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その語りが最後だった。
樹海の魔法使いは、賢者の筆を閉じたのだった。
騒々しい鼓動を鎮めようと、深呼吸をする。
公文書館の改竄の事実を知らされた時よりも、手帳解読の顛末を知った今のほうが、疲れたような気がする。
内容の起伏もさりながら、おれ自身の浅学が多分に含まれているので、気のせいではないだろう。
サリアタ様……と声をかけた。
「先ほど、手帳に『倉持さおり』の古語を目にしたとき、申しあげたことですが……。サオリ――フナダマサマであらせられた御神木の呼び名と、名前の発音が、まったく同じなのですが。それは」
「それは、お察しのとおりだ。いみじくもその『さおり』は、神様を由縁とする女性の名前だった。神が降りると書いてそう読む、響きも美しい言葉であったから、師はその古語をこよなく愛してな。愛をもってお応えくださった女神様の御神木を、いつしか、そう呼んでおった」
やはり、そうか。
ルイメレクは『倉持さおり』から名を借りた。
納得し、おれは息を吐いた。
木箱の蓋を開けて氏が、ご先祖の手帳を納めながら。
「森の秘密を預かったカユ・サリアタから、マテワト・フロリダスに伝えておくべき話しは、これで終いだ。これが、書庫発見までのすべてだ。その発見者である師に代わって、たぶん、語りきったはず。さすがにわしも疲れたわ」
怒気のように吊りあがる目尻をいくらか和らげて、力なく笑った。
おれは深々と頭をさげ、謝辞を述べた。
「ご高話を拝聴し、得難き学びを得ました。含蓄するところ大のお話しでした。ありがとうございました」
村長も続いて、お疲れ様でございましたと頭をさげた。
氏が、その肩をかるく叩き、あんたもな、と頷いて。
「フロリダス殿。得難き学びを得たのは、わしのほうだよ。この話しが、先生の脳みそを通り過ぎたことで、師には気づかんかった事実がいくつか明らかとなった。恐れ入った」
蓋をした木箱をこちらへすっと差し出し、頭をさげた。
「とりわけ得心したのは……。さっき先生が話してくれた、当地に現れたご先祖の素性だな」
「素性……。元機関部との推測ですか?」
「そう。それを聞いてな、内心、驚いたんだ。その機関部ってのは、原動機を操っておったところのことだろう?」
「あ、はい。そのようです」
「フナダマサマという言葉を、ルイメレクが小説のなかに見つけたのはな。難破船の原動機が設置されている部屋で、登場人物たちが会話をする場面だったらしいんだよ。その室内に、船の守り神の神殿がこしらえてあったようなんだ」
「神殿が、機関室に?」
「だから手帳の書き手を、元機関部の人間と聞いて、驚いた。先生のその発言も、御神体とみた手鏡への符合点となったからのう。当地へ及んだご先祖と、宇宙船の守護神とのあいだに、ちゃんと筋道があったのだと合点がいった。元機関部であったご先祖は、フナダマサマの神殿を管理する立場にもあったのではと。その縁の深い関わりが、御神体を持ち出すという謎の行動につながったのかもしれんとな。先生のお陰で、長年の謎が、一つ解けたかもしれん」
先史人類の神と船にまつわる慣習か。
興味深い話しであった。
われわれの社会には、船に神を招くという慣習はない。
ただ、帆船の船首部に取り付けられることが多いのは、女性の姿を模した木像であった。
おれはそれを単なる装飾と考えていたのだったが、宇宙船の守護神は、女神様であった。
われわれの社会における船首像の意匠も、元を辿れば地球のフナダマ信仰に由来するものなのかもしれない。
村屋の裏戸がその時、きききと開き、顔を向けると戸の隙間から覗いた夜に、緑の光りが仄かに滲んだ。
セナ魔法使いだった。
「せんせ……」
遠慮がちの声が、おれを呼んだ。
場に断って席を立ち、まもなく裏戸をひらいたら、左手の輝く緑光に包まれた魔女が、縁側に腰をかけていた。
月夜の庭に浮かぶその後ろ姿の傍らに、おれが腰を屈めると、彼女が右手を差し出した。
「わたしのだから。気にしないで使って」
渡されたのは、一枚の布巾だった。
「汗。ちゃんと拭いて」
「ありがとうございます。わざわざ、これを取りに?」
「どう思う?」
問いをかぶせ、こちらへ顔を向けた。
見つめる魔女の瞳を、夜に見返し、思わず尻込みした。
みずからが放つ翠の光りで、透き徹るような白い肌がうっすらと淡く映え輝き、血の気の失せたその顔貌は、凄絶な美しさだった。
もし、彼女から、わたしは実は人間ではないと打ち明けられたとしても、おれはきっと信じるだろう。
「ねえ、ちょっと、聞いてる?」
小突かれた。
「お爺ちゃんの話しよ。フナダマサマって言ってたっけ」
気後れを取り繕って、その場に腰を据えた。
「ああ、はい。あの手鏡は、フナダマサマの御神体でした。宇宙船のなかに祀られていた神具だったようです」
「つまり。人は、気軽に触れない」
おれは頷いた。
「だったら」
背筋がぞくりと粟立った。
「残っていた痕は、なんなの? 気軽に触れないはずのものに、不自然な掠れが残っていたのは、なんで?」
返事につまった。
手鏡の擦過痕は氏も確認したと言っていたが、その点への言及はなかった。
わからないからだろう。
だがその点は不明のままであっても、確かにルイメレクが到達した結論は、不動であろう。
「それは……」
「女の持ち物だったからよ」
聞いて、うーんとおれは唸った。
「ご先代様は、なにかを間違えてるんだと思うわ」
「いや……。しかし、ですね……」
ルイメレクは実際に、オズカラガス様から得られたフンダンサマの言葉から、マカウ・アリ記念館で調べあげた情報を経て、宇宙船の守護神との対面に至り、書庫へと辿り着いている。
その現実に、異論の差し込める余地は、微塵もない。
「巫女と呼ばれた、神に仕えた聖なる魔女は、いなかったんです。少なくとも当地に残るご先祖の足跡に、巫女の足跡は、なかった。そこはわたしが無知で、不毛な想像を」
「あの手鏡を使ってたのは、きっと特別な女の子。だからあんなふうに大切に扱われたのよ。きっとそう」
「あのう、セナ様。……話し、聞いてます?」
魔女が夜空を見あげた。
おれはうつ向いた。
「今となっては、それは、難しい判断となりました」
答えると、ふうん、と言って、そうなんだ、と言って。
「わたしの話し、もう信じてくれないんだ」
そう言って、うつ向けた顔を覗き込む。
「先生は、わたしを信じてくれないの?」
今度はおれが夜空を見あげた。
逃げるように視線が、銀河を彷徨う。
そうゆう物言いは、ぜひとも、やめて頂きたい。
彼女の圧力に逆らうのは、おれには無理なのだから。
搾り出すような声になった。
「で、では……。ほかになにか、根拠を。そう思う根拠を、聞かせてください」
「そんなの決まってるじゃない」
立ちあがり、黒髪を翻す。
「女の勘」




