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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
魔女の住む家
141/205

01

「――そうねえ。わたしから言える確かなことは」


 陽の当たる窓辺で輝く、無色透明の硝子玉。

 それを見つめたあおい瞳が、卓の彼方でこちらを向いた。


「先生が体験されたその出来事。現実に起こったことではないわ。なんでかって言うと単純に、あの林道沿いに建物はいっこも建ってないから。昔も今も」


 やはり、そうかと思った。

 扉の綺麗な一軒家に通じていた、草の蔓延はびこる細い小径こみち

 夢かうつつか、判然としない状態から我に返ってすぐさま探したのだったが、見つからなかった。

 どころか脇道そのものが、一筋ひとすじもなかった。

 薄暗い林間に凝らした目にも、それらしき家影が映ることはなかったのである。


「あそこには家は建てない決まりになってるのよ。村の南手みなみて火床ひどこを備えた建物が多いからね。あの空間で、住宅地を切り離してるの。いわゆる防災緑地ってやつね。わたしが里へ越すまでは、なんにもない更地さらちだったんだけどねえ……」


 そう言ってゾミナ様は、思案顔を出窓へ向けた。




 境界線のあやふやだったあの不思議な体験のあと、おれはいったん村屋むらやへ戻ったのだった。

 誰もいなかった静かな広間にうずくまり、小汚い布のかたまりからお守りをふところへ移したのち、眼下に覗き込んだのは。

 ご先祖の手帳だった。


(だがビルヴァレス――)


 姿なき老人が呼びかけた、その名前。

 そう聞こえたように憶えるが、聞き違いでなければ、そう名指しされた人物は。


(なんべん説いても、本を戻す気はないんだな?)


 千年前、当地へ秘密裏に現れた集団の指導的立場にあり、ビルヴァという村名の語源となった当事者。

 ロヴリアンスの最高意思決定にそむいた異端の思想家。

 葬られた禁断の科学知識を、書庫に復した張本人。

 ならば……。

 その話し相手であった老人は、何者か。

 やりとりを思い返しても、姓名は出ていない。

 しかし、おれが耳にしたビルヴァレスの第一声は。


(作家の視点かなんだか知らないがよ)


 太陽系の叙事詩をものにした先史人類の文学者。

 公文書館の原本作成者の筆頭にも名を残した人物。

 後年その事績(じせき)から(きょう)の敬称で呼ばれる偉人。

 クライレ・ユゲ・モンデス……。


『モン■■は、公文■館から、暗黒時代の記録を■■て削除す■決断をくだした――』


『子孫から自由を■■■。ならば私は取り戻す■■■』


『どちらが正しい? 私か? ■ン■スか?』


 そう見做みなしたならば、手帳の記述と会話の内容。

 脈絡が合うのだった。


 先ほど村屋で自分が口走った言葉――時空を超える。

 それが本当に、現実に起こったように思え、しばらく呆然となっていたが、賑やかな座敷にふたたび身をひたすうち。

 先刻の体験から次第次第に現実感が薄らいで、物的証拠が見つからなかったこともあって思考が一方へと傾いた。


 ビルヴァレスなるは、長老から聞いたばかりの名前であり、直前まで念頭に強くとどまっていた。

 直後に始まった議論の内容も、机上の手紙の文面も、昔に議事録で読んだ憶えがあり、概要を知っていたと言える。

 小庭に立った少女の姿も、その二色の装束が巫女を意味する象徴である知識を有しているうえ、当地における巫女の存在を、理屈で否定しても心情では否定できずにいた。

 つまり、唐突な扉の向こうで展開した事柄はすべて、おのれの脳内で自己完結する。

 おれの記憶を情報源に、希望的観測を含んで再構築された幻想――そう捉えることも可能なのだった。

 脈絡が合うのは当然。

 事実として確かな、目隠しのお守りの不携帯。

 悪戯好きの霊にからかわれた気分になった。


 それからおれは歓談の合間、ずっと考えていた。

 ひもが欲しいと。

 一本で構わない、紐が欲しいと。

 お守りの小袋にゆわって、首からさげておきたかった。

 くす自信があった。


 サリアタ様とアラマルグは洞窟へ行ったきりだったが、不在の理由を承知している村長はやがて手を打ち鳴らし、昼から数時間に及んだ会食はお開きとなった。

 村屋に戻っても誰もいないはずだったので、ゾミナ様に体験の判断をお伺いしようと、食堂からそのままお宅へ直行すると入れ替わりにメソルデが片づけの手伝いをしに食堂へ行き、それまで彼女が座っていた席に招じられたのだった。

