24.誰もいない海
何が原因だったのかは分からない。
聖女の急死後、もうすぐ冬だというのに夏のような暑さが続き、植えていた作物は枯れ、雨を失くして乾いた地面は徐々にひび割れていった。
すぐに他国への避難の呼びかけや非常用食糧庫の解放、配給制の実施に加えて国王をはじめとした王族・貴族が私財を投げ打ち同盟国から食糧を確保したものの、疫病まで蔓延し始め、先の見えない状況に皆が怯えていた、あの頃。
何が原因かは分からないが。
大規模な山火事が起きた。
山には食糧の探索と確保のために第二王子が指揮する部隊に加えて近隣の村から募った者が多く入っていた。それを考えれば、死者二名という数字で抑えられたのは立派ともいえるだろう。
死者二名。
それがたまたま、彼女にとっては愛する夫と娘だった。
ただそれだけのことだった。
◇ ◇ ◇
「珍しいな。フィーが体調を崩すなんて」
「ごめんなさい、私が昨日水をこぼしてフィーにかけてしまったせいで……」
「リアンちゃんのせいじゃないわよ。ほら、しっかり食べて食べて」
その日はよく晴れていて。たまたま長男が体調を崩した以外はいつもどおりで。二ヶ月ほど前から一緒に暮らすようになった近所の子供もようやく慣れてきたようで、笑顔をよく見せるようになっていた。
「ねぇ、父さん。今日フィーが行くはずだった食料探索、私が行こうか?」
「でも、アンリはオーヴェ君と王都まで行くはずだろう?」
「さっきリアンちゃんにお願いしたのよ。ね」
「はい。私も今日は特に予定もありませんし」
そうして、夫と娘は山へ、近所の子供は王都へと向かい、家には彼女と息子だけが残された。熱に浮かされた息子は浅い息をしながら、時折苦しげな声を出している。
「大丈夫、大丈夫よ。フィー」
普段は遠慮しているのか、なかなか撫でさせてもらうことすら叶わない頭を撫でて。
「お母さんが傍にいるから……」
少し落ち着いた様子の彼に目を細める。ただ、そんな母親らしいことができたのも、これが最後だった。
抜け落ちていく。
井戸に水を汲みに行こうと外へ出れば、焦げ臭さが鼻をついた。集まり出した村人達と同じ方向を見れば、山が燃えている。
『待ってて母さん、美味しいもの見つけてくるから!』
『そうだね。久しぶりに肉が食べられるように何か捕まえてくるよ』
『鹿! 父さん、私鹿が良いな! あー、お肉食べたい!』
『じゃあ、アンリがお腹を空かせて動けなくなる前に行かないとね』
夫と娘が笑顔で出かけて行った山が、燃えている。
『母さん、いってきます!』
堪らず駆け出した。
「おい! 止まれ!」
「あの、あの! 夫と娘が、山にっ……あそこに、あそこにいるんです!」
警備兵に止められ、遠目に見る隊列にも夫と娘の姿は見当たらなくて。
「あなた……アンリ…………っ! どこ? どこ……?」
探しても、探しても。ついぞその姿は見つかることはなく。
抜け落ちていく。
『君が不貞なんてするわけないだろ』
周りの視線に、言葉に傷ついてばかりいた頃。彼はあっさりと否定してくれた。
『この子は間違いなく僕と君の子供だよ。なぁ、フィー。よく笑う良い子だ』
故郷も家名も捨ててまで自分を信じ、守り抜いてくれた最愛の夫と。
『母さんと違って私はお嬢様じゃないの。村の男どもよりも強いんだから』
自分が頼りないばかりに人一倍しっかりして、いつも励ましてくれたできすぎた愛娘。
『私は母さんがいてくれるだけでいいの。だから、そんな顔しないで』
山を包む炎がすべて燃やし尽くして、太陽は灰に覆われて晴れやかな昼が息苦しい闇夜へと変わってから数日が経ち、ようやく見つかった二人は。
寄り添うように重なって、どちらがどちらかわからない黒い塊になって、柔らかな髪も抱きしめた時の温かな熱も優しい眼差しも、すべてを失くして。震える手で触ればぼろりと崩れた。
「あぁ……あ、ぁ、あぁぁぁあああ」
『愛してるよ、ソフィア』
『大好きよ母さん』
「ゔ……うぁ、ぁあ、あああああ」
『いってきます』
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
絶望はたちまち彼女を包み込み、心は悲しさと苦しさが埋め尽くして理不尽に暴虐の限りを尽くされて。
抜け落ちていく。
幾度も彼女に差し伸べられてきた手は、黒く暗く崩れて消える。
誰もいない、暗い底へと意識は落ちていく。
抜け落ちていく。
そうして、自我が壊れる前に彼女は意識を現実から切り離した。
抜け落ちて、抜け落ちて。
家に一人残してきた息子のことも、
抜
け
落 ち
て。
◇ ◇ ◇
体が熱い。
苦しい。
水が、飲みたい。
誰か、だれか。
「お、かあさ……」
蚊の鳴くような、少年の呟きは。
誰もいない家に吸い込まれて消えていった。




