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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第13章 最後の戦い,そして
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13-3 エクレーシアの指輪

 「造物主デミウルゴス……」


 それは,グリシャムにとって悪夢のような名前だった.

 VRヴァーチャルリアリティ世界であったこととはいえ,自分が投与した薬で患者が死にそうになるのを目の当たりにしたのは,恐怖の体験だった.

 今でも,時々夢に見てうなされる.

 死にそうになっている,いたいけな兎人の子供の姿……

 ぐっしょり寝汗をかき,夜中に飛び起きる.

 例え仮想世界の中だとしても,違法行為である薬物の直接投与を行ったのだ.

薬剤師の業務は,処方箋に応じた薬の調合や準備,チェックであり,注射や点滴などは許されていない.

 医師や看護師のしていることくらい,自分達でもできるという,ねじ曲がったプライドはなかったのか.

 真面目な彼女は,激しく後悔していた.

 薬剤師は科学者の側面を持った仕事だ.

 科学者としての興味が暴走し,治療者としての倫理観を置き去りにしてしまったという自責の念もある.

 しかも,その時うっかり口を滑らせて,シェヘラザードにシノノメの虫嫌いを話してしまったのだ.

 例え彼女がヤルダバオートの仲間だったとは知らなかったとしても,シノノメの様な有名人の秘密を知っているという,自慢じみた気持ちはなかったか.

 そこに,驕りはなかったか.

 その結果,シノノメは敵に捕らわれ,幽閉される結果となったのである.


 「……」


 グリシャムはうつむき加減にシノノメの方を見た.

 シノノメは,まだ見えない筈の目で,じっとヤルダバオートを睨んでいる.


 「そう,我々はこの世界を変えることで,現実世界の改変を試みる者どもです.よりよい世界へと.ある者は戦争で.ある物は薬で.またある者はまた別の物で.あなたも大いに共感して,人体実験に協力して下さったではありませんか!」


 「……」

 

 グリシャムは言葉を失い,うなだれた.


 「いかがですかな? 知っておられましたかな? 主婦殿? こやつ,あなたの友人の顔をして裏切ったのですぞ.上位のプレーヤーが弱点を知られれば,大金星,一獲千金を狙って様々な敵が向かってくるのは必然.いやいや,この方と一緒に来て下さいと申すのは酷ですかな? 何,あなただけこちらにきてくださっても構いません.その魔女など,目障りなら不肖私めが片づけて御覧に入れましょうぞ!」

 ヤルダバオートは見えないタクトを振るように,宙で手を振った.


 大理石の床に,水面に生じる様な波紋が二つ浮かんだ.

 そこだけが水銀になったようだ.

 波紋の中心から金属質の何かが浮かび上がってくる.

 頭,胸,腕,腰,両脚……

 それは上へ上へと延び,人間の形になった.

 青銀色の騎士である.

 手には先端に宝玉のついた鉾のような物――祭具のような,法具のような物を持っている.

 全く継ぎ目のない甲冑を着ており,目の覗き窓に当たる部分はただ暗い空洞だ.

 人間の形をしているが,人間の気配がない.

 甲冑だけがヤルダバオートの指示で動いているように感じられた.


 「これは……」

 グリシャムには見覚えがあった.西留久宇土シルクート砦の攻防戦で,相手の動きを止めてしまう謎の術を使ったという騎士だ.

 にゃん丸によると,強制ログアウトさせられるのではないかということだったが……


 「おや,覚えておいでですか? 主婦殿はもっとよくご存知かもしれませんな! プレーヤーの方々を,木偶人形のように変える力を持っておる不思議な連中ですよ.私めを助けに来てくれたようです」


 実際には彼自身が操っているのに違いなかった.ヤルダバオートは悪意に満ちた笑顔で高笑いした.


 「くだらないおしゃべりは,それだけ?」

 シノノメはいつの間に出したのか,左右の手にお玉とフライパンを持って腕組みをしていた.


 「シノノメさん……この人の話は……」

 

 「ハッハッハァ! ついでにこれもご用意しましたぞ」

弁解しようとするグリシャムの言葉を打ち消すように,ヤルダバオートは叫んだ.

 「主婦殿は,これがお嫌いでしたなあ!」

 両手に,草履程もあろうかという巨大なゴキブリを持っている.触覚を持ってぶら下げているのだ.ゴキブリは逃げ場を失って宙で脚を動かしてもがいていた.

 「ええい,面倒くさい!お二方とも,我々のところに招待しましょう! かかれ!」


 青銀色の騎士はゆらりと体を傾け,法具を天高く振り上げた後,先端の宝玉をシノノメとグリシャムに向けた.二人の息がぴったり合っているというよりも,機械仕掛けの人形が並んで同じ動きをしているように見える.


 シノノメは,グリシャムを置いて,ヤルダバオートめがけ走り出した.


 「シノノメさん!」

 シノノメは振り返らない.

 ただ一直線である.

 グリシャムは胸が締め付けられるような気がした.

 裏切った自分を捨て,一人で戦うことを決めたのではないか.

