1話
「表だ!」
酒臭い声と一緒に銀貨が跳ね、木の卓を叩く音に歓声が重なった。
俺は空いた木杯を布で拭きながら、酒場の奥へ目をやった。髭面の男が卓の中央に転がった銀貨を拾い上げ、向かいに座る痩せた男へ見せつけるように笑っている。
「ほらな、俺の勝ちだ」
「もう一回だ。今度は裏に賭ける」
負けた男は銀貨ではなく、次に出す銅貨を探していた。
前の世界で、俺はカジノのディーラーをしていた。
だから分かる。
勝った客は金を見るが、負けた客は卓を見る。
失った額より、次にどう取り戻すかを考え始めれば、人間の目はそう簡単に勝負の場から離れない。剣を腰に下げた男が酒を飲み、杖を持った女が隣の卓で食事をしている世界でも、その辺りは驚くほど変わらなかった。
「レン! 皿が溜まってるぞ!」
厨房から飛んできた声に、俺は視線を戻した。
「今持っていきます」
「口より手を動かせ!」
この酒場の主人、バルガンは口が悪い。
もっとも、三日前に町外れで倒れていた俺を拾い、身元も金もないと知った上で飯と寝床を与えてくれた男でもある。働かせ方が多少荒くても、文句を言える立場ではなかった。
この世界へ来て三日。
何がどうしてこうなったのかは、いまだによく分からない。
分かったのは、俺には剣の才能もなければ、手をかざして火球を飛ばすような都合のいい力もないらしいということだけだった。
なら、前の世界で覚えたもので食っていくしかない。
問題は、その前職がカジノディーラーだったことだ。
カジノも、ディーラーも、ブラックジャックもルーレットも、この世界では誰にも通じなかった。
賭け事そのものはある。
サイコロ、闘技場、魔獣を走らせる競走、それに目の前の硬貨投げ。ただし、俺が知っている賭場とはずいぶん違う。
「おい、今のはなしだろ!」
「何がだよ!」
「落ちる前に触ったじゃねえか!」
「触ってねえ!」
さっきまで笑っていた二人が、もう立ち上がっていた。
判定役はいない。胴元もいない。遊び方も、その場にいる連中がなんとなく共有しているだけ。
酒が入った男同士でやれば、揉めるのは当然だった。
俺は運んでいた皿を近くの卓へ置いた。
「投げる人間と賭ける人間を分けた方がいいですよ」
二人がこちらを見る。
「あ?」
「投げた本人が勝敗に関わるから揉めるんです。賭けない人間が硬貨を投げて、判定もそいつに任せればいい」
「誰がそんなことやるんだ?」
「俺でよければ」
言ったところで、厨房から視線を感じた。
バルガンが腕を組んでいる。
「レン」
「三回だけです」
「まだ何も言ってねえぞ」
「顔に書いてあります」
「終わったら皿を全部片づけろ」
「もちろん」
許可は出たらしい。
俺は髭面の男から銀貨を受け取り、親指に乗せた。日本の硬貨より厚く、縁も少し歪んでいる。
「表と裏、どちらに?」
「俺は表」
「じゃあ裏だ」
銀貨を弾く。
ランプの光を受けて回転しながら落ちてきたそれを右手で受け、左手の甲へ伏せる。
さっきまで騒いでいた男たちが黙った。
金が乗れば、銀貨一枚でも人間は息を止める。
手を外す。
「裏です」
「よし!」
「くそっ」
今度は揉めなかった。
二回目、三回目と続けるうちに、人が集まってきた。
「俺もやりたい」
「こっちも混ぜろよ」
「銀貨でもいいか?」
人数が増えれば、硬貨投げでは面倒になる。
どうせなら、もう少しまともな遊びにした方がいい。
「バルガンさん。薄い木札、余ってません?」
「何に使う」
「客を増やします」
バルガンは俺ではなく、卓の周囲を見た。
十人近い客が集まり、そのうち半分は追加の酒まで注文している。
「薪置き場の端材ならある」
「借ります」
裏へ回り、薄い木片を何枚か拾った。
紙が安ければカードを作るところだが、この世界では羊皮紙ですら気軽に遊びへ使える値段ではない。なら、木でいい。
