11話
「羨ましい……か」
二人が退出し、静寂が訪れた部屋にグランハルトの声が落ちる。
ヴァサからしてみれば、同じ孤独を抱える存在だと思っていたのに裏切られたように感じたのだろう。
とはいえ、それが救いになるとは限らないのだが……。
「……あとで、食事にでも誘ってやるか」
機嫌を取るためではない。
ただ、何となく優しくしてやりたい気持ちがあったのだ。
ふと落とした視線の先には、母の遺書と……まだ、読んでいないレタの手紙。
一人で読んでくれというユストゥスの言葉に、僅かに緊張しながらもその便箋を封筒から抜き取った。
「……、……」
震えている文字は辛うじてレタのものだと分かるが、手が震えていたのか掠れていたり、インクが伸びていたりして読みにくい。
宛先はなかった。
けれど、涙でよれる便箋から伝わるレタの苦しみを、全て受け止めてやりたいと思った。
くしゃりとよれた便箋には、懐かしい癖のある文字でよろよろと迷うように文字が綴られていた。
『私は殿下に対して、御母上と御兄様を材料にして蘇生術を行いました』
御母上と御兄様。
材料。
蘇生術。
兄の亡骸を、母がどう保っていたのかは分からない。
けれど、それを材料として使ったのなら、あまりにも狂っている。
ましてやあんなに可愛がっていたレタに、『使え』と命じたなんて。
けれど、レタはそれを拒まなかった。
レタもまた、きっと……狂った母を見ていられなかったのだろう。
彼女は酷く……優しいから。
『到底、許されない罪を犯したと思っています』
『殿下にとってこれが救いにならない事も理解していました』
蘇生術の行使は、レタの護衛対象であり尊敬する偉大な魔術師の王妃の願い。
だと言うのに、レタははっきりと“救いにならない”と断言している。
成功する保証は何処にも無い。
ただ王妃を殺め、死者を冒涜するだけかもしれない。
それでも――。
『それでも、私はあなたが生き続けることを、正しいと思いました』
尊敬する人とその息子を材料に、失敗するかもしれない魔術を――彼女は独りで、成功させた。
それがどれ程の痛みを伴ったかなんて、想像すら出来ない。
『本当に、申し訳ありません』
繰り返される懺悔と、至る所にある書き損じを塗り潰した跡。
落ちた涙がインクを滲ませて、それが乱暴に擦られた跡。
そこにいないのに、レタの咽び泣く声が鮮明に聞こえてくるようだった。
……慰めてやりたい。
抱き締めて、安心させてやりたい。
けれどレタは、私を前にしたら意地でも泣かないのだろう。
そんな事を思いながら、文字を指先で撫でて読み進めていく。
『王妃の願いは、殿下の幸せです』
『さようなら、グランハルト殿下。共に過ごせた時間は、間違いなく私の宝物でした』
『殿下の華々しい未来を祈っております。どうかあなたの歩む道が、いつも温かな光に照らされますように』
『私は国王陛下の命により、故郷へ帰ります』
読み終えたグランハルトは、最後に書かれた言葉をじっと見つめていた。
“故郷へ帰ります”。
隣国のウェストゥ共和国のことか。
失踪してからの5年間。彼女は静かに、安全で慣れ親しんだ土地で生きていた。
そう遠くはない、すぐ近くで。
はあ、と溜息をついて、肩から力が抜けていく。
「そう、だったのか……」
堪らず、その文字を指でなぞる。
「……近くに、居たのか」
独りごちたそれは、愛情からではない。
ただ独り苦しんでいただろう、当時のレタの傍に寄り添ってやれなかったという純粋な後悔。
私と、私の母のために。
耐え難い十字架を背負わせてしまった。
「……すまない、レタ」
レタに届くことはないと分かっているのに、喉から掠れた声が出る。
もう許すことも、肯定してやることも出来ない。
「すまない。君に、罪を……命を、背負わせた」
グランハルトはレタを抱きしめられない代わりに、手紙を抱きしめるように胸に当て、下唇を噛む。
その時、僅かに開いていた窓から風が入り、カーテンがふわりと動いて影を揺らした。
髪が頬を撫ぜる。
胸の奥が熱い。
血が、脈を打つ。
……生きている。
今は、それが重い。
それでも、この世界で生きることを“続けたい”と思えた。
母の遺書とレタの手紙を読んでから、2日後の早朝。
ここ暫くずっと寝が浅いグランハルトは、ふと思い立ってレタとの思い出の場所を散歩しようと考えた。……とはいえ、行こうと思えばいつでも行ける場所なのだが。
朝の冷たい空気に満ちた廊下が心地いい。
それに、早朝故に誰とも出会わないのも良い。
