07
「にわかには、信じられんことと思う。急ぐつもりはない。だが。そこに書かれてある内容は、本当のことなんだ」
遠くで、魔法使いの声がする。
気づくと眼下にしていた手帳が脇に除き、おれは卓上に両ひじを突いて、頭をかかえていた。
何事にも動じない心構えを整えたはずが、その構えをすり抜けて、もろに脳天を殴られた気分だった。
改竄とは、事実としてあるべき内容を、なんらかの意図のもと、事実ではない内容に置き換える作為。
それを歴史に当てはめたなら、その史実は、虚構ということになる。
先祖学者の世界観……。
心の地球儀の軸が、ぐらり揺らいで、遊びはじめた。
おれの身体もなんだか揺れているような感じがした。
実際すこし揺らいでいた。
白く細らかな指が、おれの右腕の袖をつかんでいた。
顔を向けるといつのまにか、彼女が隣に坐っている。
切り揃えられた前髪の下、長い睫毛の大きな瞳が、不安げにおれを覗き込んでいた。
サリアタ氏が言う。
「とりあえずな。ひとわたり、目を通してみてくれ。紙が挿し込んである頁だ。崩れていない文字が残っておる。それらを読むのにルイメレクは何か月もかかっとったが、おまえさんなら、すぐだろう」
そういうことかと合点があった。
この時を迎えるまでの氏の言動が細心で、石橋を叩きながら近づいてくるように感じた理由は、これか。
手帳を眼下に引き寄せた。
祈るような思いで、ふたたび一枚目をひらく。
『モン■■は、公文■館から、暗黒時代の記録を■■て削除す■決断をくだした。その空白を埋め■ため、編さん室に、歴史の改ざんを指示■た』
残念なことに。
読み直したその一文は、何度、読み返しても。
意味を変じることはなかった。
だが、せめてもの救いと言うべきか。
一万年に及ぶ先史人類のながい永い歴史のなかで、虚構に塗り替えられたのは、一部だけのようだった。
塗り潰された『暗黒時代』……。
初めて目にする言葉だったが、先の二文字『暗黒』とは光りのまったくない状態をあらわす熟語で、続く『時代』は年月の区分をあらわす熟語。
すなわち意味は、光りを失った年月……。
その一時代をご先祖は、われわれの地球から消した。
歴史書から削除した。
そうなると、空白となったその前後の出来事が、ぶつ切りになり、因果律が破綻する。
原因をもたない結果は出現し得ないとする哲学原理。
おそらくは混沌と化したその因果律――歴史の流れに整合性を復する作業を指して、改竄と表現したのだろう。
魔女が身を寄せ、小声で言った。
「ねえ。なにが書いてあったの? 悲しいこと?」
これは、悲しいことなのだろうかと考える。
「……いや」
そういうのとは、ちょっと違う。
この感情を、どう伝えたらよいのやら。
ご先祖は、公文書館を建立した。
なんのためかは明白なのである。
自分らの子孫のためだ。
おれたちのためだ。
そのご先祖が、自分らの歴史の一部を切り取った。
子孫にとって益のない史実と判断し、排除した。
隠蔽と言うよりは、情報の淘汰と捉えるべきだろう。
騙されたわけではない。
裏切りでもない。
そんなふうに考えられても、しかし……。
込みあげてくる感情は、複雑だった。
うなだれると、右袖をつかむ指に、力がこもった。
たぶん、おれは頷いた。
「先生……。うん、わかった。傍にいるから」
ぼろぼろに朽ちた、未発見の先史文献。
向かい合う。
ぐん、と視野の狭まる感覚。
暗黒時代なる言葉が指す意味を求め、おれは二枚目、三枚目と、紙をめくっていった。
『彼■が月になった夜、誕■■を迎えた私を皆■お■い■てくれた。おどろ■■。うれしか■』
『議会を■導す■■は甲板部にいた連中ばかり。時間を操って■■のは確かにやつらだが、私た■■居場所はもう船で■ない。いつま■引きずる■』
『■が、作業が■■うち、自分のしているこ■に疑問をいだく者が■■なった。当然で■■』
『■文書館のうそ。■■■■のうそ。くそったれ■』
『実感す■。宇宙は神そ■■のと言われ■言葉を。我々の船は■時間の波に乗■■。時間とは、神の意識なり』
『どうし■も納得できない。■■■■の決断■過去と未来に対する冒涜■■る』
『船が沖に沈みゆ■■の様を、我々は見守■た。波紋の最後の一つ■潰えるまで。男ども■瞳にも光るものが』
『子孫から自由を■■■。ならば私は取り戻す■■■』
『我々■手鏡を持ち出し■。巫女■の思い出■共に』
『■復元した■■』
『■つの日か■我々の歴史を■■とする時代■必ずくる。我々の真実を求め■者が必■現れると■■■』
『どちらが正しい? 私か? ■ン■スか?』
最後の紙をめくり終え、息継ぎのように大きく肺をふくらませ、ゆっくりと吐き出した。
思わず、唸った。
手帳の厚みに比べたら、判読範囲はごくわずかだったが、総じて書き手の心情が読み取れた。
この先史文献は、日記類と見なしてよい。
理解不能な箇所と、考察可能な箇所があったが、求めていた暗黒時代の言葉はあとには見当たらず、意味を含んだ記述もないようだった。
