06
湯槽に、ぽちゃんと、水滴が落ちた。
(まさに、そこよ。そこのところが、前代未聞の発見を、ロヴリアンスに告げなかった後の理由。始めと後とで意味合いが、がらりと変わってしまった理由だ)
始めの理由は、ルイメレクの入れ知恵。
金儲けだったその意味合いが、のちに、がらりと変わる。
本棚の発見だ……。
おそらくそれが、洞窟に遺された蒸気機関の目的だと判断したのだろう。
発電機への言及は、本棚に収まる書物群の情報源が、先史文明の電気機器類と推定されたからだ。
実際、公文書館に収蔵されている原本も、魔法のような電気記録媒体が情報源となっているから、可能性は高い。
ただ、それらの利器は、見つかっていないと言う。
目的を果たしたご先祖が、持ち去ったのではなかろうか。
蒸気機関は置いたまま、去った理由は、わからないが。
「……重いから、かな」
自分で言って、笑ってしまう。
それはない。
あの鉄の巨体を山間の洞窟に持ち込んでいるし、地下神殿は切り出した巨石を組んでの構築だった。
重量物の運搬に関しても、先史文明に由来するなんらかの手段を有していたと思われる。
運び出す意思があったなら、できたはずだ。
もしかすると、洞窟に蒸気機関が残されたことそれ自体にも、なにか特別の意味が……。
まあ、そのあたりのことは今は、ひとまず置こう。
ご先祖の目的を覚ったルイメレクは、そして沈黙した。
樹海で見つかった本棚が、ロヴリアンスと対立する思想家たちの産物であったからか。
その現存が公になったら、ロヴリアンスの亡霊たる社会に暮らす人々が、文明水準に影響を及ぼす本棚を否定し、焚書を望むかもしれないと考えたのか。
ドレスン氏が、強い拒否反応を示したように。
先生のお父上様は、いったい、なにを知ったのだろう。
異端者たちは、本棚に、なにを残したのだ……。
不意に背後の壁から、若いご婦人の声。
「お湯の加減は、いかがでございましょう」
「ああ、ちょうどよいです。ありがとうございます」
ちゃぽん、と、水滴がまた落ちた。
痛いなあ。
どうして、気づかなかったのか。
あきらかに、通り道ではなかったではないか。
向かって右が男湯ならば、左は女湯であり、そしてそこにも窓がある。
風呂場の東側は村屋と通じる村道で、西側は正面なのだから、女湯の窓が北面に設えられるのは道理、その外に棘を植えて通行を封じるのもある意味、道理と言えよう。
通行を封じる意思表示に棘を植えるというのは、まあ、いささか威圧的な気がしないでもないが、それはこの村の力関係を黙して語っているような気がしないでもない。
ともあれ、やらかした。
どうしておれは、そういうところは暢気なのか。
全く間抜けと言うほかない。
髪の毛を濡らさないよう気をつけていたが、手ぬぐいを当てていた右側はだいぶ湿ってしまった。
脱衣室に着替えの寝間着が用意されてあって、自前も買ってあったのだが、ご好意に甘えそれを着た。
服を丸めてかかえ持ち、出た風呂場の南側へまわり込むと、そこは獣車が余裕で通れるほどの広い道で、苦笑する。
竈に年配の女性が一人いたので火番の礼を告げ、手ぬぐいを汚してしまったことを謝った。
案じてくれたが、血はもう止まっていた。
ただ、まだ痛い。
井戸に寄って傷口を洗ってから村屋に戻ったら、縁側に、三つ編みをした上品な老夫人が腰をかけていて、その隣にちょこんと座るメソルデと話しをしていた。
二人とも、薄手の貫頭衣の寝間着をまとっていた。
「ふふふ。お帰りなさい」
裏庭に入ったおれに気づいて、ゾミナ様の微笑。
続いた慰労の言葉に礼を返し、先ほどの失礼を詫びると、くすくす笑ってあかるい屋内へ顔を向け。
「ポハンカ。先生あがられたわよ」
そうしてこちらに向きなおり、手招いた。
「傷を見せて。メソルデ」
おれの手から角灯を受け取った少女が、夫人の隣に座った顔面に明かりを近づける。
湖のような碧い瞳が、閉じた右目を覗き込んだ。
「うん……。深くは、なさそう……。切ったところが悪かっただけみたいね。よかった。さっき、アラムが大仰に、先生が血だらけって言うもんだから、びっくりしたわ」
「なんで通るのよっ」
セナ魔法使いがあらわれた。
思わず逃げ腰になって立ちあがる。
垂布はしておらず、腰帯を巻かずにゆったりと流した貫頭衣の寝間着姿で、髪をうなじの辺りで束ねていた。
