16.吐く。
炊飯器のボタンを炊飯と誤って保温を押したが為にご飯がどうしようもない仕上がりになってしまった。
これはもう白飯として頂くには具合が悪いので、この残念なご飯は雑炊かリゾットにするとしても改めて炊き直すと夕飯の時間が遅くなる。雑炊かリゾットにするにしても、カレーにはやはり普通の白飯がいいので保存用のレトルトご飯を出して間に合わせの夕飯が仕上がった。
「珍しい失敗だね、何かぼんやりしてるように見えるよ」
レトルト特有のつやつやてかてかしたご飯をつつきながら切れ長の双眸が私を探る。
喧嘩の強い人というのは観察眼が鋭いに違いない。私は言わないつもりだった件を白状しよう。
「今日、会社にミソギ君のお母さんが来たの」
予想通りのミソギ君の渋面に小さく吹き出す。年頃の男の子だもの。母親が世話に知人の会社に現れたら嫌なものよね。……年頃でなくとも嫌か。
「何を言いに来たの、あの人」
「別に……。息子を預かる私を見定めに来たのと……」
「僕の押し売り?」
高校生とのお付き合いを進められたなんて言い出しにくいと語尾を濁らせていたら彼の方から察してくれた。私は肩を竦めて肯定した。
「よく分からないけど、年上の私でいいなんてミソギ君ち、余程跡継ぎ問題が深刻なの?」
「さあ」
その後、無言でカレーをつついて静かな夕食が終わる。
雪さんといい鮫島さんといい、真希といいどうしてこうミソギ君を推してくるのだろう。私はもとい、高校生のミソギ君の気持ちはどう思っているのだろう。
そう言えばミソギ君はどう思っているんだろう。
食後の片付けをしながら考える。
ミソギ君のおかしな負けず嫌いは心得ている。 酔っ払いの戯れ言を真に受けて恋愛で勝負をしている。私を彼に恋させて勝利する為に。私は自分の失言の責任を取っているに過ぎない。
――なんだかんだでこの生活も楽しいなとは思ってはいるんだけどね。それと恋愛は別だ。
ミソギ君はどう考えているんだろう。
本当に私達が恋に落ちるとか有り得るのか。もしミソギ君から告白なんてして来たら私は籠絡されたりするのだろうか。
……考えられないし考えたくもない。そもそも有り得ない。
茶碗を洗う手を止めて眉間を押さえる。
最近なんか駄目だ。すぐに頭が痛くなる。偏頭痛持ちではなかった筈なのにふとしたきっかけで眉間の辺りがズキズキするのだ。疲れ目?
ぼんやりしていたから、いつの間にか隣に立っていたミソギ君に気付くの遅れた。突然の気配にびくりとしたらミソギ君は眉ねを寄せて手を伸ばす。
「スバル、ホントにおかしいよ。具合が悪いんじゃないの?」
ヒヤリとした右手を額に当てられ、その気持ち良さについ目を細めた。
ミソギ君って低体温なんだ。
こんな風に触れる手は家族以外で味わった記憶がなく、心地良いと感じる反面、不意にピリッと胸に痛みが走る。
はっと目を見開いて真っ先にミソギ君と目が合うと急に怖くなった。
ああ、なんだろうこの感覚。
湧き上がる既視感に胃の底が捻り上がるように痛み出す。
『 』
耳元で囁かれたぞくりとした告白を聞いたのはいつの日だったか……。
なんて、反吐の出る。
「触るな」
自分でもぞっとする低い声に我に帰った。
ミソギ君が目を丸くしている。右手が不自然に上がっているのは私が同時に振り払ったからだ。
「スバル……?」
まるで捨てられた子猫みたいな瞳。
この子はこんな傷付いた顔を見せるのだと初めて知った。私がそうさせたんだ。
胸が痛い。
こんな顔なんてさせたくはないのに、謝りたいのに私の口からは気持ちとは裏腹な言葉が突いて出る。
「出て行って」
「スバル……?」
「もう無理。限界、駄目」
言ってしまうと止まらない。
「そもそも私が恋愛とかおかしいよ。どうして私が恋愛出来るの。私はこんなに、こんなに……」
言ってしまおうと思った言葉は後に続かず、込み上げた胃の残留物が逆流して来た。
後悔すると知りながらそのままシンクに吐き出し、洗いかけの食器類が吐瀉物に汚れる。
なんだか情けなくて泣けて来た。
どうして私はこんなにボロボロなのだろう。
……分からない。
分からないし、頭痛いし、胃も痛い、気持ちも悪い。
記憶があやふやな部分がある自身にはうっすら気付いている。その不安定さから来る苛立ちをミソギ君にぶつけているのだって分かっている。だけど止まらないのだ。
「出て行ってよ。ミソギ君がいると私、壊れそう……」
これは本心。心の奥底で私は彼の存在に怯えている。彼がいたら今まで守って来た私自身が暴かれそうで壊されそうな予感があるのだ。
ぐるぐると目が回り‘私’が体から引き剥がされそうな感覚に陥りそう。
掻き乱される。
こんなに苦しいなら捨ててしまおう。
「出て行って」
顔を見ないで繰り返す。もし傷付いた顔を見せられたら罪悪感が募るだけだ。怒る分には構わない。
「出てけよ!」
動きを感じない人の気配に俯きながら怒鳴る。こんな風に声を張り上げるなんて普段ないから喉が痛い。もしかして胃酸の影響もあるかな。
などと考えながら、掌突き出してミソギ君をその場から押し出そうと右手を上げると掠め取られてしまった。
そもそも物理的な危害を加えるには不利な相手だったと思い出し、もし殴られたらどうしようと急に怖くなって体が強張る。
「……殴るわけないでしょ」
ぽすんと私の頭はミソギ君の肩に押し付けられた。
私の考えてる事なんて筋肉の動きで分かるのか、心外だと言わんばかりに不機嫌な溜息が耳元を掠める。
「僕がスバルを殴るわけないよ」
そう言って触れるか触れないかで私の背中に添えられるミソギ君の手の感覚に、私は今、抱き締められているんだというのを知った。
まさかミソギ君がそんな技を見せるとは考えもしなかったから、泡食った私は反応に遅れる。振り払おうと思ったらその前に解放された。ミソギ君は先手が好きらしい。
離れた瞬間、うっかり彼の顔を見てしまった。
想像通り傷付いた顔をしていたミソギ君は、小さく笑って私の頭を優しく撫でる。
「殴るわけないよ。僕はスバルが好きなんだから」
――え?
今、なんて言った?
どんな意味で言ったの?
問いただそうにも口が動かず、ミソギ君によって洗面台に連れて行かれた。吐いたから口をすすげって意味だろうか。
促されるまま歯を磨いて間を空けると改めて聞き辛く、そのままミソギ君を無視して自室に閉じこもる。
壁越しに水や食器の触れる物音がしたけれど、気付いたら私の意識は落ちていて朝になったら私の粗相は綺麗に片されていた。
それから、ミソギ君の姿は何処にもなかった――……。