遺言
帝国の皇宮。
深夜。
月明かりが広大な宮殿を照らし、皇都全体が静寂に包まれていた。
しかし、皇宮の最奥部。
歴代の皇帝だけが立ち入ることを許された一室で、異変が起きていた。
数百年もの間、沈黙を守り続けてきた石板が、かすかな音を立てたのだ。
「カタ……」
床に、一筋の亀裂が走る。
次の瞬間。
古代の魔法陣を形作る紋様が、ゆっくりと浮かび上がった。
青白い光が、部屋全体を照らし出す。
扉の前で警備にあたっていた近衛兵たちは異変を察知し、すぐさま室内へと駆け込んだ。
「陛下!」
部屋の中央。
現皇帝である女帝が、魔法陣の前に立っていた。
彼女は何も語らなかった。
ただ、目の前で数百年もの眠りについていた魔法陣を見つめていた。
この魔法陣は、帝国が建国された当初から存在していた。
歴代の皇帝たちは、その存在を知っていた。
だが、その用途を知る者は誰一人としていなかった。
――今日、この瞬間までは。
魔法陣が、初めて起動したのだ。
女帝はゆっくりと歩み寄った。
すると、魔法陣の中心から一筋の光が浮かび上がった。
その光に攻撃性はない。
ただ静かに、遠い彼方を指し示していた。
一人の老いた宮廷魔術師が床にひざまずき、慎重に魔法陣の紋様を観察していた。
その手は、わずかに震えている。
「こ、これは……古代の位置特定魔法です」
女帝は彼に視線を向けた。
「位置特定?」
魔術師は息をのんだ。
「はい」
「ですが、通常の位置特定魔法とは異なります」
「この魔法が探しているのは、場所ではありません」
「ある特定の存在……そのものなのです」
部屋に沈黙が満ちた。
女帝は、遠い彼方へと視線を向けた。
脳裏によみがえるのは、皇室に代々受け継がれてきた秘密。
皇帝だけが読むことを許された、あの遺言。
そして、祖先たちが数百年もの間、守り続けてきた一つの名前。
彼女は、それを単なる伝説だと思っていた。
だが、今は違う。
その伝説が……。
今、確かに応えようとしていた。
* * *
数日後。
クロアーゴ山脈の東側。
小さな村。
レインはいつものように、村の外で薪を割っていた。
「レイン!」
村の子供が、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「村長が呼んでるよ!」
レインは斧を止めた。
「何かあったのか?」
子供は首を横に振った。
「わかんない。でも、鎧を着た人たちが大勢来てるみたい」
レインは眉をひそめた。
鎧を着た人間?
この村は辺鄙な場所にあり、外から訪れる者はほとんどいない。
ましてや、大勢の騎士がやって来るなど、今まで一度もなかった。
レインが村に戻ると、村人たちが道の両脇に集まっていた。
その中央には、完全武装した騎士団が整然と並んでいた。
掲げられた旗には、帝国皇室の紋章が刻まれている。
レインは思わず足を止めた。
なぜ、帝国の騎士たちがこんな辺鄙な村にやって来たのか。
彼には、まったく見当がつかなかった。
やがて、一人の騎士が馬から降りた。
騎士団長だった。
彼はレインに視線を向けた。
「お前が、レインか?」
レインはうなずいた。
「そうだが」
騎士団長はしばらく黙り込んだ。
まるで、目の前の少年が本当に探していた人物なのか、確かめるように。
やがて、彼は口を開いた。
「女帝陛下のご命令により、お迎えに上がった」
「皇城まで同行してもらいたい」
周囲の村人たちが、ざわめき始めた。
レインは眉をひそめた。
「……どうして俺が?」
騎士団長は答えなかった。
「理由は皇城に到着すれば、おのずとわかる」
レインは動こうとしなかった。
「もし、断ったら?」
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
騎士団長は、じっとレインを見つめた。
そして、静かな声で告げた。
「その場合は……力ずくでも連行させてもらう」




