02
慌ただしげに村屋の玄関を出ていった。
地面を叩く突っ掛け草履の音が、夜の静寂に遠ざかる。
「さあて。明日はどうなることやら……だなあ」
言いながら腰をあげ、食器棚へ歩み寄り。
「歯、磨いた?」
「はい。さっき便所へ行ったついでに」
「わしは、まだだから。ちょっと摘まも。小腹すいた」
木皿を持って戻ってきて、手元に置く。
そうして卓の下からアラマルグの菓子袋を取り出すと、袋の口をあけ、皿の上に小粒の煎餅をからから移す。
「うちのバレストランドも、歳はメソルデとそう変わらんのだがのう。あいつは年相応どころか、いくらか幼いように感じるわ。年がら年中、遊ぶことしか考えとらん。どう思うよ。教育者でもあるフロリダス先生は、そこらへん」
広間の隅に置かれた一組の布団へ、おれは目をやった。
「彼くらいの歳の男児は、同年の女児と比べ平均的に幼めです。全力で遊びに取り組む点は、今後の飛躍のための基礎体力の養いに通じます。それに、バレストランド魔法使いの振る舞いにも、ご薫陶が血肉となっている様子がすでに見受けられます。わたしの目には、勇者の器と映っております」
そう答えると、サリアタ様は笑みを浮かべつつ訝しげに眉根を寄せて、問うようにおれを見た。
「昨日のメイバドルでの一件です。セナ魔法使いを追ってきた魔女の霊。鐘を鳴らしたその相手に向かって彼が魔法を行使したのは、敵対した衛者の攻撃から、魔女の霊を守るためでした。破魔のちからが撃ち抜く前に、慈悲のちからを打ち放ち、騒動の原因を沈黙させたのです。そんな判断を即座にくだした彼を間近で見ました。将来が楽しみな若者です」
「勇者の器ねえ……」
ぽいと口に放り込み、ばりぼりと咀嚼する。
「ゾミナもリリもポハンカも、あいつのことを愛称で呼ぶ。名前を約めてアラムとな。だがわしは、バレストランドと、あえて名字で呼んでおる。効果があるのかどうかはわからんのだが、親から継いだ家名を常に意識させ、自立心の芽生えを促すつもりでな。わざとそう呼んでおるのよ。自分の将来を考えるきっかけの一つにでもなればと思ってのう」
「なるほど。思いやり深いお考えです」
「だが、今んとこ、わずかも響いておらんようだ。わしがくたばるまで、傍に居ると言って聞かんでな。けれどもあいにくサリアタの寿命は、まだまだとうぶん尽きんのです。勉学やらなにやらの面倒はずっとリリがみてくれておるんだが、今のままだと大人になっても、あいつは里から出られんわ。困ったもんだ」
と、言いながらも。
どこか嬉しげな老魔法使いであった。
「まあ、男ってのは悲しいかな、もとより阿呆だからの」
「同感です。身につまして考えましても」
下げた頭をもちあげると、男の苦笑いが向かい合った。
空になった木皿の上で、摘んだ指先をこすり合わせる。
「旧墓地からなら、麓の東にひろがる丘を通って、森に入れるんで、いくらか早いかと思って帰りがけと申したんだが、ここからでも距離はたいして変わらん。ま、神殿での状況次第ではあるんだがのう。こっちへ昼頃までに戻って発てれば、日暮れ前には、祈祷場に着くだろう」
「山麓の東部にあるんですか?」
「そう。もともとはルイメレクが見つけた場所でな。里との行き来がしやすいよう森をひらいてあったんだが、その途中に厄介な猫どもが棲み着いてしもうてのう。年に数度しか通らん道だったからやむを得ん。やつらにくれてやったわ」
厄介な猫……ウチウ猫か。
「そんでこっちが道筋を変えたのよ。ビルヴァへの夜行の道中、樹海の東の湿原で、めし食ったろ? あの湿原から北へさらに踏み込んだところにあるんだ。着いたらそこで一泊して、夜明けを待って朝方ちょいと用事があって、わしは出かけてくる。そう時はかからずに片づくはずだから、しばらく三人で待っててくれ。戻ったら出発だ」
わかりましたと、応えたものの。
明くる朝のその留守番に、若干の不安要素が。
サリアタ様の祈祷場は東麓の森にあると言う。
その方角の山中こそ、厄介な猫の生息域……。
「あのう」
おずおず訊ねる。
「そちらの祈祷場と、ウチウ猫の縄張りとは、距離的に」
「うん。すぐ近く」
なおさらだ。
「例えば全員でご用向きに赴くという方向性の案なども」
「ああ、それでもべつに、かまわんが」
言い差して、おれを見た。
しばらく、そうして見つめてから。
「そうだな。事情も、そろそろ話しておく頃合いだな」
独り合点するように頷いて、言った。
「里に帰って万事が整ったら、おまえさんを書庫へ連れて行く。先に申しておくが問題はない。心配するようなことは、なんもないからの。先生におかれては、本領のほうに集中してもらいたい。そうなるよう責任をもって段取りする」
思わず背筋がのびた。
「祈祷場から出向く目的ってのが、その下準備でな。昨晩すこし話したと思うが、いま現在、書庫の隠し場所な。ちいと危なかっしい土地になっちまっててのう。案内するより先に、まずはそっちを片しておく必要がある。これ大事。うむ」
なんだか……嫌な予感がした。
確かに昨日の入浴中、サリアタ様から聞いていた。
(ただ、ちいとばかり、危なっかしいところでな)
書庫の所在地。
ものすごく嫌な予感がした。
「あのう、もしかして……。その危ない理由ってのは、ご先祖の書庫……ウチウ猫の縄張りの中なんですか?」
