異変
――――事故から二日後の朝。
大河は自宅の玄関でスニーカーの靴紐を結び直していた。
「これでよし……と」
左右の長さが綺麗に揃った靴紐を見て、小さな満足感を覚える大河。退屈を遠ざけるには、こういった小さな喜びを積み重ねていくことが肝要だ。
「お兄ちゃん……ほんとに今日から学校行くの?」
背後から心配そうな様子の硝子が声をかけてくる。
「まあな。昨日の検査でも異常なかったし、お医者さんも無理しない程度で通学OKって言ってたし。大丈夫だろ」
「大丈夫かなぁ……」
「だいじょぶだいじょぶ。なんか無性に身体を動かしたくなってるしな」
結局大河は二日前の事故の際大怪我はまるで負っておらず、小さな擦り傷や打撲が少々ある程度だった。医者曰く、まさに奇跡的というべき現象らしい。
しかしトラックに撥ねられたのは事実なので、大河は念のため一日検査入院をして昨晩帰宅を許されたのだ。
「私だったらこれ幸いに一週間くらい休むのに」
「容易に想像つくな、それ」
一週間でも控えめに言ってそうなところが怖い。
大河は硝子と一緒に家を出る。玄関を開けると生ぬるい空気が肌に纏わりついた。春のはずなのに、どこか湿り気を含んだ生暖かさがじわりと首筋を撫でる。
「なんか変だな……?」
大河が小さく呟く。二日前と同程度の気温・湿度のはずだが、相対的な不快指数が高い。
それだけではない。風の流れがやけにはっきり伝わってくる。頬に触れる空気の流れ、強さ、僅かな温度差まで感じ取れてしまう。感覚が過敏になっているのだ。
「どうかした、お兄ちゃん?」
「いや何でも……」
誤魔化しながら大河は施錠した鍵をポケットに突っ込む。そのまま右手を引っこ抜くと、チャリと擦れる音がした。
「は?」
手を見ると、ポケットに入れたはずの鍵が手の平にくっついている。掴んでいないのに、まるで接着剤で固定したかのように張り付いている。よく見ると張り付いているのは鍵本体で、革製のキーケースは宙ぶらりんになっていた。
大河は訝しみながら乱暴にその手を払う。けれど鍵が外れる気配はない。
「何やってるの?」
眉をひそめながら硝子が尋ねてくる。
「……手品的な? ハンドパワー!」
「バカじゃん」
「傷付くじゃんやめてよ」
大河自身まるで事態を把握できていないが、硝子に心配をかけたくないのもあっておどけて見せた。
呆れたようなため息を吐いた硝子が少し前を歩いていく。大河は左手で右手にくっついたキーケースを引っ張ると、少し抵抗があったものの何とか離れてくれた。接着部の鍵には何も付着していないが、手の平が少し熱を持っていた。
「いったいなんなんだ……」
どうにも気味が悪い。慣れ親しんだはずの身体が別人のもののように扱いづらい。
違和感はそれだけに留まらなかった。遠くを走る自動車のエンジン音。周辺の住宅街から漏れる生活音。周囲を歩く人々の話し声――普段なら意識にも上らないはずの音が、一つ一つ輪郭を持って耳に届く。
それに加えて視覚もおかしい。以前よりも遠くまで見通せるようになり、さらに視界も広がっているように感じる。離れた掲示板の小さな文字や目測百メートル先の人影の表情まではっきり見えた。
歩いているだけなのに入ってくる情報量が多すぎる。脳が処理しきれず、僅かにノイズが走るような感覚に陥る。
(事故の影響……? いやでも、こんなことがあり得るのか?)
胸の奥に小さな不安が沈殿する。
「それでさー、お見舞いに来てた可憐さんと話してたんだけどー……」
楽しそうに話す硝子にだけは悟られまいと、努めて平静を装う大河。
半分上の空状態だったが、いつの間にか学校がすぐそこまで近づいてきている。大河は頭を振り思考をリセットする。そして何の気なしに階段の手すりに触れ――――
――バチッ! と拒絶するかのように、彼の指に放電が弾けた。
「っ!」
大河は反射的に腕を引く。静電気にしては小さくない音が弾け、少し前を歩く可憐が「何か変な音した?」と音の出所を探していた。
鋭い痛みの走った指先を見つめながら、何度か指を開いては閉じてみる。そのたびに指の間で小さな電気が跳ねる。自分の手のはずなのにどこか馴染まない。
違和感が全身に纏わりついている。それはもはや誤魔化すことができないほどに膨らんでいた。
硝子と別れ、大河は教室へと入る。クラスメイトに少し注目されたような気がした。トラック事故から奇跡の生還を果たしたと思われているのだろう。
それに加えて僅かな汗の匂いや女子生徒の香水の甘い香り等が混ざり合いすぎて、鼻の奥が重くなる。
「――ガー、タイガー!」
自分に向けられた声で意識を取り戻す。傍らで可憐が眉を寄せ、不安げにこちらを見ている。
「タイガー、大丈夫か?」
彼女が下から顔を覗き込んでくる。明朗快活な彼女らしくない表情だった。
(今日は大丈夫か? とよく聞かれる日だな)
内心で反省する。いくら自分の状態が不安定だからといって、それをこれ見よがしに態度に出すのは違う。他人に配慮を求めているようでみっともなく思える。
大河は親指をぐっと立てて笑顔で答える。
「ああ! この通り元気いっぱいだ!」
「タイガー……それはいくらなんでも演技下手過ぎる。栄養ドリンクのCMに出てるお兄さんの千倍笑顔がきしょい」
「ひどっ⁉」
配慮しろとは言わないが、せめて言葉は選んでほしい。
肩を落とす大河に、堂本がさりげなくフォローを入れる。
「一昨日タイガーが事故に遭ったって聞いて心配してたんだ。トラックに轢かれたって。一昨日は可憐も家の用事ぶっちして見舞いに来てたろ?」
「だから大丈夫だって。こんなにステキスマイルできるんだぞ? ほら」
もう一度渾身の笑顔を向けてやる。すると可憐は心底呆れたようにため息を吐いた。
「ぎこちねー。チハヤ、やっておやり」
「キラッ☆」
「うおおっ⁉ 日焼けあとと対照的な白い歯! 完璧な唇な角度! なにより目が本気で笑っている! これが神スマイルか……!」
「これよこれ」
堂本の完璧な笑顔を見せつけられ敗北感に打ちひしがれる大河。何故か可憐が得意げになっている。
堂本は少し照れくさそうに喉を鳴らした。
「んんっ。それよりもタイガー、今日は一限目から体育だけど大丈夫なのか?」
「あー、できると思うけど念のため先生と相談してみる。無理はしないかな」
「それがいい」
「よーっし! 今日こそあたしはダンク決めてみせるぞ! ふんふん!」
「なんそれ?」
「気合を入れた!」
一五〇センチ前後しかない身長ではダンクをするのは厳しいと思うが、彼女の身体能力は尋常ではない。もしかしたらダンクできるかも、と思わせる説得力がある。
可憐がファイティングポーズを取り鼻息を荒くしていると、予鈴を告げるチャイムが鳴った。それに従い三人は体育館内にある男女更衣室に向かう。




