01
おれは走った。
湖と山とに挟まれた、小さな村里の道を。
たぶん、一千年の過去へと遡っていくその道を。
ビルヴァの地下道の様相は、岩石洞窟のそれであった。
洞壁に見られた地層のような帯状の線は、火山灰土壌への熔岩流下による穿孔跡と思われる。
一方、渓流沿いの洞窟の内壁は、なめらかだった。
微かに照り返しを放っていたことから主成分は硝子質、空気を含んだ熔岩の固結で生じた気泡跡と思われた。
同じ火成作用でも、推定される生成過程は異なる。
しかし、そうであってもだ。
おれの見立てが正しければ、この一帯の地中には。
ホズ・レインジ山麓からパガン台地にかけて、長大な洞窟がひろがっていることが予想される。
……つながっているのでは。
(あれのことは、確かなところはなにも判っとらんのだ。結局、現物のみがあの洞窟に遺されてあった。本当に、忘れ物みたいにな)
不自然だった。
なぜ、ご先祖は、あんなところに置いたのか。
なぜ、置いたままにしていたのか。
理由は未だわからんが、あの洞穴こそが、地下への扉。
(視線は感じた。ぼくらのほうを見てた)
ビルヴァの地下に現れた、謎の霊。
妙な確信があったのだ。
アラマルグが真似した人差し指は――少年が見たその指先は、もう一つのビルヴァの村へ。
そう暗示しているように思えてならなかった。
「お化けが出たっ」
真っ先に縁側に取りついたアラム少年が靴を脱ぎ散らかしてどたばた広間へ這いあがり、裏庭に転がった彼の履き捨てをチャルと拾って屋内へ目をやると、坐卓を囲む三人が、なにごとかと言うような顔をこちらへ向けていた。
サリアタ氏の対面にポハンカ・セナ。
そして彼女の隣には、ゾミナ夫人の姿が。
村屋に居たのは三人の魔法使いだけであった。
「洞窟にお化けが出たっ」
駆け込んだ少年に、夫人が呆れた口調で。
「お化けって。あなたがなにを言うの。お化けならそこらへんうろうろしてるんだから洞窟にだっているでしょうよ」
そう言って顔を振り向けた老魔女と視線が重なった。
碧い瞳が、裏庭に立つおれを見ながら温雅に微笑む。
長い白髪は今朝も三つ編みで、腰帯を巻かずゆったりと着流した貫頭衣を整えつつ、こちらへすっと身を向けた。
品の漂うその居住まい。
「違うんだって。変なお化けっ」
「わしもひとり知っとるぞ。変なお化け」
「オズカラガス様じゃなくてっ」
急いで靴を脱ぎ縁側に片足をのせた時だった。
セナ魔法使いの冷めた声が耳に入った。
「ちょっとアラム。服を叩いてきなさい。汚れてるから」
上がりかけた足をただちに靴に戻す。
チャルと二人、自分の身体をばたばた叩き埃を払う。
卓上に頬杖を突いて流し目をくれているその美人は、朝食時とは違う雨色の貫頭衣を召していた。
まもなく、おれは夫人の前に膝を突いた。
「失礼いたしました。お早うございます」
「お早うございます、先生。目尻の傷はいかが?」
「大事ありません」
ゾミナ様がおられるとなれば、書庫の内容を承知した旨を直接お伝えしなければならなかったが、すでにアラム少年が勢いよく唾を飛ばしており、夫人も耳を傾けており、改めてと判断する。
サリアタ様への頼みも逸る気持ちがあったものの、切り出すのは謎の霊の件が片づいてからになりそうだった。
言葉足らずの顛末をチャルとおれとで補足しながら語り終えると、三人の魔法使いは揃えて怪訝な顔を浮かべた。
ゾミナ様が言う。
「確かに、色々と変ねえ」
「そうでしょっ? 変でしょっ?」
「おまえも心当たりないんか」
「ないわ。村にそんな妙な霊がまぎれ込んでいたら、お婆様が黙ってないと思うけれど……」
顔をわずかに傾ける。
「祠はお留守ね。どこにいらっしゃるのかしら」
「バレストランドの矢を避けるなんぞ、相当なもんだ」
「ええ。めったにいない、ちから持ちだわねえ」
やはりその点は異例のようだった。
「お爺ちゃんの探知ならつかまるんじゃない?」
どうかのう……と呟きつつ。
