怪盗γ
街を一望できるシンボル的存在・ポートタワーには、昼夜問わずその美しい景色を見に多くのカップルが訪れる。鼓のような独特の赤いパイプ構造が特徴のタワーの高さは約一〇〇メートル。人によっては足が竦む高所である。
――――そんなタワーの頂上に怪盗が立っていた。
安全上の観点から当然誰にも開放されていない屋上にいるその人影は、闇夜に溶け込むような服装――グレーのベストに黒の襟高なジャケットとボトムズを身に付け、肩で留めたマントを風にたなびかせている。アクセントに銀の懐中時計を首からぶら下げていた。
目立ちたがり屋な格好をしている一方で人目を忍ぶような暗い色合い。矛盾したコンセプトがイレギュラーな存在であることを伝えるのに一役買っている。
眼下に広がる夜景を眺める男の顔には僅かに幼さが残っているものの、高所に対する恐れも全能感による興奮もなく、ただ観察する冷静さをまとっていた。
『――――タイガ、定刻だ。準備はできているか?』
少年――御前大河は耳に付けたイヤホンから流れる音声に耳を傾ける。
『お兄ちゃーん。今ナビ情報送ったからそれ通りにヨロー』
『こっちはもう持ち場についてるぞ。レディを待たせるなんてなってないぞタイガー』
「……へいへい。分かってるよ」
言って、大河は黒色のドミノマスクを装着する。すると視界の端にいくつかの情報が展開された。マスクの視界部分には特殊な液晶が埋め込まれているのだ。
目的地がタグ付けされ、そこに至るまでのルートが矢印で表示される。直線距離にして一キロ弱。走れば通常三十分以上かかる道のりだ。しかしそのルートは目的地までほぼ一直線に空の道を指し示していた。
大河は両指を鳴らすと紫電が散った。次第に電気は手から腕へと広がっていく。そして階段を下りるくらいの気軽さで、そっとポートタワーからジャンプした。
背後のポートタワーに両手を向ける。
紫電が夜を裂き、塔へ走る。
――反発。
衝撃は一瞬。だが十分だった。すぐに重力は敵ではなくなる。鋼鉄と電撃が互いを拒み、それは推進力となって大河の身体が夜へ射出される。マントが翻り、月光が銀の懐中時計をかすめた。
生ぬるい夜風が頬を抉るように打ち付けてくる。視界の両端に見える景色が急速に流れていく。大河は姿勢制御しながら構造物にある鉄骨等に対し磁力を働かせ、引き付け、時には反発させ縦横無尽に夜の街を飛び回る。
『前々から思ってたんだけどお兄ちゃん、それ怖くないの?』
「初めは怖かったけど今はなんかもう慣れたよ。子供ん時は空を飛ぶ鳥さんはさぞ楽しいんだろうなぁって思ってたけど、何回も飛んでりゃ飽きるもんだな」
『確かに。私たち人間だって別に歩くの楽しくないもんね。むしろキツいもんね』
『あはは……私語はいいけど二人とも、抜かりないようにね。特に大河くん、予告時間には遅れも早さも許されないんでしょ?』
「分かってるって。ったく社会じゃ多少の時間のズレは許されるってのに、怪盗が予告時間に誰よりシビアだなんて無法者には皮肉だよな」
『大河くん』
生真面目な口調の女性に再度咎められ、大河は「はいはい」と口を閉ざした。
高速道路の上空を通過し、いよいよ目的地の建物が迫ってきている。作戦開始が間近とあって先ほどまでのような軽口は交わさない。
無線越しに緊張感漂う中、お構いなしにと尊大な声が聞こえた。
『タイガ……いや、怪盗γ。今日の狙いはなんだ?』
何のことはない確認。あるいはそれは、大河の僅かな気負いを察知したが故の発言だったかもしれない。
大河は目的地の向かいの屋上へと降り立ち、眼下の様子を伺う。石造りの博物館をパトカーが十数台体制で厳重に包囲しているのを確認。それから答えた。
「今回の獲物は世界最大級のルビー、通称『魔王の右眼』。いつもはヨーロッパにあるのが持ち主とともに日本へ来日している」
『そうだ。これを逃すと次にいつチャンスが我々に訪れるか分からない』
「まあ、怪盗にとっちゃ失敗=ブタ箱だから毎度ラストチャンスみたいなもんだけどね」
大河は天を仰ぎ見て、一度大きく息を吐き出した。夜空には満月が浮かんでいる。誰しも心奪われる満月が視界にすら入っていなかったことに、彼は今更ながらに気が付いた。
『一分前ー。予想通りの配置っぽい。突入ルートαでー』
「了解」
大河は風で乱れたジャケットの裾を整える。頭の中で作戦を反芻する。身体の調子を確かめるように手を開閉させる。そして祈るように懐中時計を握り締めた。
屋上の縁に立ち、御前はイヤホンを二回ノックする。
「――作戦開始だ」
飛び降りると同時に仲間たちへ開始の合図を告げた。
今最も世間を賑わせる『怪盗γ』。
泥棒はいけないこと、なんていうのは小学生でも分かる当たり前のことだ。
御前大河がそんな怪盗となったのは今から約半年前のことだった――――




