52.目に見えるところの喜びと、見えないところの不穏
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それから、具体的にどれだけの日が過ぎたのかはマルクスは覚えていない。
それほど長い間ではなかったが、決して昨日の今日というものでもなかった。そんな時を経て、ようやくニルの絵は完成した。
「後は顔料が乾けば出来上がりですわ」
というニルの言葉を聞いて、周りの見物客から「おお~」と歓声があがり、ぱちぱちと拍手が起こった。
完成した絵はというと、本来ならばケテア像をスケッチしたものだったはずがその周りに人物が際限なく増えてしまった結果、結局何を描きたい絵なのかよく分からなくなるという始末だった。とはいえ、それはそれで賑やかでいい絵だとはマルクスも思う。
絵の完成を近くで見守っていた美術館の館長が、頷きながら言った。
「とても素敵な絵ですね。貴方がこの絵に何を描こうとしたのか、それが感じられるようだ」
それを聞いてニルが照れくさそうにする。単なる水の塊でしかない頬が、なぜだか少し赤らんだように見えるのはたぶん眼の錯覚だろう。
「そんな、お恥ずかしいことですわ」
「本当ですとも。この絵を通して、貴方のお気持ちが見えてくるようです」
「それって……」
「ふふ」
含み笑いを浮かべる老紳士の、ニルを見るその眼の中には、精霊が絵を描いてそれを完成させた、という事実に対するものだけではない、何らかの感情があるようにマルクスには見えたが、それが具体的に何なのかは分からない。
少しの間を置いて、彼は続けてニルに対してこう呼びかけた。
「ひとつ、貴方がたにご案内したい場所があるのです。今日はお疲れでしょうからまた後日美術館に起こしください。ニルさんにとってはきっと見たいものをお見せできますよ」
「わたくしの見たいもの」
「そして、手前が貴方にお見せしたいものです」
それが何なのかは気になったが、確かに数日どころではない期間を執筆に費やしてきたものだからニルとしても集中が切れた反動か少しばかり疲れた。精霊が疲れるものなのかどうかはともかくとしてとにかく疲れた。
彼の言う通り、美術館を訪ねるのはまた後日として今日はゆっくり休むとしよう。
それはそれとして、出来上がった絵のことでマルクスが言う。
「それにしても、この絵はどうするんだ?家に持って帰るのか?」
「そうですわねえ、どなたか引き取り手がいらっしゃるとも思えませんし……」
特に理由も目的もなくただ描きたいから描いた絵だ。出来上がった後のことは何も考えていなかった。ひとまずは家に持って帰って研究室の中にでも飾っているしかあるまい。
しかしそれに、オウルがいささか寂しそうに言う。
「でも、家の中に置いているだけじゃ誰も見てくれないよ」
それに、見物人の一人と化していたテトさんも続く。
「確かに、せっかくの作品なんだから多くの人に鑑賞してもらう機会は欲しいわよね」
それを聞いて、老紳士がひとつの提案をする。
「でしたら、そちらについても後日手前が引き取りにお伺いしましょう。ニルさんこそよろしければ、折を見てこちらの美術館に展示させていただきます。精霊の描いた絵画とあれば、二つとない貴重なものですから、きっと多くの方の眼に留まることでしょう」
その申し出に、ニルがびっくりした。
「わたくしの絵が?多くの方に?」
「そうですよ。今だってそうです、ここにいる方たちはみんな貴方の絵の完成に快く協力し、それを見守ってくださっていたのです」
改めてニルは、周囲に眼を配った。そこにいる人々の姿は十や二十は下らない。彼らは皆彼女の絵の題材として協力してくれた人達だ。そこには間違いなく、精霊が絵を描くというのが物珍しいというだけではない理由があっただろう。最初こそそうだったかもしれないが、それは徐々に別の形へと変化していった。
そんな彼らの期待の上で、この絵は完成したのだ。
ニルはもう一度出来上がった絵を見つめ、自分に言い聞かせるように小さくつぶやいた。
「みなさまと一緒に描いた絵が、もっと多くの方の眼に?」
それに、老紳士がにこやかな笑みを浮かべる。
「それを誇らしく思う気持ちがあれば、どうかそれを忘れず。そして恥ずかしく思うのでしたら、そう思わなくなるように研鑽を続けてください。
貴方がたが創作の腕を止めず、作品を世に出してくれることが、手前にとっても嬉しいのです」
※
精霊召喚士として、自らの呼び出した者への責任を持ち、技術を向上させる。そう決心したティファレッテは勉学に励み知識を積んでいた。
だから、自らが同行したイェソドの遠征キャラバン隊が向かう場所がどのような場所なのかも覚えた。
この世の遍くものは魔力により構成される。それは今も目に見えぬ形でいたるところに存在し続けている。
そして世界にはいくつか、魔力が多く集まっている場所が存在するという。そこはすなわち、魔力の化身である精霊にとっても生きやすい場所であり、だからこそ召喚士達は便宜的にそのような場所を精霊の“生息地”、あるいは“里”と呼んでいた。
キャラバンが最初に向かったのはそんな“里”の一つ。
世界最古の火山とされている“ハインケル山”だ。世界各地で様々な形態で語られている国造りの神話だかにおいて、創世に際してまず最初に炎が全てを焼き尽くしたという記述が散見される。それはこのハインケル山の噴火を意味しているとも言われている。
それほどの歴史を持つ山だ。そこには純粋な火属性の魔力が高密度で満たされていて、煮えたぎる炎が火口にて常にくすぶり続けている。
炎の化身であるサラマンダーにとってはまさしく故郷とすら言っていいような場所だ。
ここが、
ここがそうだというのか。
「そんな……」
ティファレッテは思わず悲嘆した。
彼女が足を踏み入れたその地は、すでに火山などではなかった。世界を作り出す原初の力、その最初の顕現とも言うべき熱気讃えし最初の火山は、
すでに死につつあったのだ。




