121. ハルバートとの旅
イチカが目を覚ました時、そこには混沌が広がっていた。
馬車の中には朝日が差し込み、座席の上に辛うじて寝かされていたイチカだったが、なぜかそこは斜めに傾いていた。さらに朝日とは反対側の窓の外には岩のようなものがすぐ間近に見えていて、何が起きているのかさっぱりわからない状況だった。
「いったいここはどこ?何があったの!?」
ようやくまともな思考が働きだしたイチカは、その斜めになった車内からどうにかして抜け出した。
「何これ・・・」
そして馬車の扉を開けて再び驚愕する。
木々が倒され、そこに挟まるように横倒しになりかけた馬車と、馬車から外されて近くに繋がれた馬達が目に入る。そしてその先はどこまでも深い森が続いていて、イチカは大口を開けたまま、ただ呆然とそこに立ち尽くした。
辺りに人の気配は無く、ふと思い立って馬車の向こう側を見ると、岩と思っていた場所が実は高さのある崖だったことに気がつく。
「え?もしかして、あの上から落ちたの!?」
イチカはなぜこんな場所にいるのかわからず、むしろこの場所にたどり着くまでの記憶すらすっぽり抜けていることに混乱し、ただふらふらと馬車の周りを歩きだした。
崖の上を見上げると、どうやらそこに道が通っているということはなんとか把握できた。当然この世界にガードレールのようなものは存在しないので、何かしら事故が起きて落ちてしまったのかもしれない。
イチカは再び馬車に戻ってバッグを手にすると、よくわからない状況ながらもとにかくここから移動しようと決意する。
しかしイチカは馬車から出た途端知っている人の気配を感じ、慌てて近くにあった木の後ろに隠れた。その人は馬車に入るとイチカの不在に気づいたのか、すぐに外に出て辺りを探し始める。
(どうしよう、どうして私ハルバート様と一緒にこんな所にいるんだっけ!?)
そして混乱した頭の中で、ふと痛みを伴う記憶が蘇った。
(シオンと・・・エレノアさん!?)
二人が交わす深い仲の恋人同士のようなキスが脳裏に浮かび、イチカは小さく声をあげてしまう。
「よかった。イチカ、ここにいたんだね?」
「ハルバート様!?」
その声のせいでハルバートに気づかれてしまったイチカは、木に寄りかかって動けなくなる。ハルバートはイチカに近づき、イチカをゆっくりと抱き寄せた。
「今日は君の瞳に光が戻っているね。昨夜は相当ショックを受けたんだろう。もう大丈夫。君の言葉通り私が君を助けたよ。」
「私、昨日、何か言いましたか?」
「ハルバート様、助けて、と。」
「・・・」
イチカは自分の不甲斐なさに落ち込みながらも、とにかく今のこの危機的状況からどう逃げるかだけに集中する。
「とにかく、離してください!私はあなたのものになるつもりはありません!!」
ハルバートは翔太の微笑みでイチカに迫る。
「この顔でも、駄目かな?」
イチカは狼狽えながら目を逸らす。
「・・・駄目です。」
「そう。じゃあ、朝食にしようか。」
「え?」
そう言うとハルバートはスッとイチカから離れ、その手を優しく引いて移動していく。
少し歩いた先にあったその開けた場所には、焚き火と何かの肉がすでに準備されていて、美味しそうな匂いが辺りに漂っていた。
「先ほど捕ってきた鳥だよ。塩もないし味はしないが、食べるかい?」
「これ、ハルバート様が、準備されたんですか!?」
「ははは、意外かな。元々私は庶民生活が長かったし、幼い頃家は貧しかったからね。割と何でもできるんだよ。」
イチカはふと思い出してバッグを開けると、常備している薬用の袋を取り出した。ハルバートは何事かとそれを静かに眺めている。
「これ、塩です。持っていると色々と役立つので・・・かけて食べます?」
ハルバートは眉根を下げて笑いだした。
「ははははは!君は面白いね!こんな状況でもそれを思い出して、囚われている相手に塩を差し出すとは!」
「はあ、あの、恥ずかしいのでそれ以上言わないでください・・・」
イチカは自分がこんな時まで美味しく食べようとしていたことを指摘されたようで、恥ずかしくなって目を背けた。
