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束の間の幸せを 5

 腰を抜かしたマティアスは、逃げるように帰っていった。

 その背に冷たい視線を送りながら、セディオスはぼんやりと考えた。

 脅しは、あれで十分だったろうか。

 先日のように自分が留守にしている間に、また訪れないとも限らない。


「……結界ってどうやって張るんだろ」


 独語して、シェリーの本棚を漁る。

 平穏な暮らしを守るためだ。せめて自分が独り立ちをするまでは、シェリーには無事でいてもらわなくては困る。

 分厚い魔術書をめくりながら、手のかかる師匠を思ってセディオスは淡く微笑んだ。全くこれじゃ、どちらが師弟かわからない。けれど仕方がないのだ。彼女は教師のくせに魔術が得意ではなくて、自分の方にはどうやら才能があるらしいのだから。


 魔術書を片手に、居間の使い古したソファに座り込む。

 いつもは彼女とふたりで身を寄せ合うから暖かいけれど、暖炉に火もくべてない(もったいないので)今、室内はひんやりと寒かった。

 明日には戻るぬくもりは、山を無事越えられただろうか。

 思考の端で思いながら、冷たい指先でページを捲る。案外、結界の魔法は簡単そうだった。それともこれも、シェリーには使いこなせない魔術なのだろうか。


 と、何かが視界を横切って、セディオスは窓の外に目をやった。

 ちらちらと粉のような雪が降り始めていた。

 どうりで冷えるわけだと身震いする。シェリーに渡したマフラーがまだ温度を保っているといいのだけれど。


 ──……魔術師か。

 本当に目指してみようか。

 そうすれば、あの目障りな男を完全に追い払うことも出来るし、自分を玩具にした貴族の少年に復讐もできる。

 何よりも、自分が優秀な魔術師となればシェリーの評判もひっくり返るはずだった。依頼も今より増えて、彼女も喜ぶ。

 それを想像したとたん、不思議とやる気がみなぎってきた。

 最高ランクの資格を取れば、きっとシェリーは驚きながら、そうしていつもみたいに手放しで褒めてくれるのだろう。

 あの笑顔は、好きだった。




 簡素な夕食を終えたセディオスは、そろそろ眠ろうと寝室に向かった。

 いつもはシェリーと眠るベッドも今夜はひとりで堪能できる。自由に手足を伸ばせるし、寝返りだって打ちたい放題だ。なのに、どうしてか物足りない。毎晩『狭くてごめんね』と自分を抱きしめてくれるシェリーがそばにいないからだろう。