紙が挟まれていない頁の部分は、聞いていたとおりに癒着して一体化しており、あきらめるほかない。
もう一度、始めから読み直す。
一枚目。
『モン■■は、公文■館から、暗黒時代の記録を■■て削除す■決断をくだした。その空白を埋め■ため、編さん室に、歴史の改ざんを指示■た』
文頭の主語、四字と思われる表音文字は、固有名詞。
人名で間違いない。
該当するご先祖に、心当たりがあった。
クライレ・ユゲ・モンデス。
太陽系の叙事詩を著した先史人類の文学者であり、ルイメレクの原語写本――紀元前の出来事をまとめた歴史書の著者でもある。
後年、卿の敬称で呼ばれるその偉人は、公文書館の原本作成者の名簿の筆頭にも、名を残しているのだった。
地球史の改竄を指示した人物は、モンデス卿だ。
三枚目。
『議会を■導す■■は甲板部にいた連中ばかり。時間を操って■■のは確かにやつらだが、私た■■居場所はもう船で■ない。いつま■引きずる■』
この一文からは、当地に足跡を残したご先祖が、ロヴリアンスの最高意思決定に叛いた背景が窺える。
古都に建つ中央議会の庁舎には、有史以前の議事録が保存されており、それには発言者の氏名も明記されていて、移住直後のご先祖の様子が知れる貴重な資料であった。
そして公文書館には、宇宙船内の就労体制の編成表が残されており、その編成表の姓名と、議事録の姓名とを照合した結果から、当時の議会が、元甲板部と元機関部の人員によって主導されていたことが判明している。
確か、甲板部は操舵を担い、機関部は動力を担うところで、いずれも宇宙船の運行上、不可欠な主要部署であったと推察された。
しかし、この文には、議事録にも編成表にも記載されない情報が覗いている。
議会における船内組織に基づいた軋轢だ。
この日記の書き手――当地に及んだ異端者たちの素性は、元機関部の人間もしくはその同調者の集団であった可能性が高い。
それと、もう一点。
この文章には、興味深い記述が。
『時間を操って■■のは確かにやつらだが、私た■■居場所はもう船で■ない』
後文の『船』という名詞が、前文の動詞『操って』に掛かる間接的な目的語とみなせるため、これは宇宙船の航法をあらわしていると解釈できる。
ご先祖の宇宙船に関しては、外観や見取図などの資料は残されているものの、その機械的構造を詳述した原本は未だ発見されておらず、推進方法は不明であった。
『時間を操って』
そこで、六枚目。
『実感す■。宇宙は神そ■■のと言われ■言葉を。我々の船は■時間の波に乗■■。時間とは、神の意識なり』
おれが翻訳したモンデス卿の歴史書の冒頭。
(時の波間に揺られていたのは、地球の記憶を持つ者ども)
どうやら、先史文明の科学技術の結晶は、時間を、推進方法とする原動機を積んでいたようだ。
太陽系からこの星系へと、ご先祖を乗せた宇宙船が走ったのは、宇宙にひろがる空間ではなく、宇宙にあまねく時間だった。
叙情的な比喩と思われたあの書き出しは、時間の海を渡る航法を、そのまま表現したものだったようである。
そしてその時間とは、神の意識なり。
超自然的存在の科学的証明に関しても詳細は伝わっていないため、それを基盤とした宇宙航行理論も、附随して残されなかったのか。
もっとも、残っていたとしても内容は、おれにはちんぷんかんぷんであろうが。
時間とは、神の意識なり……。
機械文明が、神なる存在と交わって誕生したのは、神様の意識――時間を辿る宇宙船……。
なんだかまったくわからんが、さすがご先祖である。
おもしろい……。
「あ。笑った」
隣の魔女がそう呟き、おれの顔をまじまじと見た。
「なによもう。心配して損した気分」
言われ、咳払いをしつつ向かいに坐る氏をちらり見ると、心なしか安堵したような表情でおれたちを眺めていた。
八枚目。
『船が沖に沈みゆ■■の様を、我々は見守■た。波紋の最後の一つ■潰えるまで。男ども■瞳にも光るものが』
この記述で、書き手の存命年代が、ほぼ確定する。
ことさらに書き記された、沖に沈む船。
モンデス卿の歴史書に代表される、有名な記録。
(ロヴリアンスの西。縹渺とひろがる、クグニエ海。その沖合いに運ばれた宇宙船は、浜辺に居並ぶ衆目の前で、海底に沈められた。これをもって紀元と定まる)
われわれの歴史的転換点に、立ち会っている。
十枚目。
『我々■手鏡を持ち出し■。巫女■の思い出■共に』
地下神殿で目にしたその一文については、すでにあらかた考えたので飛ばしてもよいのだが、ちょっと引っかかったのは、巫女が有していた異能。
聖なる魔女たちは、ご先祖の神に仕えていた。
時間とは、神の意識なり。
その時間を推進力に銀河を航る宇宙船……。
まさかとは思うのだが。
もはや推理ではなく、空想になってしまうが。
ご先祖をこの星へと運んだ宇宙船は、神とつながる異能者――巫女が、動力源だった?
