05
「ああ。開けっ放しだ婆さん。開けたんなら閉めとくれ」
静まっていた屋内で、サリアタ様がそう呟くと、ひらかれたままだった目映い裏口が、がたがたと閉じていく。
そうして裏戸は、とん、と小さな音を発てたのだった。
紀元前か、紀元後か。
その推測を口に出し、言葉として定着させたことで、にわかに色づいた絵があった。
そういうことであったかと……納得があった。
心中から突きあげてくる、根拠のない確信。
おれにしては珍しく漠然たる確信で、戸惑っていたが。
理由が、わかった気がした。
すでにこの絵が見えていたのだ。
ビルヴァの地下洞窟の内で――水没していたあの汀で。
そこで見えたのは、しかし、未完成の絵であった。
絵の題名も見えなかった。
見えた解を、導く式がわからなかったのである。
洞窟と共に、等号の向こう側も、水没していたようだ。
(こんなふうにして、指差してたんだ。あの子……)
被災した地下の住人たちに、新たな住処を地上に――このビルヴァの村を築いてもらうには、彼らに、もう一つのビルヴァから脱出してもらわなければならない。
そして、脱出に成功したならば、それは地球の箱庭が、袋小路ではなかったということになる。
地下への扉はあの洞穴だけではないということだ。
ホズ・レインジ山麓からパガン台地にかけて、火山灰土壌の地中深く、長大な洞窟がひろがっていると予想する。
先ほど歩いた地下道は、その末端であろう。
ポトス湖との分岐点を経た洞窟の先で、水溜まりのほとりから、おれが望んだ闇の彼方。
やはり……つながっていたのではないかと思う。
同じ火成作用でも生成過程の異なる二つの洞窟。
すなわち双方には、結び目が存在した。
それが、もう一つのビルヴァ。
地下に築かれたその潜伏拠点からは、あるいは複数の洞窟が蜘蛛手のごとくに延びていた……かもしれない。
だが、その時を……迎え……。
彼らの選んだ避難経路は、東へと延びる洞窟だった。
(あの子、さっきはどこにもいなかったんだ。こっちから来たような気がする。そんな気がする)
どんな思いで歩いたのだろう。
もう戻れないその道を。
地球から遠ざかっていく、その道を。
親しんだ世界と決別し、新たな自己認識を確立すべく彼らが踏みしめた新天地は、広大な湖を望める土地だった。
つまり。
わが心中に点った根拠のない確信とは……古井戸跡。
造成年代は不明と聞いたビルヴァの文化遺産。
涸れ井戸では、なかった可能性。
あの遺構は、地下への扉。
いや、地上への扉……だったのではないか。
人為的な掘削と思われた擂鉢状の窪地。
あれは地表面の脆い土壌が、直下の洞窟からの貫通で、崩落した跡とも見なせよう。
もし、そうならば、あの竪穴は。
被災地から逃れた地下の住人たちが、地上に根づいた土地が、この場所だった理由となる。
この村が、この場所に存在する答えとなる……。
「そうは思わんか、バレストランド」
サリアタ様の声が耳に入り、思考をとめた。
「フロリダス先生が結んだ言葉は、わしらにとって、救いだ。この村がつくられたんは、ご先祖が大勢、生き延びたからなんじゃないかってことだからな」
優しく微笑みながらの言葉に、うん、と頷き返した少年の肩を、老魔法使いは、ぽんと叩いて。
「そう考えると筋が一本まっすぐ通る。……確かに」
おれを見た。
「一本だけとは限らんな。むしろ、一本しかなかった率のほうが低かろう。地下への扉。あの洞穴のほかにもあったんだ。そこも潰れちまっとるかもわからんが、もう一つのビルヴァから、ご先祖たちが脱け出した道が、この土地のどっかにあるはずだな。そういうことだろ」
にやり、笑った。
「時空を超える道。あきらめるんは、まだ早いのでは?」
「そうよ。あなたらしくもない」
セナ魔法使いが瞳を向けた。
「あなたが求める地球は、今もきっとそこにあるはず」
「ぼくも行ってみたいな。地球。先生と一緒に。さっきの洞窟探検みたくさ。男の約束だもんねっ」
「後継としてわたしも行ってみたいところだけど――」
「男の約束? なによそれ」
「――この足じゃあ、無理だわねえ」
「すまんな婆さん。あ? 違うよ、魚目のことじゃない」
「だいじょぶだって。ぼくがおんぶしてあげる」
