01
アラマルグ・バレストランドがその異変に気づいたのは、先頭をゆくチャルが隧道と洞窟との分岐点――広々とした空間に踏み入った時だった。
最後尾から不意に、われらを呼び止めた。
ふたりとも下がって。
そう言うと角灯をおれに渡し、背から短弓をおろしながら進み出て、最前線に立ったのである。
どうしたのか聞くと、先になにかいるとの返事。
ただちに目を凝らしたが手元の光りで視界は潰れ、おれにはなにも見えなかった。
チャルも戸惑っていたので、たぶん彼の目にも。
暗闇と対峙する魔法使いの少年の背後で、常人の大人ふたりが固唾をのむ状況となったのだった。
だが、引きしぼってはいなかった。
左手に握った短弓を斜めに構え、弓弦に右手の指を引っかけた状態で、前方の闇を凝視していた。
射撃の準備態勢のまま、出方を窺う感じだった。
集中している様子だったが、問わずにはいられない。
「なにが、いるんだ?」
少しの間を置いてから、銀髪の後頭部が傾いた。
「なんだろ、あれ……」
また、呟いた。
そして一歩、こちらへ後ずさる。
「わかんない。姿が、はっきりしない。どっから来たんだろう。さっきはいなかったのに」
まさか本当に怪物が現れた。
とは、さすがに思わないが、呼び止めた際の口調はふざけた感じでなく、発する雰囲気も戦士のそれに変じていた。
森での実戦経験の豊富な彼が、なにかを察知した。
なにかが、行く手に間違いなくいるようだった。
「あのう。もしかしたら、船長かも」
チャルが身を屈め、交互に顔を向けながら言った。
「古井戸の下にいた人です。わたしが、行ってみると答えたので、様子を見にきたのかもしれません。船長なら、灯りを持たずに来られます」
確かに、灯りは、先の暗中どこにも点っていなかった。
けれども、われわれは立ちどまっている。
床板を踏む第三者の足音。
どこからも聞こえてこない。
一瞬、迷い込んだ獣を疑ったが、それも否。
ポトス湖側の通行は開かれていたものの岸辺では鳥の糞しか見かけなかったし、古井戸側の通行は階段上下二つの扉で封じられていた。
そもそも獣なら、魔法使いのこの反応は過剰だろう。
と、なると……。
考えられる対象は……。
思わず、服の上からお守りをつかんだ。
「違うんです」
アラム少年が応えた。
「あれは、生きてない。たぶん、お化け」
隣が呆然と、お化け……と呟いた。
「でも、誰だか、わかんない。はっきりと見えないんです。魂が微かに感じるから、お化けだとは、思うんだけど」
われらの前に現れたのは、正体不明の幽霊。
出入口階下の扉の前で聞いた揺り椅子の話し。
「もしや、オズカラガス様では」
思ったまま口にすると、違うと少年は首を振った。
「話しかけてもぜんぜん応えない。オズカラガス様だったらぜったいなんか喋るでしょ。話しかけなくても、ひとりで勝手に、喋ってるし」
道理。
「昨日の夜うるさかったもん。ゾミナ様の足の裏にできてる魚目のこと、ずっと喋ってた。怒られてた」
ゾミナ様の足裏に……そうなんだ。
「オズカラガス様は心があけっぴろげだから考えてることがもろに伝わる。それに姿だってちゃんと見せてくれる。だけど、あれは……。すっごい気持ち悪い」
その言葉に、生唾をのみ込んでから訊ねた。
「善くない霊なのか?」
「わかんないんだ。探っても、なんにもないから。男か女かもわかんない」
どんなふうに見えてるのか問うと、霧みたいと答えた。
ポトス湖にかかっていた霧のような、もやもやした塊。
そんなものが、われらの進路を塞いでいるのだと言う。
「ふつうのお化けじゃないかも。手応えが……なんか変」
「ビ、ビルヴァは」
そこでチャルが、おずおずと小声で。
「祠様に、守られています。……変なお化け、だったとしても、悪いものではないはずです。祠様のお喋りは、ともあれ、そのおちからはとても強いと、ゾミナ様からお聞きしました。悪さをするような幽霊は、ここには、いません」
それも道理だった。
オズカラガス様が、死して永らくこの世に留まっているのは、終の住処となったビルヴァの平穏を守りたいからでもあるように思える。
旧墓地での対話のとき、こんなことを言っていた。
(ものを忘れるのはそれがどうでもよいことだからだ。どうでもよくないことは、しかと憶えておる。魔法使いとして学んだあれこれなんぞは今も思い出せる。それらの知恵はどうでもよくないことだからだ)
おれは言った。
「確かに、オズカラガス様が、村の害になる霊を放っておくとは思えない。警戒するような相手では、ないのでは」
すると少年の口から、うーんと声が漏れた。
迷っているようだった。
だが、やがておれを一瞥すると、こくんと頷いて、弦から指を離し、短弓をおろした。
構えは解いたが、前をじっと見据えたままだった。
「たぶん。オズカラガス様があれを攻撃しないのは、あれが、なんにも考えてないからだと思う。でも、そこが気持ち悪いんだよなあ」
「どういうこと?」
「お化けだって、ひとに知られたくないことは、心を閉ざして隠すから、本当の心がわからないことは、ふつうにあるんだけど、心を閉ざしてるってことはわかるんだ。ああ嘘をついてるなあって。でも、あれは、違うみたい。心を閉ざしてるんじゃなくて、心が、ない感じ。なんにも言わないし、なんにもしてこないし、なんにも考えてない。それがすっごい気持ち悪い」
聞いて、おれはチャルと顔を見合わせた。
危険はないが、得体の知れない不気味な霊。
どうやら、バレストランド魔法使いには判断の難しい相手のようだった。
しかし、ビルヴァの衛者たるオズカラガス様が反応しない相手であれば、差し当たっての問題はないように思えた。
正体不明ならばなおのこと、刺激して寝た子を起こすような事態になるよりは、なにもせずにこのまま素通りし、サリアタ様のご判断を仰ぐのが正解だろう。
そう思って言いかけたところで、アラム少年が呟いた。
「でも、フロリダス先生の通り道なんだよな、そこ」
すっと短弓が持ちあがり、弦をきききと引きしぼった。
え? 射つ気か?
「邪魔だからどいてもらう」
待て――と制止する間もなく目の前で弦音がびんと唸り彼方の暗中でばしんと破裂音が、鳴り響いた。