「……早起きも悪くない」
目的地である訓練場も、基本的には早朝から使われるものではない。だから当然、誰もいないと思っていた。
訓練場の前に到着したグランハルトは、力を込めて扉を引く。
すると、軋む蝶番の音に混じり『ぎゃっ』と鳥を締めたような声が聞こえた。
「あ、あれ?……グラン!」
そこに居たのはアルフレートだった。
いつも通りグランハルトの顔を見て一度嬉しそうにぱあっと花が咲くように笑ったのに……すぐに表情を翳らせ俯き、恭しく傅いた。
「……っ、大変失礼致しました。グランハルト“陛下”」
「……は?」
「前王ヴォルフガング陛下のご崩御の報に接し、謹んで……」
「……っ、おい!」
普段と違う態度に、ついグランハルトの口調が荒くなる。
そうだ。あの事件から今に至るまで、同じ城に居たのに、一度も言葉を交わしていなかった。
……だからって、こんな突然に態度が変わるなんて。
「アルフレート。今まで通り、“グラン”でいい。お前にそう言われるのは……やりにくい」
「ですが……」
「いつもの不遜な態度はどうした。ほら、笑え」
いつもなら素直に聞いて『そうだね!』と、へらりと笑ってくれただろうに、今日のアルフレートから頑なに態度を改めない。
「……いいえ」
着任後間も無い、初めて出会った頃のアルフレートを思い出すような、固く重い口調。
あの時は緊張しすぎて頬が赤くなっていたのに、今は青白く、僅かに震えていた。
「どうしたんだ、アルフ。……らしくもない」
「わ、私は先日の事件の折、自身の未熟さを強く感じました。私は陛下のお傍に立つに、相応しくありませ――」
「アルフ!」
「……っ……!」
びくり、とアルフレートの肩が震えた。
不安そうに見上げた顔は痛々しい程悲しげで、今にも泣き出しそうだ。
「ご……ごめんなさい。いつでも頼ってって言ったのは俺なのに……肝心な時に何も、出来てない」
「そんなこと……」
「こ、これからはもっと頑張ります。こんなんじゃダメなんだ。もっと、もっと俺…………!」
「アルフレート!」
痛みに耐えるようにぎゅっと目を閉じたアルフレートの名を、グランハルトは叱るように叫ぶ。
静かな朝の訓練場の空気が更に冷たく、ぴんと張ったような気がした。
「……私は大丈夫だ。お前一人で抱え込むな」
「……、……ッ」
実を言うと、そこまで“大丈夫”ではなかった。
何もかもを“引き摺っている”という自覚はあるし、まだしっかりと真実を受け止めきれてもいない。
けれど、以前より“少しでも前を向きたい”と思えていた。
……だから。
「笑っていてくれ。だらし無く、いつも通り……へらへらと」
慰めるように肩に手を置いて、なるべく優しい声で語り掛ける。
優しさではない。ただ、心が騒めいて仕方がなかっただけだ。
……アルフがこの先もずっと、このままだったらどうしよう、と。
得体の知れない何かに、自分の影を踏まれているような……じっとりとした焦燥感が、じわりと背後に迫っているようで。
「……アルフ。出来そうか」
だから、堪らず急かしてしまう。
こんなことはエゴだと分かっていても、笑っていて欲しかった。
その思いが通じたのか、それとも根負けしたのか。
アルフレートの閉じていた瞼がゆっくりと開かれて、迷いながらも漸く遠慮がちにグランハルトを捉えた。
「……うん、分かった。……ありがとう」
少しぎこちない笑顔ではあったが、へらりと普段のように笑うアルフレートに安心する。
……そうだ。
こいつは、こうでなくては。
強引に笑わせたのが妙に気まずくて、グランハルトは話題を変えることにした。
「……そういえば、こんな朝早くから自主訓練を?」
「うん。今回の事件で俺、もっと強くならなきゃって思ったから……」
アルフレートが照れくさそうに頬を掻きながら呟く。
ぎこちなく手を背に回して隠したのは、きっと小さな傷が沢山出来ているからだろう。
努力を隠そうとするのは、アルフレートの癖だ。
「……訓練で疲れる程本気を出すなよ。訓練は所詮、訓練なのだからな」
「うん、ありがとう……気をつける」
アルフレートがふにゃりと笑ったのを見て、グランハルトは背を向けた。
「……腹が減った。お前も来い、朝食にするぞ」
グランハルトがブレックファストルームにアルフレートを連れ立って入ると、料理を準備していたメイド達を驚かせてしまった。
「おはよう」
「おはようございます、陛下」
「アルフレート様も御一緒だったのですね! 申し訳ありません、陛下の分しか御用意が……!」