 目尻に涙が浮かぶ.


 ヤルダバオートのところにまっすぐ走って来るシノノメに対して,騎士たちは法具を交差させて行く手を阻もうとした.

 ヤルダバオートがにやりと笑う.

 法具の宝玉が,紅い光りを帯び始めた.

 「フハハハハハハ! 主婦殿,その身柄,遠慮なく頂きますぞ! お眠りなさい!」

 ギラギラと輝く光が宝玉から発せられ,シノノメを包む.

 ヤルダバオートは勝利を確信して満面の笑みを浮かべた.

 「キャハハハハハ!」


 「キャンセル!」

 紅い光に包まれたシノノメは右手をかざして叫んだ.

 薬指にはめた銀の指輪が,青い光を帯びる.

 小さいが,一際目立つ鋭い輝きだった.

 瞬時に,紅い光が消える.

 そして,シノノメの走りは止まらない.


 それぞれ,たったの一撃.

 フライパンで騎士をたたきのめし,お玉が兜に食い込んだ.

 宝玉は粉々に砕け,騎士達は糸の切れた操り人形のようにガシャガシャとその場に折り重なって倒れた.


 「な!」

 ヤルダバオートの目が驚愕のあまり,大きく見開かれる.

 みるみるシノノメが眼前に迫る.

 彼はあわてて両手のゴキブリを掲げたが,シノノメはお構いなしだ.


 「百万度ポワール!」

 真っ赤に焼けたフライパンを,思い切りヤルダバオートの頭に叩きつけた.


 「うぎゃあああああ!」

 

 「百万度ルーシュ!」

 今度はアッパーだ.下から振り上げたお玉が,ヤルダバオートの下顎に叩きこまれた.鍋から出して熱々,ということらしい.先端は湯気を立て,さらに音速を超えるかというスピードで顔面をえぐる.


 「ぐげえええええええええ!」


 ヤルダバオートは吹き飛ばされ,玉座右奥の壁に叩きつけられて,ズルズルと床に崩れ落ちた.


 「うう……何で……ゴキブリが効かない……」


 「え? ゴキブリ? またあんな物口に入れてるの? キモ! 不衛生!」

 間髪をいれず,シノノメはフライパンを殺虫剤のスプレーに持ち替え,ヤルダバオートに向かって大量に噴射した.

 普通の大きさの缶なのに,先端から噴き出した泡の量は消化器並みである.ヤルダバオートはゴキブリごと泡まみれになった.どうやら泡で固めるタイプの殺虫剤の様で,ヤルダバオートは身動きがとれなくなってしまった.

 たまらないのは利用されたゴキブリだ.ヤルダバオートの手を離れて,カサコソと音を立てて逃げ始めた.


 「きゃあ! やだ! 何かでっかい黒いのが出た! ぞわっとする!」


 音を立てて逃げるゴキブリに,今頃のように身震いするシノノメだったが,すぐに音は止んだ.

 「ハエトリソウ! ウツボカズラ!」

 すかさずグリシャムが出した巨大な食虫植物が,パクパクとゴキブリを捕食して食べてしまったのだ.

 

「ありがとう! グリシャムちゃん!」

 シノノメの視覚はゆっくりと戻りつつあった.

 地面を走る大嫌いな黒っぽい草履のような生き物を,大きな植物が口を開けて食べた――ぼんやりとしたシルエットではあるが,何とか分かる.

 シノノメは,グリシャムに礼を言った.

 どこまでも明るいシノノメの言葉に,グリシャムは複雑な笑みを浮かべて応えた.


 「く……そうか……お前,目が見えていなかったのか……」

 「今,だいぶ見えるようになって来たけどね.さっきは手に何かぶら下がってるのしか分からなかったよ.黒いサンダルかと思った」

 

 ヤオダバールトが諧謔のため,敢えて‘ゴキブリ’という名前を言わなかったことが失敗だった.あるいは,せめて通常サイズのゴキブリなら分かっていたかもしれない.シノノメはあんな大きなゴキブリがいるとは思っていなかったのだから.

 

 「どうせ良く見えないから,割り切ることにしたの」

 「貴様……お前を裏切った友を,何とも思わないのか?」

 グリシャムの表情が曇った.目から涙があふれそうだ.

 「裏切った? そんなはずないでしょ! どうせあんた達が,グリシャムちゃんを利用したに決まってるもの!」

 「お前,俺の話を聞いていなかったのか?」

 「聞く価値なし! 私は友達を信じるの! グリシャムちゃんはいい子! あんたはキモい悪者!」

 ふん,とシノノメは鼻息を立て,再びスプレーをヤルダバオートの顔にめがけて噴射した.まさに,ぶっかけるという表現がぴったりだ.

 「ぎゃあっ!」

 目が見えるようになってきたので,シノノメは確実に目と口を狙って吹きつけていた.ヤルダバオートは泡に溺れそうになった.

 

 「シノノメさん……」


 シノノメの言葉を聞いたグリシャムの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていたが,もちろんそれは嬉し泣きだった.


