45.精霊がお絵かきするとか聞いたことないんだが。
結局、ニルとの魔術都市観光は、美術館での作品鑑賞に時間の大部分を費やして終わった。
そしてその翌日。
さて、今日は何をするか。例の掻痒虫の品種改良に取り掛かってもいいし、治療の依頼がきたのならそちらに取り掛かるべきだろう。
そんなことを考えながら起床したマルクスは、朝の支度をする前に何の気なしに研究室に足を運び、
そこでその光景を眼にした。
部屋の片隅。椅子に腰掛けている水精のニル。
彼女は左手にマルクスが研究の記録をするために使う紙を持って、そこにもう片手に持ったペンを走らせていた。
その前方には、小さな台の上に置かれた実験用のフラスコが置かれていた。
そして黙々と何かを描いているニルの姿を、少し離れたところからオウルが見ていた。
「……なにをしてるんだ?」
彼女の方へと歩みよりながら問うマルクス。
そこでようやくニルとオウルの方も彼の存在に気づいたようだ。振り向きながら応える。
「わたくしも絵画の術を身に着けようと思いまして、まずは近くにあるものを描いているのですわ」
「素描というやつだね。絵を描くにはまずここからやるとかなんとか聞いた気がするから」とオウルも続く。
「あの時の発言、まさか本気だったのか……」
言いながらマルクスはニルの隣に立ち、彼女が描いているという素描の絵をのぞき見てみた。
瞬間、彼は思わず吹き出した。
「プークスクス!なんだその下手くそな絵!」
眼の前に置かれているフラスコを題材にしているのだろうが、輪郭も陰影もめちゃくちゃ、まさしく子供の落書きだ。
あの時美術館で見た緻密な絵画の数々とは比べるべくもない。腹を抱えて笑うマルクスだったが、不意にその腕をオウルがぐいと引っ張った。
「!?」
「じゃあ創造主も描いて」
そう言い放つ冷たい声音にマルクスは思わず息を呑む。
「い、いやあ別に俺が描くとかそういうんじゃ……」
「いいから、創造主も、描いて」
食い下がることなく険しい視線で睨みつけてくる彼女の気迫に、ついに根負けする。
「俺にはこれすら描けません。貶すようなこと言ってすみませんでした……」
しょんぼりと肩を落として謝るマルクス。確かに、今の言い草はあまりにひどすぎたと思う。精霊が絵を描くなど聞いたこともない話だったのでつい面白がって冷やかしてしまったが、そんなことをするべきではなかった。何かに挑戦する者を馬鹿にしてはいけない。
それはいいのだが、あんなに厳しく叱責するのならオウルだってたまにこちらを馬鹿にするような発言を控えてくれればいいのに、とマルクスとしては思わなくもない。
それに、ニルが絵を描くことそのものとは別の問題もあった。
「しかしニル。そのペンも紙も俺の私物だぞ?勝手に使われては困る」
その指摘を受けて、ニルはハッとした。
「す、すみませんわ」
「え~、ケチ臭いなあ」
オウルが冷やかしてくるが、これはこれでマルクスとしては食い下がるわけにはいかない。
「ケチ臭かろうがなんだろうが、モノの所有権というのははっきりさせておくべき、それが社会というものなんだ。ニルだって不可視の魔力からちゃんと形を持った存在としてこの世界にやってきたのなら、そこら辺はしっかり意識しなくちゃいけない」
「確かにその通りですわ」
「それに、もし君が望むのならもっとちゃんとした画材というやつを買ってあげるんだからそう頼めばいいんだ」
「本当ですの!」
「本当だとも。ただし!そのためには条件がある。ギブ・アンド・テイクというやつだ」
「うわでた」
オウルが苦い顔をする。マルクスお得意の理不尽脅迫の始まりだ。
アホの―――もとい大(?)魔術師のテトさんや、世の中のことをよく知らない精霊のニル相手になるとすぐ無茶な要求をするのだからこの男は相変わらずである。マルクスはニルの方をに人差し指を向けくるくると回しながらもったいぶった口調で続ける。
「ニル。君は水を自由に操る水精だ。となると、例えばその水の成分を変えることもできるのか?」
「無理ではないと思いますわ」
「それなら―――」
不意にマルクスは、くるくると回していた人差し指を口元に運び、ガリッと噛み切った。そのまま口元から離れた指の腹には、一滴の血のしずくがにじみ出てきている。
そうしてその指を再び、ニルへと指し示した。
「これ舐めてみなさい。これと同じ成分の液体を再現してみてくれ」
その発言にオウルが「うえ~」と声をあげた。
「マジで?創造主にそんなシュミがあるとは……」
「あのねえこれは人の治療に役立つことなの!それこそ生体錬成と医術を貶す発言だぞ!」
「それは失礼をば」
ニルは差し出された血の滴る指をしばらくぽかんと眺めた後、疑いもなくそれをぱくりと口に含んだ。
「ちうちう」
そうして言われるがままに、マルクスの血を舐める。
「どうだ?」と聞くマルクスに、彼の指をちうちう吸うのを止めて応えるニル。
「なんだか、小さなツブツブが混じってますわ。これは液体ではありません。これだと全部を再現することはできませんわよ?」
「それはいい。他に例えば塩気とか苦味とか、そういうものを感じるだろ?そっちはどうだ?」
「それならなんとか」
「よし!それでいい、それでこそいいんだ。ツブツブの方は俺に任せてくれ。絵の修業は後でゆっくりさせてあげるから、もうひとつ頼みたいことがある」