 だから今、おれの目の前には、ポハンカ・セナがいる。




 ゾミナ・サリアタ魔法使いの邸宅は村の東端に広がる比較的小規模な耕作地沿いにあり、三角屋根の瀟洒しょうしゃな二階家。

 西側の通りに面して横付けの外階段があって、二階は今は空き部屋らしく昨晩アラマルグはそこに泊まったようだ。

 一階には玄関扉が二か所あり、階段下の扉が居間に通じる表玄関で、もう一つの扉は居間の横に増築されたゾミナ様の仕事場――魔法のお守り工房にあった。


 畠の向こうに横たわる台地崖だいちがいの森が、陽の射す長閑のどやかな居間の窓から遠く望める。

 その窓際のあかるい卓で、両手で持った茶碗をすすりながらおれを見やったその女性ひとは、昼前にわかれたときに着ていた雨色の貫頭衣かんとういから、また意匠の違う姿に変わっていた。

 なにをよそおっても様になったが、三度目の衣替えでのその服装が、子供っぽさと大人っぽさをあわせ持つ彼女にいちばん似合ってると思う。

 朝色のゆったりとした長袖ながそで下着の上に、夜色に染まる袖なしの貫頭衣を重ね着しており、帯締めではなく腰前に付いた編み上げ紐で腰周りをしぼる様式で、そこからひろがる覆いの裾が、おとなしい足元に届いていた。


 差し当たり、おれは紐が欲しかった。

 それで思わず、彼女の腰に結ばれている編み紐を、じっと見つめてしまったら。


「……なによ」


 怪訝な顔をされた。

 もっともである。

 横目で睨んでくる魔女の隣で、老魔女が口をひらいた。


「そういう非現実的な体験をする要因は、いくつか考えられるけれども。状況からして、いちばん大きな理由はやっぱり、おでこのだわね。ばっちりひらいてた。それが原因で、お化けの干渉を受けたように思うわ」


「なんで忘れるのよ、お守り……」


 うれい気な目つきでそう言われた。

 だいぶ慣れてはきたものの、ぞわり粟立つ。

 おれはしかつめらしく頷いた。


「はい……。うっかりしました。つい」


 毎度うっかりしている自覚はあったが、最後につい添えてしまった。


「そう考えると疑わしいのは……。庭に立っていたという女の子なのよね。先生が見たその空き地と、竹の繁り。それに関してはあの林道の南側に実際にあるのよ。村の南端にひろがる竹林とつながってるの。ただ、池はないのよね。湧き水は土地柄ここでは望めないから。池に見えたのは、ただの水溜まりだと思うわ」


「ならば……。わたしが見た、窓の向こう側は……」


「そこだけ現実。その現実の景色の中に立っていた女の子なのよ。声しか聞こえなかったという円卓の男性たちは、たぶん、お化けじゃないわ。お化けは、その女の子。全部その子の仕業かも」


 ゾミナ様の口からそう聞いて、脳裏で、すっと重なる。

 陽だまりの小庭でおれを指差した一人の少女。

 ビルヴァの地下道に現れた子供の魔女の霊。

 両者が自然と、すっと重なった。

 するとセナ魔法使いが。


「それって……。洞窟の魔女っ子さんなんじゃない?」


「どうかしらねえ。なんとも言えない。それを窺わせる様子が表れてはいるけれど、魔女っ子さんの姿はアラムもはっきりとは見ていないようだし、先生が見た女の子の姿も、霊の本当の姿なのかどうか、判断のしようがないからね。決めつけてしまうと真実を見誤るわ」


