05
いつかの名前を綴った筆が、静かに卓に置かれた。
呆然となった耳に、サリアタ様の声。
「わしの目には、同じ種類の文字のように見えるんだがの。先祖学者の目から見て、どうだ?」
「ええ……」
間違いないだろう。
当地に現れたご先祖が残した言葉と、同一言語だ。
「同じ古語です」
ぎこちなく頷いて、帳面に向かって指をのばした。
「最初のこの二文字が、サワ・ダ。続く二文字が、オキ・ナツ。確かにこれで、そう読めます。われわれの公用語での読み方だと名前が先にきて、オキナツ・サワダとなりますが、表記に則って名字を先に読む、サワダ・オキナツが、この古語の文化圏における人名の正統の読み方です」
「サワダ・オキナツ……」
場の全員が口々に繰り返した。
近いようで遠い、その名前。
おれになる前のおれは、この古語を母語とした。
ご先祖の手帳の書き手と、同一言語の人間だったのか。
「すごく不思議な気分です。前世での自分の名前を知ったのは、これが初めてなので」
言ってサリアタ様を見あげると、みずからが書いた四つの表意文字を目つき鋭く、見おろしていた。
やがて頷いて、応えた。
「実はな。わしも初めてなんだよ。魂の年輪に、古語の名前を視たんは……。言うほど多くの魂を見てきたわけではないがのう。そんでもこれは例外だと思うよ。たまげたね」
眼下を見据えたまま、ふっと微笑んだ。
「わしらのご先祖は言うまでもないが、地球人だろう? 彼の星から遥々やってきた流れ者が、この星に栄えた人類の祖先だ。だから子孫のわれわれも、その魂の元を辿れば、地球人なのよな。……まあ、中には、人類でない知的生命体を過去生にもつ変わり種もおるがの。ここで今を生きとる人間のほとんどは、地球人の生まれ変わりと言ってよかろう。けれども、そんな生まれ変わりたちの魂の年輪からは、地球人だった頃の過去生は、まず読み取れん。すっかり忘れちまっとる。その意味でもわれわれは、地球とはもはや無縁だ」
目線をおれに移し、じっと見つめた。
「だがおまえさんは、今生の魂にとって断ち切れて然るべき縁を、魂の年輪に刻み込んでおった。つなぎとめておった。これまで先祖学者と呼ばれた者、皆が皆そうなのか、わからんが。少なくともおまえさんが先祖学者を志した原点は、この名前にあるような気がするよ。昇華せずに残っておったオキナツ・サワダの過去生が、現世のマテワト・フロリダスに囁いとったのかもしれん。遠い地球の言葉をな」
聞いて、おれは頷いた。
そう……なのかもしれない、と素直に思えた。
するとセナ魔法使いが帳面に顔を近づけた。
かつてのおれの名を、つくづくと覗き込みながら。
「どう頑張っても……ビルヴァレスとは読まないのね」
そう呟いた。
心なしか残念そうな彼女を見返す。
たぶん、それはどう頑張っても無理であろう。
(前世のあなたが、どんな名前で呼ばれていたのか)
冗談と自分でも言っていたが、半分は本気だったのか。
そこでサリアタ様が。
「ビルヴァレスって。さっき洞窟へ行く前に話したアンナ・ビルヴァレスのことか? 湖の家系のおおもとの」
ううん、と黒髪を揺らす。
「アンナじゃなくて、アンナのご先祖様が、もしかしたら先生の前世かもって思ったの。なんとなく、そんな気がしたのよね。でも違った。そうゆうことじゃ、なかったみたい」
「目がそう傾くのも無理ないわ」
ゾミナ様が微笑み応えた。
「なんせ、ビルヴァの子守唄を聞かせてくれた先生だものね。その先生の過去生が、わたしたちのご先祖様だったなら、むしろ嬉しい」
「そこんとこの判断は、先生にちょっかいした古霊が、ビルヴァの昔と接点をもっとるかどうかだな。無関係かもわからん。だが、ゾミナの見立ては、正解だ」
「ええ、そのようね」
「先方さんが映した幻の家と、同じ造りの家が、先生の過去生に見つかったからのう。いくら残っておっても、現世の自我がそこまではっきりと思い出すことは、まず、ない」
あの体験は、窓の向こうに立った古霊が、仕掛け人。
その体験は、前世のおれが住んでいた家で展開された。
つまり。
あの家は、双方に共通する過去だった。
おれに干渉したあの少女は『沢田沖夏』を知っていた。
生前の知人と見抜いたうえで、おれに接触したわけか。
「フロリダス殿。そんなわけでな。おまえさんとの線がつながった。そう考えてよかろ。先方さんの素性も、年輪に残っておる見込みが高そうだ。もうちっと視てみたい」
「お願いします」
「ところでゾミナ。それがわしのぶん?」
「これはメソルデのぶん」
「でも……」
セナ魔法使いが口をひらいた。
「なら、なんなの? ビルヴァに何百年も昔からいる古霊の生前の知り合いが、生まれ変わって、お客様としてビルヴァにやってきたってことでしょ? なにその偶然」
「まあねえ。そこはちょっと、偶然とは、ね」
言い澱んだゾミナ様に、長椅子から言葉が継がれた。