「あら、嬉しい。けれども、アラムの背におぶさったら、地球に辿り着くまでの道中、二人してあたふたしそうだわ」
「その折には、倅の背中をお使いください。ビルヴァが、ゾミナ様の足となります。ご案じ無用です」
「なんだよ言い出しっぺが。今度は黙りこくって」
笑いながらおれを見ると、サリアタ様は飲みかけたポツ茶を、ゆっくりと口元から離した。
茶碗が卓に置かれた時には、笑みは消えていた。
「……それでも。辿るのは無理なんか?」
頷くように、おれはうなだれた。
「ビルヴァの開祖が辿った脱出経路。それがどこであったのか。思い至りました」
「どこだい?」
伏せた顔をあげ、ふたたび静まった卓上に。
古井戸跡についての見解をひろげたのだった。
問うたのはサリアタ様だったが、おれはその見解をおもに、自身の右手側に向かって述べた。
そちらに居られるお二方は、一千年のご子孫であった。
「――現在のこのビルヴァは、あの竪穴から始まった。そのように捉えますと、ここまでの一連の推理は、ごく自然の流れで、決着がつきます……。ただ、その点に関しましても、裏付けとなる証拠はありません。いずれもわたしの頭の中でのみ展開した、想像に過ぎません。ですので、あくまで可能性の一つとして、お納めいただければと」
語り終え、自説の無遠慮を、お血筋のお二人に謝す。
ゾミナ様の表情はおれからは見えなかったが、老魔女を見つめる村長の表情には、うっすら笑みが浮かんでいた。
先に口をひらいたのはサリアタ様だった。
深々とため息をついてから。
「なるほどの。時空を超えていく道は、水没しとったか」
「はい。現時点で、脱出経路と目される該当地点。もはや通行不能であることを、この目で確認いたしました」
するとゾミナ様が、村長に向かって。
「あれを、枯れ井戸だって言い出したのは……御大じゃないわよねえ」
「ええ、違うと思います。御大も、伝え聞いた話しを書かれただけでしょう」
そうよねえ……と夫人が呟き、こちらを向いた。
「誰が井戸って言ったのかは、もうわからないんだけれど。村の蔵にね、ミラチエーゲと一緒に旧墓地を暴いた長の日記があるのよ。隠居の身となって暇の潰しに書いてたらしくて、最近の若いもんはどうたらこうたら、思うままに日々を綴ったつまんない日記なんだれども、そこにあの窪地は昔の枯れ井戸だろうって書いてあってね。鵜呑みにしてたのよね」
「あの場所について書かれた書物は、蔵に残る古文書には一冊もないものですから。それで、てっきりわたしたちも井戸とばかり。はい」
蔵に残る古文書?
「……なるほど。仮に、誤解だったとしてもです。あの遺構は、推定される年代から何百年もの時が流れております。意図的に塞がれたのかどうかは、わかりませんが、底の閉じた竪穴を、干上がった井戸とお考えになるのは、むしろ当然と存じます。わたしの捉え方のほうが異例なのです」
応えると、ゾミナ様が村長へ手を伸ばした。
「わたしたちの祖先からの言い伝えと、お客様であるフロリダス先生のお見立て。さて、ビルヴァ当代は、どちらを信じますか?」
「考えるまでもございません。ご先祖様と申せども」
「同感」
ふふふと微笑んだ碧い瞳が、おれを見た。
「なんだか、すっきりしたわ。わたしたちが枯れ井戸と思ってたあの穴。このビルヴァを生んだ……母親の産道のようなものだったのね」
そう言ってふたたび村長に。
「お聞きした先生のお話し、ひとわたり長老にも含んでおいてもらったほうがいいわ。憶えが新しいうちに、今晩にでもね。これはビルヴァの由緒だから、後代にも伝えなければと思うけれど、文字に起こすべきかしらねえ……」
やりとりを聞いていて、ちょっと気になった。
語りの最後に断ったとおり、すべては想像なのである。
証拠と呼べるものは、一つもないのである。
お二人の断定的な反応に、少し戸惑いを覚え、その点をいま一度、強調して申し述べると。
「フロリダス殿」
サリアタ様が呼びかけた。
見返した正面には、穏やかな微笑があった。
「わが師が百年前、このビルヴァを訪れ、面会した村長に問うたのは、つまりはこういうことなんだ。……おまえたちは、何者だ?」
にっこり微笑む。