「暗くたって、ちょっと歩けば、通り道じゃないってわかるでしょ」
怒られた。
「はい……。なんかおかしいなあ、とは、思いました」
「もうっ。棘が、もし、目に入ってたら……。ほんとうに気をつけてください。ちゃんとして」
「はい……」
「座って」
すぐ座った。
横に屈んだ彼女は、小鉢と油紙と包帯を持っていた。
蓋をあけた小鉢の中には黄味掛かった乳脂のような液状物質が入っていて、それを人差し指の先で掬うと。
「じっとしてて」
おれの右の眉尻の辺りに塗りたくった。
匂いはほとんどなく、見たことのない膏薬だったので、ちょっと気になる。
ぞくりと背筋が粟立った。
「なによ」
不機嫌なひとの代わりに夫人が教えてくれた。
「それは向日葵の種から作った保湿剤。ビルヴァの女が肌の手入れに使ってるものよ。切り傷なんかも乾燥がよくないからね。塗っておけば治りも早いわ」
べたべたになった右眉に油紙の小片を貼られ、包帯で頭をぐるぐる巻きにされた。
蓋をして小鉢を持つと黒髪を翻し、謝辞には無言で縁側を離れていく。
長く美しい魔女の髪を結っていたのは、見憶えのある組紐だった。
夫人が含み笑いを浮かべながら、こちらへ身を傾け。
「あの子、あんな態度だけど。困ったご性分の先生が心配で、しようがないの。許してあげて」
「も、もちろんです……。はい。もちろん……」
またもや過る、オズカラガス様の言葉。
振り返り、開けづらくなった右目を無理から開けて彼女をさがすと、小鉢を持ったご婦人に、礼を告げていた。
その姿を見て、心のどこかに。
なにかが確かに、温かく点るのを感じた時。
裏庭の夜の片隅で、ちん……と、小さな音がした。
「おういフロリダス殿。飯にしよう。もう我慢ならん」
気づくと、卓上には食膳がすっかり整っていた。
サリアタ氏はすでに座に着いて、おれを待っていてくれていて、その様子にゾミナ夫人が。
「まるで、おあずけをくらった犬みたいな顔ねえ」
「やかましいわ」
「サリアタ様どうぞ、お先に」
「はい先生」
縁側に来たアラム少年が差し出した。
土産の菓子袋。
「ああ、そうだった。うっかりした。ありがとう。ゾミナ様、これ。お約束したものです」
十個しか売ってもらえず、四個しか入っていないと伝えて恐縮したが、それでも夫人は喜んでくれた。
「いいのよ。少しが、いいの。ありがたく頂戴します」
明日のおやつにでも召しあがってくださいと、メソルデにも伝えると、彼女は可愛らしくはにかんで、嬉しそうにこくんと頷いた。
少年も、なぜか大きく頷いた。
「さて。そろそろ戻りましょうか」
言いながら夫人が杖を取り、ゆっくりと腰をあげるうごきにメソルデが介添えし、立ちあがった。
「ポハンカ。アラム。食事が済んだら、おいで。眠くなるまで、町でのこと、聞かせてちょうだい。あなたたちの布団も、うちに用意してある」
「わたしは……。話しが、終わってから……」
おれの横で、呟くように答えた魔女の瞳を、老魔女の深く碧い瞳が見つめ返し、優しげに微笑んで、頷いた。
そこで氏が、ゾミナと声をかけた。
「なんぞ、あるか?」
それだけの問いかけに、夫人はすぐ、いいえと応え。
「万端お任せいたします」
「わかった」
氏に向けられた眼差しが、おれのほうへ移ろう。
「フロリダス先生とは、本日お会いしたばかりではございますが、お人柄、たいへん好ましく思っております。こうしてお土産も、買ってきてくださいましたし」
くすりと笑い、メソルデが持つ菓子袋をちらと見た。
「それに、なによりも、森の姫様。人間がお嫌いな、あの女神様が……。近しい森の魔法使いにすら、一向になつく気配をお見せにならない姫様が、先生のことはあっさりとお認めになられて、寄り添われ、おちから添えを……。いかなる人物かは、始まりからあきらかでした。マテワト・フロリダス先祖学者」
言って夫人が片手をおもむろに差しのべた。
その仕種に威厳を感じ、ただちに正面の縁側に膝を突くと、優しくおれの手を取って。
「あなたの存在は、あなた一人だけのものでは、ありません。ご自愛を。おやすみなさい。また明日ね」
つないだ手をかるく振り、嫋やかに微笑んだ。
メソルデを伴って、ゾミナ夫人の去った夜の庭を見つめていたセナ魔法使いが、吐息をつき、おれを見た。
