03
分岐点から先の洞窟に、床板は敷かれていなかった。
荒い路面が剥き出しの空洞を、われらは黙々とくだる。
悪質な足場を照らす明かりは二つ。
前を歩くチャルの火と、そしてアラム少年は今、おれが提げ持つ灯りを頼りに隣を歩いていた。
彼の角灯は、彼が置いた分岐点の床板に、火種と目印とを兼ねてそのまま残してきたのだった。
思いがけず、本当に洞窟探検と相成ったわけだが。
「あの子、さっきはどこにもいなかったんだ。こっちから来たような気がする。そんな気がする」
チャルの話しでは、この道先は岩盤に塞がれ、行き止まりだが、その奥にも洞窟は続いているようだと言う。
だからおれは、進むか退くか、ちょっと迷った。
なんとなくだが、少女の霊があらわした暗示の答えは、行き止まりの向こう側にあるように思えたからだった。
その予感が確かなら、先へおもむく意味はない。
行ったところで、岩の隙間に聞き耳を立てるくらいしか、おれにはできないだろうから。
とっとと村屋に戻ってサリアタ様に千里眼をお頼みし、その観察から判断するのが適当。
だが、これはもう性分である。
おのれの行動原理に従って、進むことに決めた。
自分のこの目で、該当地点を見たい。
帰還を勧めた案内人を説得した理由は、それだけだ。
「しかしですね。こっちへはもう長いこと入ってません。たぶん誰も、何年も。なので今も安全かどうか」
「この状況下です。現状を知る必要があるでしょう。何年も未確認なら、なおさら。重要は、安全かどうかではない」
「……安全かどうかは、もっとも重要なのでは」
「先生その言葉、ポハンカに告げ口してもいい?」
行き止まりまでの距離は五十メートルほどと聞いた。
不規則な緩急の下り坂であり、岩盤のでこぼこした荒々しい様子が繰り返し靴裏を伝う。
「バレストランド魔法使い。男同士の約束をしないか」
洞壁には地層のような横線が引き続き幾筋も見られた。
だが、地下道の壁に散見された苔の繁殖は、皆無。
苔はわずかにでも光りが当たれば暗所でも成長するから、人の通行がまったくないことをそれは示していた。
「いいよ。じゃあ、さっきのことも内緒ね。男の約束ね」
アラム少年が内緒と言った、さっきのこと、とは。
分岐点で、進退に迷っていたときだった。
ふと、しきりに鼻をすする音が聞こえ、そちらへ灯りを向けると彼が、声を殺して泣いていたので、驚いた。
どうしたのか問うたら、なんでもないと笑う。
ちょっと思い出しちゃっただけ、と。
詳しい理由を彼は言わなかったし、おれも聞かなかったが、その返事に、察するところはあった。
(ほんとに一瞬だったけど、感じた雰囲気がやわらかかった。手触りが、女のひとがまとう雰囲気だった)
この魔法使いの少年は、幼くして両親を亡くしている。
女性の霊からもろに伝わってきた雰囲気のその感触が、在りし日の記憶にも触れてしまったのではなかろうか。
なんでもないと涙をぬぐって、彼は笑ったのだった。
静寂の地下洞窟に響もす神秘的な水音は、これまではあちらこちらの横穴から聞こえてきているようだったが、不確かだったその出どころの一つは間違いなく、この先だった。
向かっている方位は正確にはわからないのだが、村の東に位置するポトス湖への隧道は、古井戸跡から始まっていた地下道の進路から大幅に逸れていた。
どうやら分岐点を経るこの天然洞窟は、東ではない方角に向かって、くだっているようだ。
くだるにつれ、洞内の反響音が大きくなっていく。
ただ、岩の隙間から漏れ聞こえる音にしては、輪郭にこもりがなく、響きの渡りも長かった。
その点をチャルに話すと、彼も同意した。
「ここにも地下水が滲み出していたのを憶えてます。突きあたりの手前に、水溜まりができてるのかもしれません。そこで鳴ってる音でしょうかね。何年も経ってますし、これは、もしかしたら、壁のところまで進めないかも」
そのとおりだった。
行き止まりに達する直前で、われらの足はとまった。
……ぽちゃあん……。
洞窟の底に、微かに波紋がひろがった。
幅いっぱいの水溜まりだった。
足の踏み場はどこにもない。
先への路は、完全に水没してしまっていた。
「どうする先生。靴がびしょびしょになっちゃうよ」
靴がびしょびしょになる程度なら、問題ないのだが。
ここまで洞窟は、ずっと下り坂だった。
それでこの状態ということは……。
「フロリダス様。さすがに、これは」
場の地形を知りたかったが、忘れてしまったと言う。
無理もない。
小石をいくつか拾って、闇に向かって投げてみた。
すると何度か、水音の返りがなかった。
水溜まりの奥側は、地面が露出しているのか……。
灯りを寄せて水面を覗いてみたが、底は見えなかった。
そういえば、さっき。
アラム少年が釣りの話しで。