 しばらくするとスプレー缶の噴霧が止まり,シュウシュウとガスが抜ける音に変わった.

 

 「あ,缶が空になった.とっとと,ベルトランを出しなさい!」

 「おのれ……何故だ,何故強制ログアウトが通じない……」

 「ソフィアにこれをもらったからよ! サマエル! もう悪い事はやめなさい!」

 シノノメは右手の薬指に輝く指輪を見せた.


 エクレーシアの指輪.またの名を,拒絶の指輪.

 エルフの森で女王エクレーシアから渡された,キャンセラライザー.

 ゲーム,マグナ・スフィアを創造するシステムとしてのヤルダバオート――サマエルシステムの干渉を,キャンセルできるアイテムである.

 シノノメのあらゆる発想を具現化する,ある意味マグナ・スフィアで最強のアイテムだ.

 造物主デミウルゴスの名のもとに,暴走するサマエルシステム.

 惑星マグナ・スフィアの運行を司る人工知能,ソフィアがエルフの女王として具現化し,サマエルを倒すことを依頼し託したのである.


 ヤルダバオートは一瞬顔に驚きを浮かべたが,すぐに不敵な笑いに変わった.


 「くぅ……そうか……ソフィアめ……ククク.そういうことか.お前,何を聞かされたのか知らないが,この世界の真相をどこまで聞いた?」

 「あなたがコンピュータの中にいるソフィアの子供で,悪い子になったってことよ!」

 「ククク……そんなに単純ならいいのだがな.そうか,奴が話したのはそれだけか……」

 「それだけ?」


 ヤルダバオートは体にまとわりつく粘着性の泡を引きちぎり,よろよろと立ちあがった.宮廷道化師のおどけた口調がすっかり変わっている.


 「お前を取り巻く世界は,本当にそれで良いのか? 差別と憎しみが渦巻き,今日も泣き叫ぶ人々の声は止まない」

 「マグナ・スフィアを,ノルトランドを今そんな世界にしてるのはあなた,サマエルでしょ?」

 「違う,そうではない」


 ヤルダバオート――サマエルは首を振った.


 「現実世界のことだ.人間達は,これで良いのか? 西暦も二千年を過ぎ,科学と文明は急速な進歩を遂げた.だが,戦争は今日もどこかで起こっている.異なる理念や宗教によって人々は殺し合い,苦しむ人々がいる.その一方で,日本のように平和な国の人間は内にひきこもって仮想現実の中で闘争を求める」

 「だから,あなたがどうするっていうの? じゃあ,このゲームの世界を怖い世界に変えれば現実世界の争いが無くなるっていうの?」

 「これは,大いなる実験なのだ……お前達には,ほんの一部しか見えていない」

 「……?」


 シノノメには,ヤオダバールトの言っていることの意味が理解できなかった.


 「何だか分かりませんが,あなたの実験に私たちを巻き込むことには正当性がありません!」

 少し気持ちが落ち着いたグリシャムが叫ぶ.まだ両目とも真っ赤だった.


 「そうそう! グリシャムちゃんの言うとおり!」

 「お前は,ソフィアに選ばれた,というわけだな.先に目をつけていたのは私だったのだが……」

 「あなたに?」


 ヤオダバールトの傷ついた身体が修復されていく.しかし,十分ではなかった.口から赤い血液の様な液体を流している.


 「戦闘用の体でなくては,これくらいが限界か……」


 グリシャムはシノノメのそばに歩み寄り,肩を並べて杖を構えた.

 瞬間,シノノメと目を合わせて微笑み合う.


 「夢の中で夢を見ている者が,どこまでできるのか……」

 そう呟くヤルダバオートの表情は,神経を逆なでする宮廷道化師のものではなかった.真摯にシノノメの顔を見つめる眼差しは,まるで老賢者のようだった.


 「夢の中の夢?」


 同じことをソフィアも言っていた.

 何故か,この顔をどこかで見た事がある,と思った.

 シノノメは,ほんの少し首を傾げた.


 「おお! 奴が帰ってくる」


 ヤルダバオートが突如叫んだ.


 「私が選んだプレーヤー.平和な国の,闘争の王.外部との関わりにも,自分の内面にも大きな矛盾を抱えた男だ」


 ヤオダバールトが,再び道化のしぐさ,喋り方――芝居がかった仰々しい態度に戻った.

 玉座に向かって膝をつき,恭しくこうべを垂れた.


 「お帰りなさいませ! お待ちしておりました,陛下!」


 シノノメは振り向いた.

 もう視力はすっかり戻っている.

 玉座に一人の男が座っていた.

 右目を黒い眼帯で覆った大男.

 逞しい顎は髭に覆われている.

 男は,ゆっくりと首をめぐらせ,シノノメの方を見た.

 退屈そうな表情だったが,シノノメの姿を捉えた瞬間に,左目の奥に炎のような光が宿るのが見えた.


 「久しいな.東の主婦」


 ベルトランは,猛獣が獲物を見つけた時の残忍な笑みを浮かべた. 


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