「だからと申して、必然ともな。この奇遇に至るまで、あまりにも多くの事柄が複雑に絡んどるし。そこには繊細な経緯も含まれておるからのう。これを必然で片づけるのには、強か抵抗がある。わしにもわからんわ」
サリアタ様の言う繊細な経緯とは、おそらく。
おれがこの土地を訪れた原因のことだろう。
わが故郷ラステゴマを襲ったあの災難がなかったら、おれがビルヴァの客人となるこの状況も、なかったろうから。
それをも必然と見なすことを避けたのだ。
「さっきから、視点が、まったくうごかんのよなあ」
気になって今なにが見えているのかとおれが問う。
「たぶん……家の窓から、夜空を見あげておるようなんだが。暗幕が垂れたような黒一色に、ぽつんと光る、まんまるのお月さんが見えとるよ。オキナツ・サワダ殿は、月を愛でる風流人だったのかもしれんな」
くすくす笑った。
「それにしても、さすがに細かいとこはかなり溶けちまってて、焦点を合わせるのが難儀だわ。こりゃ暦があっても日付は読めんな。いったいここは、いつの時代なんだろか」
この星の共通言語として、公用語が制定されたのは、宇宙船がクグニエ海に沈んだ年――紀元元年だった。
当時の議会が公用語に選定した地球語は、記録によると、移住者たちが意思疎通に用いていた第一言語であり、それは公文書館の原本の四割ほどを占めている。
残りの六割は、彼らのその第一言語が多くの移住者たちの母語ではなかったことから生じたもので、多民族の混在する集団のなかで公用語という言語統一が断行された内情には、宇宙船の放棄と同じ理由が窺えた。
異言語間に潜む、争いの因子を排除する。
血で血を洗う人類同士の戦争を目の当たりにしたご先祖たちの、平和への志向が強く働いた施策だったようだ。
われわれの公用語となった地球の第一言語は、しかし、この星の巷間において独自の言語変化を遂げ、現在の公用語と、原形である第一言語とは、一部の文法ならびに多くの語意と発音が異なっている。
そのため、千年後の今となっては公文書館に収蔵された四割の第一言語も、六割の他言語と同じく古語に分類されており、すべての原本が先祖学者の扱いとなっていた。
そうした歴史的背景を踏まえ、オキナツ・サワダの存命年代を推し量るならば、公用語が制定される以前すなわち。
紀元前。
その根拠は、サリアタ様が口にした姓名の語順。
(サ・ワ・ダ・オ……キ・ナ・ツ)
公用語に置き換えられた読み方ではなく、当該古語の正統の読み方で読んだ点である。
つまり現在、古語と呼ばれる地球の多言語が、同族間の話し言葉として通用していた時代。
それを示唆しているように思えるからだ。
オキナツ・サワダの身元の帰属先が、いずこにあったのかは定かでないため、なんとも言えないところだが、その推定年代に従うならば、彼の住所も、おのずと。
あの家の推定所在地は……始まりの都ロヴリアンス。
紀元前のご先祖たちは当時まだ、生命維持の基盤を宇宙船に依存していたはずであり、その可能性が高かった。
「ただなあ、この月……。全体的になんとなく、青っぽいんだよなあ。青く見えるのよ。紗が掛かってるみたいに」
月が、青い?
「フロリダス殿。昔の月って、今と違って青かったの?」
問われ、関する情報を記憶に照らしたが。
すぐには思い当たらなかった。
「いや月の色味は、昔も黄白色だったと思いますが……」
「そうだよなおーっとっとっと酔う酔う酔う酔う酔う」
急にサリアタ様が身体を大きく横へ傾けた。
「なんだなんだ急になんだ。ここは、どこだ……。いや同じ家の中か。さっき見た円卓がある。明るいから、昼間だろうな。んん? ああ誰か、おる。人がおるぞ。……誰だっ」
おれに向かってそう言い放たれ、どぎまぎする。
「姿が、ぼやけとって、よくわからんが。たぶん男だな。おとなの男が、一人……玄関口に立っておる。客のようだなあ。どうやらオキナツ・サワダ殿は客を出迎えとるようだ。ん? あ、いや……一人じゃない。もう一人おった。男のうしろ。ずいぶんと背の低い……んん? これは……。おまえさんが窓の向こうに見た女の子って。歳の頃は十歳くらい、肩までの黒髪だと申したな。目のくりっとした、可愛らしい」
「は、はい。そうです。そのとおりです」
「この子の姿だけ、はっきり視えるわ。けれども、わしが見とるこの子が、先生が見た子なのか、どうか」
そうか、そこの一致は、サリアタ様にはわからない。
だが……それを確認する方法は、ある。
「ちょっといったん切るか。ポハンカおまえ、先生が見た女の子の顔、見とるよな。同一人物かどうか確かめてくれ。わしの記憶をみろ」
そう、それでわかる。
「え。やだ」
「なんでだよっ」
魔女が、嫌そうな顔をして身を引いた。
「だってお爺ちゃんの記憶、臭いんだもん」
……記憶にも、匂いがあるのか?
「フロリダス殿。わし今、ひどいこと言われました」
「ポハンカお願いよ。大事なのは、わかってるでしょ」
ゾミナ様の冷静な声に促されたから、ではないようだ。
つんと澄ましてゆっくりと、彼女が立ちあがった。