「はあ、すまない、つい笑ってしまって。でも、そうか。どうしてファルシオンが君を頑なに手放さないのか、わかった気がするよ。」
「ハルバート様、私は」
「今はとにかく食事をしよう。これからかなり歩かなければならないからね。」
そう言うとハルバートは肉の刺さった棒をイチカに手渡し、自分も豪快に食べ始めた。
「ああ、塩、もらってもいい?」
気軽に話し始めた彼に驚きながら、イチカは瓶に入った塩を手渡した。
「ハルバート様って、そんな話し方もなさるんですね?」
肉を頬張りながら微笑む姿に、シオンの面影を垣間見る。
「これが本来の俺だよ。まあ、普段は立場上そんな姿はとても人には見せられないけどね。でもイチカになら構わない。そうだイチカ、君、鏡は見たかい?」
「え、鏡ですか?」
「君の美しい髪が朝日に当たって銀色に輝いてる。気づいてた?」
「え、ええっ!?」
イチカは自分の長い髪を後ろから持ってきてまじまじと眺めた。
「色が、戻ってる・・・どうして!?」
「俺がエレノアという女を使って解除させた。」
「はい!?」
ハルバートは苦笑しながら近場の石の上に座る。
「いいからイチカも食べなさい。ほらそこに座って。全く、君はあの後俺が用意した作戦など意味が無いと言わんばかりに心を閉ざしてしまって・・・俺は君の心が欲しかったのに、むしろ遠ざかっていった。君を動揺させようと思って髪の色まで変えさせたのに、まさか今気づくとは。本当に君は面白い。」
「えっと、褒められていないことは、よくわかりました。」
イチカは少し落ち込んでそう言うと、ハルバートから塩を受け取り、軽く振ってからその肉にかぶりつく。
「美味しい!」
「ははは!やっぱり君は可愛いね。また好きになったよ。」
「・・・やめてください!もう!」
そうして朝食を食べ終わった二人は、近くの川で水を飲み、そこから東の方へと歩き始めた。
「あの、いったい昨夜、何があったんですか?」
イチカはハルバートの後を追いながら、ずっと気になっていたことを尋ねた。ハルバートは振り返るとイチカの横に並んで手を握る。
「は、離してください!」
「ファルシオンとはよくこうして手を繋いで歩いていたよね。俺では、駄目か?」
「だ、駄目です!」
「そう。でも君は俺の力には敵わないよね。」
「あ、ちょっと!」
そう言うとハルバートはイチカの手を引いたまま再び歩きだす。
「昨夜、あの馬車を動かしていた馭者が恐らく何らかの発作を起こして気を失ったんだ。それで制御を失った馬車があの崖の上から落ちた。」
「まさか!?だって馬も私達も、馬車ですら無傷でしたよ!?」
ハルバートは足を止め、イチカに向き合った。
「あの時、君から突然光が放たれたんだ。その光が馬車全体を包み込んで、馬も馬車も俺達も、ゆっくりと崖下に落ちていった。木に引っかかったからそれ以上馬車を動かせない状況にはなったが、そのお陰で二人とも命が助かったんだ。」
「私から光が・・・?」
「無意識だったんだろうが、助かった。ありがとう。」
「あ、いえ。でも、馭者の方は・・・」
「俺が見た時にはもう亡くなっていた。馬は元気だったが、この森は静かに歩いていかないとまずいんだ。だからあのままあそこに置いていくしかなかった。大丈夫、自由に動けるようにはしてある。」
イチカはハルバートの険しい表情とその言葉の意味がわからず、首を傾げる。
「どう言う意味ですか?」
「この森には、恐ろしい魔物のようなものがいると噂されている。」
「魔物!?ですか・・・?」
イチカはつい驚いて大きい声を出しそうになり、空いている手で口を押さえた。ハルバートはイチカの目をじっと見つめた。
「心配はいらない。ファルシオンとまともに戦えるくらいには俺も強いよ。だから君のことは、俺が守る。」
「ハルバート様・・・」
いつもは少し後ろに流して整えられている髪が、今日は自然に前におろされ、その黒い前髪が揺れる。イチカはより翔太に似たその姿にドキッとしてしまった自分を、密かに責めた。
「行こう。日が暮れないうちにこの森を抜けたい。」
「はい。」
イチカはハルバートに手を離してもらうことはできず、心の中に微かな痛みを伴ったまま、ただ黙々とその森の中を歩き続けていった。