「うん実はそうなの。がっつり、中なの。ご名答」
けらけら笑う老魔法使いを、憮然と眺める。
「だもんだから、前もって書庫への筋道を、風通し良くしておかにゃあならんのよ。それが出かける理由でな。ちょっくら猫どもの根城に行ってくる。だけども全員で行ったところでバレストランドは結局、縄張りの外で待たすことになるから、祈祷場で待つのと変わらんのよな。あいつは連中と何度もばちばちやり合っとってのう。互いに遺恨があって、ちと面倒なんだ。そんでも一緒に来たいなら、来てもいいよ」
「待ってます」
とりあえず――。
ご先祖の書庫を取り巻く現在の状況は、理解した。
嫌な予感は的中したが、話しの前置きでは、その点なんの心配もないとのこと。
サリアタ様が、そう仰るのだから、おれが案じるまでもないだろう。
祈祷場から、ウチウ猫の本拠地に出向くと言う。
彼らの縄張りとなった書庫の土地を解放するために違いないが、それは獣避けの魔法を飛ばすような一時的な処置ではないはずなので、実行手段が気になった。
いったいそこで、なにをなさるおつもりなのか。
「いや、なんもせんよ。やつらの頭に会ってくるだけ」
問いの答えに、おれは唖然となった。
「連中の縄張りに人間が今後ちょくちょく立ち入ることになるから、そこんとこ、頭領にあらかじめ含んでおいてもらわんと、喧嘩になっちゃうからさ。話しをつけてくるんだ」
「……話しを、つける?」
「そう。猫どものお頭な。魔法使いなんだよ」
アラマルグ・バレストランドと初めて会った日。
彼の案内で、河川敷の風呂場へと向かった道中だった。
(やつらのなかに魔法使いがいるというのは、本当です)
先史文明の高度な医療技術が生み出した化け猫――そう古くより伝わるウチウ猫は、謎めいた存在であった。
記録によれば生態は愛玩される家猫とよく似るが、身体つきは倍以上の大きさで、平均寿命は五年と短命、性格は極めて獰猛かつ人にまったく懐かない。
最大の特徴は人間の脳細胞の遺伝子の一部が融合している点であり、よって知能が高く、有史以前に宇宙船から脱走した数匹の個体は、機械文明の追跡を逃げ切ったのだった。
そして千年後の現在、人目を潜ってすっかり帰化した彼らの子孫について巷では、まことしやかな噂が流れていた。
二足で歩行し、人の言葉を喋り、笑うという。
(さすがに、それは嘘だと思います。やつらとはもう何遍もやりあってるけど、ふうーとか、ぎあーとしか言いません。歩き方もふつうの猫ですよ)
おれは身をのり出した。
「そのウチウ猫の魔法使いは、公用語を喋るんですか?」
「あ、違う違う」
片手をひらひら振った。
「視線でのやり取りだ。眼差しから伝わる念を、心が意味に換えて脳みそが解釈する感じかな。けれどもそれで会話が成り立つんは、相手もちからを持った魔法使いだから。猫どもが使う公用語は、わしにもわからん」
くすくす笑った。
「里から行くより祈祷場からのほうが根城に近いんでな。ちょいと足を運んで、縄張りへの出入りを交渉してくるよ」
「万が一、交渉が決裂したば場合はどどうするんです?」
「大丈夫だって。そんなことにはならんから。猫の面子で渋りはするかもしれんが、サリアタを敵にまわしたら、どんな未来が待っているのか。こっちが下手に出て、頭領の顔を立ててやれば、折り合いをつけるくらいに賢いからのう」
そこでおれは深呼吸をした。
「わかりました。サリアタ様が仰るならば」
ただ、一つ、わからない点があった。
今の話しからも窺えたが、双方の力関係は、歴然。
カユ・サリアタのちからをもってすれば、攻撃的なウチウ猫の群れであっても追い払うのは容易なはず。
そもそも、結界を張ってしまえば済む話しだった。
にも関わらず、そうはせずに肝心の土地が、彼らの縄張りとなることを許し、その縄張りへの立ち入りを請うべく彼らと交渉するという手段を採る理由が、わからなかった。
なぜ、書庫の土地を侵した対象を駆逐しないのか。
疑問に思って訊ねると、こちらを、ちらと見やって。
「ルイメレクが、書庫を発見した当時すでにその土地は、森に棲む獣たちの憩い場になっておってなあ。それを人間の一方的な都合でだ。まるごと取りあげちまうってのは、いかがなものかと……もとから結界は張っておらんかったのよ」
返ってきたのは、森の命に対する配慮の言葉であった。
「わしは古語が読めんから、ルイメレクが死んだのち、おのず書庫への足は遠のいた。そんでも森の秘密を預かった以上は、なにかしら手立てを講じねばならん。どうしたもんかと悩んでおったら……五十年くらい前だったかのう。いつのまにやら書庫の土地は、鼻息の荒い猫どもの餌場になっとった。困ったなあと思ったが、何匹も子を連れた母猫の姿をそこで目にしてな。わしは、なんもできずに踵を返したよ」
そこまで聞いて、気づいておれは息をのんだ。
書庫へ立ち寄ることは、もはやなくとも。
その現存の暴露だけは避けなければならない。
秘密が眠る土地を、獰猛な肉食獣が縄張りとする限り。
そんなところには誰も好んで深入りしない。
ウチウ猫の存在は、手間いらずの防衛策。
そういうことか。
「ものは考えようだな、フロリダス殿」
樹海の魔法使いが、にやり笑った。
「ある意味、連中こそが、現代における書庫の番人だ」