そう考えると、巫女なる存在に必然性が。
神を認知し、魔法と見まがう科学を駆使した先史人類ならば、あり得なくもない話しではないか。
根拠薄弱、荒唐無稽な点が、問題なだけである。
もしかしたら、宇宙船の動力源としてこの星の大地を踏んだ異能者たち――鮮やかな緋袴をまとった巫女たちが、われわれの社会に魔法使いという人種をもたらした言わば、母なる存在だったのではと思ったところで冷んやりとした魔女の流し目に気づき、おれは妄想をやめた。
十一枚目。
『■復元した■■』
これが、この先史文献の要諦と言ってよい。
たったの四文字だが、ルイメレクも、この言葉に注目したに違いない。
先の二字の表意文字『復元』は、損なわれたものを元の状態に戻すこと、あるいは同等のものを新たに仕立てることを意味する熟語である。
ロヴリアンスの主幹勢力に反発した異端者たちが、遠くネルテサスの大地で、復元したものとは。
「サリアタ様」
手帳から顔をあげ、向かいの魔法使いを見つめる。
「樹海に残されていたご先祖の本棚と、公文書館の書架から削除されたという書物。関係は、ございますか?」
すると氏は、はっきりと頷いた。
「そうゆうことだ」
答えて脇の段袋へ手をのばす。
まもなく卓上に置かれたのは、二つ折りの紙束。
古色に褪せた、十枚ほどの竹紙だった。
「これは師が、この件について残した書き留めだ。先祖学者の先生に説明するのに、間違ったことは言えんからのう。参考資料として持ってきた」
「拝見しても?」
「ああ、もちろん、構わんが。おまえさんには読めんだろう。字が酷いから」
こちらへ差し出した。
緊張しながら受け取ると、ふて腐れていたセナ魔法使いも興味をもったようで身を乗りだし、横から覗く。
二つ折りの紙束をひらいて、書面を見た瞬間だった。
おれは固まった。
「こ、これは……」
「な? 酷いだろ?」
「お爺ちゃん。これって、なんかの図形? 絵?」
「字」
彼女の言うとおりだった。
それは一見、図形の羅列だった。
万年筆と思われる硬筆で綴られており、よくよく注視するとかろうじて公用語の形跡が見て取れは、するのだが、どれも崩れ具合が凄まじい。
原形の留まるところを知らない奔放な筆致であった。
おれが翻訳した原語写本は毛筆で書かれてあって、悪筆ではあったものの読めなくはなかった。
どうやらあれは、彼なりの清書だったようである。
こんな自由過ぎる公用語の字を、おれは初めて見た。
手帳を解読していた人物が、硬筆で書いたこの言語も解読が必要だと、本気で思った。
呆然たるおれの手から笑いながら紙束を取ると、すぐさま真顔に戻って、一枚一枚、めくりはじめた。
横坐りになった魔女の膝が、おれの右足に当たった。
やがてめくる指がとまり、こちらを一瞥した。
「読むぞ」
氏が、息をおおきく吸い込んだ。
「先史文明は、暗黒時代と呼ばれる期間に、爆発的な進歩を遂げている。一気にそこで巨大化した科学力が、のち、われらがご先祖に地球の終わりを予見させる大きな争いを惹き起こした。その火種となった時代が、まるごと、ごっそりと、子孫の目から消された。当地に現れたご先祖の不自然な行動は、公文書館から、地球の歴史の一部が取り除かれたことに端を発している。先史人類の年代区分で、紀元一九〇〇年頃から、紀元二一〇〇年頃までの、およそ二百年間。暗黒時代。その記録。文明爆発を起こした二百年間の科学史。この星に有ってはならない火薬庫が、森に眠る」