「少々お待ちください! すぐに御用意致しますので!」
慌ただしくキッチンへ戻っていったメイド達を見て、アルフレートは申し訳なさそうにその背中に控えめに声を投げかけた。
「急に来てごめんね! 俺のは大丈夫だよ、グランの分けてもらうから!」
「……私の分が減る」
「あっ、ごめん!」
ふっ、とグランハルトが笑うのを見て、アルフレートもつられて笑う。
「……料理が届くまで、大人しく待っていろ」
「はあい」
椅子を引いて座るように促すと、アルフレートは静かに腰を下ろした。
「お腹すいたねえ」
アルフレートの腑抜けた声を聞くと、なんとなく安心する。
この裏に、僅かな不安が滲んでいたとしても。
それでも今は、その声が聞こえなくなることの方が恐ろしかった。
――その夜。
国王としての職務が一段落したグランハルトはダイニングルームで一人、いつもより遅い夕食を摂っていた。
……父が死に、レタが死んだ。
自分は一度死んでいる。
母と兄を“材料”に蘇生され、何も知らずに生きてきた。
全てを知ってもなお、生きているから腹が減る。
それが何となく卑しく感じて、食事が喉を通る度に心が揺れた。
「……はあ」
無意識に溜息が漏れ出る。
それでも……生きるために、食べなくては。
白いソースを纏う鴨肉をフォークに刺して、口に運ぶ。
まろやかな舌触りと、程よい弾力。
子供の頃からずっと好きな、鴨のクリーム煮。
けれど、最近は何を食べても味が“遠い”。
「……陛下」
急に声を掛けられ、はっと顔を上げると突然目の前にユストゥスが現れたような気がした。
ふと視線を皿に移すとふわりと立ち上っていた湯気は消え、冷めたソースが布のように波打っている。
「っ……どうした?」
声が喉に絡む。
動揺しているのが直接伝わってしまう気がして、グランハルトは無理矢理笑顔を作った。
……上手く、笑えているのだろうか。
「御食事中に申し訳ありません。……酷く疲れのようですね。少しお話を、と思ったのですが……明日に致しましょう」
「いや……今、聞かせてくれ。私は大丈夫だから」
グランハルトが食い下がる。
しかしユストゥスは苦笑いをして片手を挙げて制止する。
「いいえ、なりません。陛下の無理を止めるのも臣下の務めです」
「私の身体の話なんだろう?……蘇生術の」
グランハルトの低く潜められた声に、ユストゥスの声も同調するように低くなる。
「ええ」
「だったら……!」
勢いよく立ち上がったグランハルトの椅子がガタンと揺れた。
「陛下。……明日の夕方に、改めて陛下のお身体について御説明させて下さいませ。それと、もし宜しければ……ヴァサ様もお話したいことがあるとかで、御同席したいとのことです」
「えっ……ヴァサが?」
突然、その名前が挙がって面食らった。
「正確には、陛下と私に伝えたいことがあるのだと仰っておりました」
「……はあ。うん、分かった」
思いがけない参入に、溜息に似た生返事で答えてしまう。
一体、ヴァサは何を話したいんだ……。
そう言いかけて薄く開いた唇を、今度こそユストゥスが手を翳して制止する。
「……全ては、明日です。今夜は何も考えず、早めにお休み下さい」
「……はあ」
ユストゥスはグランハルトが乱暴に足を組んだのを見て、困ったように笑う。
「……御父上の悪い所ばかり似てしまいましたね」
「ふん。好きで似たんじゃない」
……妙な心地だった。
あんなに嫌いだった自分の中にある、父と似ていると言われる特徴や仕草が、今になってやっと許せるようになるとは。
ユストゥスはからかうように軽く目を細めると、静かに一礼して「では、おやすみなさい」とダイニングルームから出ていった。
風呂から上がり、自室のベッドに身体を滑り込ませたのは、結局いつもの時間だった。
つい、湯を浴びながら考え事に耽ってしまったのだ。
自分に何が起こったのか、そして自分はこれからどうなるのか。
明日の夕方。それが分かる。
早く……そして、詳しく聞きたかった。
「……寝よう」
不安が鎌首をもたげる前に、グランハルトはするりとベッドに入ってサイドランプを消す。
「……はあ」
眠るのが少し、怖い。
そんな事を思ったのは、いつぶりだろうか……。
けれど考えとは裏腹に、目を瞑ると緊張で張り詰めていたものがするりと解けていく。
ふと、どこからとも無く『大丈夫』と誰かの声が聞こえた気がして、酷く安心する。
「……うん」
ぎゅっと掴んだシーツの衣擦れの音を最後に、グランハルトの意識は闇に溶けていった。