「わたしは、同一人物だと思うけどなあ……」


 遠慮がちの口調で呟いた。


「今朝から妙なことが立て続けに起こって、いずれも女の子が絡んでる。偶然じゃないと思う」


 そこは、おれも及んだところであったが。

 ゾミナ様の意見にかぶせる発言を聞いてつくづく思う。

 真正面に座るこのひとは、周りがなんと言おうと、感性に従って自分の考えを主張する。

 一言であらわすとが強い。

 別の言い方をすれば、意地っ張り。


「もし、そうならよ」


 彼女が続ける。


「朝に洞窟へ行った三人のうち、魔女っ子さんの気をいたのは、あなたってことになるわね。チャルさんとアラムは今、洞窟にいて……。立て続けに起こった妙なこと、そのどちらにも絡んだのは、先生だもの」


「ええ、まあ、そうなんですかね。同一人物ならば」


 言って見やったゾミナ様が、笑みを引っ込め、言った。


「そこらを確かめる手がかりになりそうなのが、先生が聞いた謎めいた言葉なのよ。……初めまして、わたしを憶えてますか……。窓の向こうの女の子が、そう言ったのよね?」


 おれは少し考えてから、頷いた。

 言ったのは、確かにあの少女であったろう。


「意味深よねえ。初対面の相手に、面識を問うなんて」


 そうか。

 同一人物と仮定すると。

 ビルヴァに居着く沈黙の魔女が、喋ったことになる。

 オズカラガス様とアラマルグの話しと食い違う。


「先生となにかしら、関係があった過去を含んだ言葉のように聞こえるけれど。でも先生に心当たりないんでしょ?」


 まったくなかった。

 関係があるとすれば、少女の身なり。

 純白の上着に朱染めの下穿きをまとっていた。

 その姿は、おれの知る巫女のそれだった。

 だが、それだけだ。

 くりっとした目の可愛らしい、一輪挿しの黒髪に……。

 憶えはなかった。


「はい。ありません」


 答えると、ゾミナ様は隣へ顔を向けた。

 見返すセナ魔法使い。


「ポハンカあなた、フロリダス先生の記憶をてるわよね。あなたにも思い当たること、ない?」


「……ないわ」


 やがて答えた魔女が、すっとこちらへ目線を移した。


「だけど。もし関係があったなら、その記憶もあなたの中に必ずある。もういちど覗いたら、わかるかも。今なら」


 え? 今なら?


「きっと深くもぐれるわ。浮き輪が光ってるはずだから」


 浮き輪が光ってる?


「先生どうかしら」


 湖のようなあおい瞳。


「意味深な言葉の意味を解く手がかりが、先生の記憶の底に沈んでるかもしれない。この子のちからなら、先生が忘れてしまっている古い記憶でも、あらためられる。どうする? また鳥肌が立つと思うけど。調べてみる?」


「あなた次第よ。わたしは構わない」


 卓の彼方で二人の魔女が、そうしておれを凝視した。


 あの夜に喰らった凄まじい鳥肌の感覚が思い出され、密やかに身震いしたが、しかし。


(初めまして。わたしを憶えていますか)


 思い当たるふしのない関係性の有無を、過去に確かめておくのは、無駄ではないだろう。


 こちらをじっと見つめてくる美貌の魔女を見返した。

 旋毛つむじの辺りで結って垂らした長い黒髪。

 切り揃えられた前髪の下でまばたく大きな、冴えた瞳。

 彼女のちからは、目にまつわる。

 左手が放つ緑の光りは、眼球の認識範囲を広げる。

 そして生物の眼球は、露出した頭脳であり、眼球から頭脳を介して五臓六腑ごぞうろっぷの細胞に蓄積された記憶を覗く。

 ポハンカ・セナが魔法の一つ――記憶透視。


 ……やってもらおう。


 だが、やられる前に、ちょっと心構えが必要だ。


「わかりました。お願いします。ただ、少々お待ち」


 がん。

 鳴り乱れる不協和音。

 尋常でない鳥肌が一瞬間に全身をほとばりおれは大きくのけって椅子ごと転倒しかけながら頭の隅で心の準備がっ。

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