、目撃者の証言とが、一致した。
今となってはそうでなければ、齟齬が生じるところまで可能性の欠片が組みあがり始めてはいたものの、思いがけずも登場した三百年前の証人の足踏みによって仮説の地固めは、これで充分に成ったと言えるだろう。
「決まりだな。御神体は手鏡じゃのうてあの柱だ」
「残る問題はそれが村屋にあった理由です」
「婆さんよ」
サリアタ様が視線を振った。
「その龍の彫り物だがな。どうしてここにあったんだ? 番人のクランチ殿は、ここで、なにをしとった?」
問いが続けて発せられた。
ややあってのち、訊ねた顔が、わずかに傾ぐ。
「……なんもしとらん言うとるわ。見ておっただけだと」
なにもせずに見ていただけ?
「だがよ、眺めて終いってのは、どうなんだろう」
フンダンサマの御神体を、なにもせずに見ていただけ。
「わざわざ神殿から村屋に持ち込んでおいてなあ。なんかしら目的があっての行動のように思うんだがのう。まさか村衆こぞって彫刻の観賞会でもやっとったんか?」
板間を見やったその目線が、おれの背後へ移ろった。
「ああ……いつもの婆さんに戻っちまったわ」
吐息をついて、厚ぼったい瞼を閉じた。
「そこんところはルイメレクも聞いておるんだが、当時もはっきりせんかったのよな。ろくな答えが返ってこんかったのを憶えとる。やっぱりそこらの内情までは知らんのか」
「その点に関しては、現物に当たるほかなさそうですね」
「うむ。師が疑っておったんはあの手鏡で、龍の柱のほうは、ただの飾りと見なしてた。あらためてわしらが注意深く、あの柱を調べることは、無駄とはならんはずだ」
両目をひらいておれを見て、口を引き結んで頷いた。
坐卓を照らす灯台の四つの火が、その時。
風もないのに激しく揺らめき、陰影もざわめいた。
あきらかに不自然なその現象を見て、ふと思い出す。
昨夕、ビルヴァへ帰り着き、村屋の玄関の上がり口に座ったおれの足元に突如、出現した一本の柄杓――。
即座に腰をあげた。
「ただ今お水を」
とたんに火が揃って落ち着いたので、苦笑する。
卓の隅に畳まれてあった紙張りの提灯に、蝋缶の火を移しているとサリアタ様が裏戸の暗がりへ目をやりながら。
「ああ聞こえとらん聞こえとらん。お守りを首に掛けとるから。某殿は今、婆さんの姿も声も認識外だ。……だから聞こえとらんて。話しを聞けよ。てかその某殿ってなんだよ」
点った灯りの柄を持って、会話の様子を窺う。
「マテワト・フロリダス殿は、魔法使いじゃないからさ。ゾミナが拵えたお守りでおでこの眼を閉じてるの。昨日そこは話したろ。そうゾミナの……魚目の話しはもう聞いたよ、怒られっぞ。わかったわかった。わかったよ。うるさいな」
出てったと呟いて、呆れたような顔をこちらへ向けた。
「夜分に重ねてすまんがのう。婆さんがなあ、おまえさんと話しがしたいんだと。話しがしたかったことを思い出したらしいや。どうもそれで来たみたいだわ」
「ああ、そうなんですか。わたしと……」
「もう井戸んとこで待っておる。すまんが、水汲みの手間がてら、ちいと相手してやってくれ。お守りを預かろう」
首から外し、手渡した。
「ついでに先生からも聞いてみてくれんか。龍の彫り物がこの村屋にあった理由。おまえさんの口から訊ねたら、また違った答えが返ってくるやもしれん」
承知し、おれは縁側に出て、裏戸を閉めた。