 少し前にシェリーは、セディオスくん用のベッドも買わなくちゃねと話していた。

 そんなものはいらないと猫みたいに丸くなりながら、思う。

 隙間だらけのあばら屋でのひとり寝は、寒すぎた。



 ◇


 事件が起きたのは、その翌日だった。

 昼過ぎには帰るといったシェリーが、昼を過ぎても、夕方になっても、夜になっても、帰ってこなかったのだ。

 人探しの魔法でもあればいいのに、シェリーの家にある魔術書のどこを探しても、そんなものは見つからなかった。


 どうすればいいか分からなくなったセディオスは、近隣に住むフェイという親切な主婦を訪ねた。


「雪で立ち往生してるんでしょう。大丈夫、よくあることよ」


 安心させるために、フェイはそう言ってくれたのだろう──しかし、それでも不安が拭えなかったセディオスは、家を飛び出してシェリーが通るはずの道を辿った。

 昨日から降り始めた雪はそこかしこに舞い降り、森中を白く染め上げていた。


 真っ暗な夜空から、音もなく降り頻る雪。

 セディオスは祈るような思いでシェリーを探した。

 まともな防寒をしていないセディオスは、すぐに手足の感覚を奪われた。痛みさえも鈍る中、師を求めて山への道を進む。

 困るのだ、彼女がいなくなるのは。


「先生」


 ささやけば、白い息が暗闇に浮かんだ。

 この地域で、雪は珍しいことではない。

 予定が一日遅れるのだって以前にもあったことだと、フェイは話していた。

 セディオスだってわかっている。

 家で大人しく待っていればいいのだと。

 自分が今、とても無駄な行為をしていることを。

 けれど。


『じゃあね、セディオス』


 ふと、さようならと手を振った、母親の満面の笑みが蘇った。


「……」


 あの日セディオスは、嫌だと首を横に振った。

 全身で暴れた。あの頃は、身体も心も本当に子供だった。

 みっともなく涙をぼろぼろとこぼし、母に両手を差し出した。

 助けてと。


『お母さん……っお母さん……っ嫌だ、怖いよ……!』


 無理矢理荷車に乗せられる感覚、馬のいななき、遠くなる生家。

 金貨ばかりを見つめて、家に入って行く両親。

 もう二度とあんな思いはしたくない。耐えられない。

 セディオスはだから、誰も信用しないと決めた。ひとりで生きていこうと、決めた。


 けれど──師匠になってくれたシェリーは、いつだってやさしくて温かくて。

 いつの間にかセディオスはすっかり、彼女を好きになっていた。

 捨てられたくない、もう二度と。

 だから俺は、一流の魔術師になる。

 シェリーが自分をそばに置いておきたいと思えるような、手放したくなくなるような、そんな人間になるのだ。なりたい。


「先生……」


 なるから。

 だから帰ってきて欲しい。

 そう強く願った瞬間だった。


「あれ? セディオスくん?」


 辺りに、驚いたような声が響いた。

 それから、さくさくと雪を踏みしめる足音が近づいてくる。


「やっぱりセディオスくんだ……! どうしたの、こんなところで」


 怒ったような焦ったような顔をしたシェリーが、セディオスの前にかがんだ。元気そうだ。よかった、とセディオスは安堵する。


「先生が、遅かったから」


 呟けば、シェリーは一瞬息をのんだ。


「もしかして、迎えにきてくれたの? ひとりで?」


 頷けば、シェリーの顔が泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。そうしてすぐにぎゅうっときつく抱きしめられる。驚いたことに、渡したマフラーはまだ熱を持っていた。ひどく暖かい。


「ダメじゃない。こんな時間にひとりで外に出ちゃ。セディオスくん可愛いんだから誘拐されちゃうよ」

「……されませんよ」


 笑いながら、シェリーの胸の中で囁く。

 ハーブと土の混ざった、いい匂いがした。

 愛しかった。


「ごめんね。遅くなっちゃって、途中で迷子の子と会っちゃって、送ってたらこんな時間に」

「ダメですよ。そういう時は、ちゃんと連絡してくれなきゃ」


 セディオスはゆっくりとシェリーの胸から顔を上げた。そうして背を伸ばし、シェリーの頬に唇を寄せる。


「お帰りなさい」


 微笑んだセディオスの目と鼻の先で、目を丸くしたシェリーが「ただいま……」と掠れた声をあげた。


「今度遠くに行く時は、俺も連れていってくださいね。絶対に」

「……うん」

「頷きましたね、約束ですよ」


 セディオスは満足して「帰りましょう」と手袋に包まれた彼女の手を引いた。

 ざくりざくりと、踏み締めるように雪道を進む。

 家に着いたら、暖炉に火を灯そう。

 夕食も温め直して、遅い食事にありつく。

 そうして最後は、ふたりで一緒にあの小さなベッドで眠りにつくのだ。

 昨日は寒くてよく眠れなかったけれど、今夜はきっと大丈夫。


 束の間の幸せを、永遠にしてみせる。

 セディオスは途方もない望みを抱きながら、道の先にある小さな家を見つめた。


 どうか、ずっとここにいられますように。


 願わくば、終わりまで。


 輝く星々に、そう、願った。

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