02
打撃の残響が、洞窟の闇を奔り、遠ざかる。
ちからを射ち放った魔法使いの右手が、ゆっくりと弓弦から離れ、余韻のように空を流れた。
やがて、静まり返り、構えを解きながら、呟いた。
「……いなくなった。もう、いない」
その言葉を聞き、ほっと胸をなでおろす。
思わず安堵の息をつくと、アラム少年は振り返り。
おれの手から角灯を取ってやにわに前方へ駆け出した。
不意のその行動に、チャルと見合わせた顔を走る灯りへ向け、まごつきながらわれらも追う。
「お、おいっ、どうしたっ」
床板を踏み叩いていく彼の灯りが暗中で段々に浮きあがったので、隧道を出たことがわかった。
慌ただしい靴音は、そこでやんだ。
「フロリダス様。先に階段があります。足元にお気を」
小走りに進みながらチャルの注意を聞いて、頷く。
アラム少年は道奥に立ち、対面の洞壁に向かっている。
壁面のあちこちを照らし、なにやら確かめている様子。
いったいなにを見ているのか。
そうしておれは小階段の一段目にけつまづいた。
派手に転びかけたところ横から腕をつかまれ、助かる。
「急に走るな。あああ危ないだろ」
五段ほどを無事にのぼりきり、分岐点の床板を踏んで声をかけると、返ってきた少年の声は、動揺を帯びていた。
「やっぱり。当たってなかった」
壁の一点を見つめたまま。
「ぼくの矢は、ここに当たった」
言われておれも角灯を近づけると、洞壁を照らす二つの明かりのなかで、砂塵がぱらぱらと崩れ落ちた。
「あれには当たってない。……かわされた」
「躱された? きみのちからが?」
こちらへ戸惑った顔を振り向け、小さく頷いた。
バレストランド魔法使いの異能は、魔法の矢。
集中によって尖鋭化させたちからを射出する。
彼が標的を見つめることと、命中することは同義。
だから魔法の矢は、必中。
そう思っていたのだが、はずれる場合もあるのか。
呆然とした様子のアラム少年が、角灯を持つ右腕をだらりとおろし、小声で応えた。
「前に、サリアタ様に、おまえは未熟者だから、わしにはなんべん射っても当たらんぞって言われたことがあって。それで試しに射ってみたら、ほんとうに当たんなかった。ちからを射つ心のうごきが、ばれちゃってたんだ」
標的を見る心の狙い目を、サリアタ様に読まれたのか。
相手が相手だから例外的とは思うが、そういう場合は魔法の矢と言えど、通用しないわけか。
「サリアタ様のときは、射ったちからを跳ね返されてぼくが吹っ飛ばされたけど、あれは……。射った瞬間に。当たる寸前で、消えた」
と、言うことは、つまり。
「現れた霊は、魔法使いってことか」
「それも凄いちからをもった魔法使い。サリアタ様みたく。オズカラガス様みたいな。ぼくなんかより、ずっとずっと強い。たぶん、あのお化け。……魔女だと思う」
そう言って、うつ向いた。
「魔女? 女性?」
こくんと頷く。
霧の塊としかわからないと言っていたが。
「霊の姿が見えたのかい?」
重ねて問うと、また、こくんと頷いた。
「射った瞬間だった。消える瞬間に、一瞬だけ、見たと思う。ほんとに一瞬だったけど、感じた雰囲気がやわらかかった。手触りが、ポハンカやゾミナ様の雰囲気とそっくりだった。女のひとがまとう雰囲気だった」
そこで彼が、困惑の眼差しをおれに向けた。
「……女の子だった」
そのとき火影が揺らめいた。
われらの朧な人影が、闇間に騒いだ。
どういうわけか、おれの角灯だけだった。
ふたりが提げるふたつの火は、静かのままだった。
「なぜ、女の子と思った? 顔を見たのか?」
「ううん。小さく見えたから。背が。おとなじゃない」
あたかもざわめく火影のように。
込みあげてくる胸騒ぎがあった。
かつて、地球には。
少女と呼ばれる年齢層の女性異能者がいた。
彼女たちは、先史人類の神々にかしづいた。
幼く、神聖なる魔女であった。
「あの子、なんなんだろう。心が、なかったのに。なんにも考えてなかったのに。どうして、あんな……」
先入観は捨てるべきだ。
バレストランド魔法使いが見た霊は、少女の魔法使い。
われわれの前に現れたその存在と、巫女との明確な接点は、ないのだから。
そもそも巫女は、当地には存在しなかった。
ご先祖の手帳に記された『巫女』の古語は、神に仕えた彼女たちをあらわしていたのではなかったのだ。
あの言葉は、オズカラガス様曰く、フンダンサマ。
樹海におわす、サオリのこと。
それは絶対的な答えだった。
(ご先代様は、なにかを間違えてるんだと思うわ)
月夜の声が脳裡をよぎり、ため息がこぼれる。
ルイメレクが辿った幹道に、枝道は、ない。
行き着いた賢者を導いたのは、人ではなかったのだ。
先入観は捨てるべきだ。
「アラマルグ。色は、見たか?」
「え? 色? ……目の色?」
「違う。服の色だ。何色だったか、わかるか?」
訊ねると、思案顔になって沈黙した。
もしも、その色が、紅白の二色だったら。
するとやがて、首が横に振られた。
「わかんない。一瞬で消えちゃったから。色も、わかんない。でも、ただ……。ただね」
そう言うと彼は、壁から離れ、床板に角灯を置いた。
そうして伸ばした右腕を、ゆっくりともちあげていく。
「こんなふうにして、指差してたんだ。あの子……」
少年の人差し指が示した先は、隧道との分岐点からさらに奥へと続いている、未見の洞窟であった。
「先生? これって、どういうことかな。なんでかな」
彼方の闇を見つめたまま。
自分の動作に困ったようにおれに問う。
答えようがなかったが、しかし。
……こおーん……。
……ぽおーん……。
まるでその答えかのように、滴りが洞内に響いていた。
(途中までしか進めません。迫り出した岩盤に挟まれて、通れないんです。岩の隙間からぽちゃんぽちゃん水音が響いて聞こえるので、奥にも洞窟があるようなんですけど、入れません。なので、まあ、行き止まりです)
おれは少年に問いかけた。
その女の子の霊は、顔をどこに向けていたかと。
「みずからが指し示す暗闇か? それとも、きみか?」
ややあってから、答えた。
「視線は感じた。ぼくらのほうを見てた」
われわれの前に現れた少女の霊は、どうやら。
われわれに対し、意思表示をしたようだった。
何者かはわからないが、われらになにかを暗示した。
どうも、そのようだった。
ビルヴァの地下で、幼い魔女が示した、去り際の指先。
「気になるな」
……こおーん……。
……ぽおーん……。