「……ご自愛を」
夕食が終わり、卓上に並んでいた食器はすべて下げられ、給仕に就いてくれたご婦人方も揃って村屋を辞した。
蝋缶の火が点る四台の灯台と、四台の三面鏡。
あかるい広間に残った姿は、三人だけとなった。
坐卓の向かいにサリアタ氏。
右手側の斜向かいには、少し眠たげな魔女、ポハンカ・セナ。
村長のクランチ氏も立ち会う旨を食事中に氏から聞いたが、まだ姿はなかった。
アラム少年はきっと今、夫人とメソルデに、町での活躍を語っていることだろう。
「ポハンカ。腹くちになって眠そうだな。わしらに付き合うことはないぞ。ゾミナのところへ行ったらどうだ」
「べつに、眠くなんかありませんけど? でも……」
広間の角隅に積まれてある二組の布団を横目に言う。
「眠くなったら、寝ます」
「あれはわしらの布団だよ……」
表口の玄関は閉められ、裏口の戸は換気のためわずかに開けられていた。
外からは、物音一つ聞こえない。
寝静まったビルヴァの夜。
いよいよ臨む緊張で、息遣いが細くなっていた。
「ナグジが来んなあ。なにやってんだか……。まあ、いいや。時間も時間だ」
脇の段袋からごそごそと、木製の小箱を取り出して、眼下に置いた。
蓋に手をかけたところで氏が、深呼吸をした。
「この時を……。わしはなにより、恐れていたのだと思う。巻き込んでおいて、どの口が申すかと、おのれで思うがな。おまえさんを苦しめるのは本意ではない。けれど、なにをどう繕っても、それは避けられんだろうから、わしはこの時を、これまで恐れていたと思う」
蓋をあけ、取り出した。
およそ、縦十五センチ、横十センチ。
水気を含んだ頁はおおきく波打ち膨らんで、劣化の著しい黒ずんだ表紙は反り返っていた。
ぼろぼろに朽ちた、一冊の手帳。
卓上の角灯が照らしだした。
そうして樹海の魔法使いが、口をひらいたのだった。
「まずは、これを知ってもらわねば、話しが進まん。始まりの都ロヴリアンス。公文書館に関することだ」
「……公文書館?」
繰り返すと、手帳を見おろしたまま、頷いた。
「ご先祖が築いた石の砦。おまえさんにとっては、慣れ親しんだ施設と思う。先祖学者はこの星と地球とを結ぶ、架け橋のような存在。その対岸の記録が、大量に収められとる場所だからのう……。そこでだ。ひとつ訊ねたい」
まっすぐにおれを見た。
「おまえさんは、公文書館に収蔵されとる原本を」
氏が、大きく息を吸い込んだ。
「疑ったことは、あるか?」
耳にした瞬間。
おれは彼方の魔法使いを、呆然と見返した。
問いの意味が、わからなかったのだ。
本当に、なにを問われたのか、わからなかった。
「原本を、疑う?」
「そうだ」
確かに聞いたその返事に、どくん、と心臓が跳ねた。
「いえ……。ありません……。そのような……。考えたこともありません」
公文書館の創設理念は、地球史の保存と前例の提示。
その根幹を疑うことは、われわれ先祖学者の存在意義を疑うことを意味する。
「不毛な疑いです。信じなければ、進めませんから……。ご質問の意図が、よく、わからない……。科学分野での再現性……という意味ですか? それでしたら、原本に基づく再現実験は確かに失敗例も、枚挙にいとまがありませんが、しかし、その失敗はわれわれの技術不足に起因するもので、再現性そのものが理論的に疑問視されたことは一度もありません」
まくし立てるように、まるでおのれを守るようにそう述べると、氏は苦しげにため息を吐き、目線を落とした。
手帳に挿し挟まれている何枚もの紙の一枚目。
それをつまんで、頁をゆっくりとひらいた。
「フロリダス殿……。許しておくれ」
くるりと手帳をおれに向け、差し出した。
不穏な言葉に息差しを乱しつつ、両手で引き寄せる。
自分の手がそこで、震えていることに気がついた。
一枚目の紙が挟まれていた頁も、地下神殿で見たあの一文の頁と同じような状態だった。
書かれてあった文字列は滲んで崩れ、ほとんど判読不能だったが、字形を留めている一文に目がとまる。
細い黒字の肉筆、丸みを帯びた少し癖のある筆跡。
そうしておれは、わが目を疑った。
『モン■■は、公文■館から、暗黒時代の記録を■■て削除す■決断をくだした。その空白を埋め■ため、編さん室に、歴史の改ざんを指示■た』