(まず、魚に向かってちからを撃ちます)
ならば。
「アラマルグ。きみのちからは、水の中でも通るのか?」
右手の親指をびしっと立てた。
「よゆー」
「水溜まりの深さを知りたい。手応えでわかるか? 歩いて渡れそうなところが、あるかどうか」
やってみると彼は応え、短弓を構えた。
「魚がいっぱい泳いでるのを、想像すればいいんだ。ほんものの魚がいなくても、狙うところが見えなくても、あっちこっちに魚がいる。……入れ食いだ」
まるで弦楽器をつま弾くように、びん、びん、びん、びんと調子よく弦音が鳴ったと同時に水溜まりの方々で、ばしゃんばしゃんと水音が跳ねた。
「あれ、当たりが、ぜんぜんないや。先生この水溜まり、すっごい深いかも。広いかも」
「そうかあ」
力なく、水辺に屈む。
「やはり渡れんか」
「やむを得ません。引き返しましょう」
「ええ、そうですね……」
われわれの前に現れた、幼い魔女の霊。
その指の先にあったのは、水没した洞窟だった。
だが、彼女の暗示は、この奥を指していたと思う。
この奥には、なにかが、きっとあるはずだ。
そう信じるのは、少女の霊を信じるからではない。
少年の瞳からぽろぽろと、水滴のように丸く綺麗な涙の玉が、本当にぽろぽろと、こぼれていたからだ。
そんな純んだ感情を呼び起こす善性が、あの霊にはあったのだと、少年が教えてくれたからだ。
つまり、ルイメレクの見解である。
ビルヴァの地下にひろがる、この天然洞窟について。
おれが信じるのは、アラマルグの涙のほうだ。
手帳解読の結論をおれは全面的に支持するし、それはいくら穿って見ようが揺るぎのない答えと思う。
ただ、賢者の明解も、当地に残るご先祖の足跡に関しては、その限りではないかもしれない。
見落としがなかったとは言い切れない。
百年後のおれにも、一考を挟む余地がありそうだ。
ビルヴァの洞窟に出現した謎の霊。
子供の背丈と聞いた魔女は、いったい何者なのか。
どうしてわれわれの前に現れたのか。
暗示と思しきその指先の真意は……。
見つめた水面に、十重二十重に寄せては返す、波紋。
ゆらめく面影のような、意識のような、視線のようなものを感じ、固まった。
今からおよそ七百年前。
ビルヴァの村が、パガン台地から消えた理由。
今からおよそ千年前。
その村を拓いたご先祖が、パガン台地を選んだ理由。
手帳にまつわる始終を知った今となっても、その主要執筆者が率いた異端者の集団が、ロヴリアンスを離脱した際の具体的な手段や方策については、わからない。
しかし、復元の一念とともに当地へ及び、そのまま彼らが定住した可能性は高くなっていた。
持ち出した御神体を、お祀り奉る神殿を、当地に据えているからだ。
そしてその神殿は、地下に築かれ、擬装されていた。
「擬装……」
ホズ・レインジとポトス湖は、かなり目立つ。
あたりまえに人目を引く特徴的な地形である。
だが、だからこそ。
ほかに目が向く率は減ると、言えないか。
「もしかすると、この洞窟は……」
千年前のロヴリアンス。
禁書の復元を目論んだ異端者たちが、古都の一室で、パガン台地を見つめた理由。
地上の地形も都合がよかった。
裏切りの潜む暗部を、主幹勢力の目から逸らすため。
世界最大の湖と、世界有数の山を。
疑似餌に使った可能性。
七百年前のネルテサス報告書。
既存の集落発見の記述が、そこに一切ない理由。
意図的に伝えなかったからではなく、単純に。
気づかなかった可能性。
山麓の地下に築かれた――隠れ里。
水面の波打ちが、静やかに消えてゆく。
筋道が、立つ。
二つの疑問が、もろとも一気に片づいてしまう。
もし、それが事実なら、この土地には……。
もう一つのビルヴァの村が。
「あの子、こんな深い水溜まりの向こうで。ずっと独りぼっちでいたのかな」
大火以前に築かれたと言う古井戸。
その跡地から踏み入るこの天然洞窟を、ルイメレクは、疑惑の目をもって見つめたはずだ。
手帳のご先祖と、つながっているのではと。
だが、彼はその疑いを捨てた。
ビルヴァの地下に残るご先祖の足跡。
千里眼に曝しても見つからなかったに違いない。
あまつさえ閉じていたこの空間が開かれたのは大火以後――約二百年前とのこと。
それ以前は、地下への扉が、ない。
疑惑の大前提として不可欠のその扉が、ないのである。
だから。
立ちあがった。
ホズ・レインジが火山である可能性。
サリアタ様にお頼みする着眼点は、ここではない。
「帰りましょう」
魔法使いの眼はすでに過去を見つめているはずだが、もう一度、あらためて視てもらう必要がありそうだ。
念入りに、今度は念入りにだ。
「急いで村屋に戻らねば」
蒸気機関があった場所。
渓流沿いにひらいていた、推定の熔岩洞窟。
あの洞穴の奥の壁を――。