「ちょっとやってみるか。出たところは隧道の口だな?」
われらが一斉に頷くと、サリアタ氏は目を閉じた。
厚ぼったいまぶたの上からでも、奥で眼球がせわしなくうごいているのが、はっきりわかった。
それは多くの魔法使いが超自然的存在との交信時に見せる眼球運動であり、透視の千里眼とは違う様子。
「お婆様にもお伺いしてみましょうか。なにかご存じかもしれない。……もっとも、お忘れでなければね」
ふふっと笑い、ゾミナ夫人も目を閉じた。
にわかに座が静まった。
セナ魔法使いも黙ったまま二人の様子を眺めていたが、その目線がすっとバレストランド魔法使いに移ろって、銀髪の乱れた顔面をまじまじと見た。
すると懐から布巾を取り出し、アラムおいでと手招いて、素直に傍らへ躄り寄った少年の顔を優しく。
彼女は拭きながら。
「あんた、泣いたでしょ」
言ったのだった。
「え?」
「泣いたんでしょ。洞窟で」
「な、泣いてないよ」
「嘘おっしゃい」
「ほんとだってば。泣いてない。ねっ先生」
約束の履行を求める声に、おれは当然、頷く。
「泣いてません」
「ほらねっ」
「……ふうん」
ぞくり、背筋が粟立った。
無表情の魔女の瞳が、われらを交互に見やったあと、おもむろに身を傾けて、おれの背後に坐るチャルを見た。
彼は、でっかい体を縮こませ、赤面をうつ向けていた。
なんとなく、申しわけないと思った。
「村からは出てないはずよねえ」
ゾミナ様が口をひらいた。
「声がしない。揺り椅子で眠ってるのかしら」
小首を傾げてそう呟くと、続いてサリアタ氏も。
「やはり見つからんな」
瞼をひらいた。
「あなたでもだめなの」
「うむ。らしいのは、どこにもおらん。とうにここを離れたか、あるいは……隠れたか」
「お爺ちゃんの探知から隠れるなんて」
「婆さんにしても存在に気づけんかったのかもしれんわ。そうなら先方さんは、かなり使う。けれども話しを聞く限り、悪いもんではなさそうだな。そうなんだろ?」
問いかけにアラム少年が、こくんと頷いた。
「その指差しのほかにも、なにか、やっておるかもな。霊が出る前後で、変わったことはなかったか。珍しいことや、妙なこと。なんぞなかったか」
そう言われ、われら三人は顔を見合わせた。
思い当たったのは、ポトス湖の霧だった。
チャルに確認すると、確かにと頷いて言う。
「今朝は湖に霧が立っていたんですが、それが、深かったんです。あんなに深いのは、めったにありません」
「ほう、霧ねえ……。姿も、霧みたいだったと言ったな」
「そんなふうにみえた。うん」
「水と霊とは、縁も深いが……」
「お婆様の声がしないのよ。今どちらに?」
応じて氏が、ふたたび瞼を伏せた。
するとすぐ、村外れの煉瓦道と答えた。
「あんなとこでなにやってんだ。おうい婆さんよ。ちょっとこっち来てくれんか。聞きたいことがあるんだ。そこだとゾミナに届かんから……んん?」
くっくっくっと笑い出した。
「道のど真ん中で、猫と喧嘩しとるわ。しゃー言うとる。小魚盗んで逃げた野良を追っかけてったみたいだ。そんなん放っておけえ」
お婆様ったら……と夫人が苦笑する。
「だめだなこりゃ。わしにまでしゃー言うとるわ」
苦笑いを浮かべ、目をひらいた。
「しかたない。まあ、こっちにしても、急いで対処するようなもんではなさそうだし……。判断は、婆さんに聞いてからだな。そのうち飽きて帰ってくんだろ」
魔法使いの老夫婦が、そこで同時にポツ茶を啜った。
一息ついて、場がいったん空くのを感じ、切り出すなら今かと思って会話の隙間を窺っていると不意にサリアタ氏が、にやりと笑った。
「さて。それはそうと」
言い差して、まともにおれを見た。
「なにやら、思い詰めたような心をぶらさげとる男が、ここに一人おるなあ。その面には憶えがある」
皆が一斉におれを見た。
「よく響く面だ……。婆さんが立て込んでる間に理由を聞いておこうか。マテワト・フロリダス先祖学者」