数字を書き、いくつかの札を揃える。
厚さも形もばらばらで、前の職場なら一枚残らず廃棄だろう。
だが、ここでは誰も本物のカードを知らない。
「何するんだ?」
「札の数字を足して、二十一に近い方が勝ちです。ただし、超えたらその時点で負け」
「それだけか?」
「まずはそれだけです」
髭面の男と痩せた男が向かい合い、銅貨を五枚ずつ置いた。
俺は札を混ぜる。
木札は滑りが悪く、手触りも最悪だったが、扱えないほどではない。
一枚ずつ配った。
髭面が十二。
痩せた男が十四。
「もう一枚」
髭面に六。
十八。
痩せた男は自分の札を見ながら眉を寄せた。
「俺も引く」
「十四ならやめた方がよくねえか?」
野次馬が口を挟む。
「うるせえ。二十一までいけるんだろ?」
俺は次の札を渡した。
八。
十四と合わせて二十二。
男はしばらく札を見たあと、俺を見上げた。
「一だけ多いぞ」
「一でも超えたら負けです」
「二十二の方が十八より強そうじゃねえか」
「そういうルールなので」
周囲から笑いが起きた。
本人も苦笑しながら、すぐに銅貨を出す。
「もう一回」
その後も似たような勝負が続いた。
勝った客は酒を頼み、負けた客も酒を頼む。見物だけしていた連中まで席を離れなくなり、いつの間にか厨房から運ばれる料理の数まで増えていた。
「おい、レン」
バルガンが俺を呼んだ。
「何です?」
「お前が始めてから、酒がいつもの倍近く出てる」
「でしょうね」
「でしょうね、じゃねえよ」
バルガンは卓の上を見た。
「これ、毎晩できるか?」
少し考える。
皿を洗えば、今日の飯には困らない。
薪を割れば、今夜も倉庫の隅で眠れる。
それでも、自分の知っているものがこの世界でも金になるなら、拾われた男のままでいる必要はない。
「卓を一つ貸してくれませんか」
「何する気だ?」
「俺がこの遊びを回します。客からは金を取らない。その代わり、ここで増えた酒と料理の売上から一割ください」
「高えよ」
「じゃあ五分」
「下げるの早すぎねえか?」
「交渉なので」
バルガンは鼻を鳴らした。
「四分だ」
「それで」
「即決かよ」
「十分です」
怪訝な顔をされたが、四分でも今の俺にとっては立派な収入になる。
前の世界では、どれだけ大きな金が卓の上を動いても、それは店の売上だった。俺は決められたルールに従い、決められた席でカードを配るだけ。
ここには、まだ店もなければルールもない。
なら、自分で作ればいい。
「今日の分から払うからな」
「助かります」
その夜、初めてこの世界で俺の知識が金に変わった。
大した額ではない。
それでも、皿洗いの日当とは意味が違った。
俺が場を作り、人を座らせ、客がそこに金と時間を使った結果として生まれた取り分だった。
悪くない。
そう思ったところで、酒場の扉が開いた。
入ってきたのは、白銀の鎧を身につけた若い男だった。
肩口には細かな傷があり、腰の剣も飾り物には見えない。その後ろには神官服の女、青い外套の魔術師、それに大剣を背負った大男が続く。
店内の空気が少し変わった。
「勇者様だ」
「アルベルト様じゃないか」
あちこちから声が上がる。
この世界で勇者がどの程度偉いのか、俺はまだよく知らない。ただ、店にいる人間のほとんどが顔を知っている程度には有名人らしい。
アルベルトと呼ばれた青年は、酒ではなく俺の卓を見た。
「何やってるんだ?」
近くにいた客が得意げに説明する。
「新しい賭け遊びですよ。札の数字を二十一に近づけるんです」
「へえ」
アルベルトが近づいてくる。
「アルベルト」
後ろの神官服の女が、早くも嫌そうな顔をした。
「やめておきなさい。あなた、こういう勝負になるとすぐ熱くなるでしょう」
「見るだけだよ」
「この前もそう言って、闘技場で銀貨三十枚なくしたでしょう」
「あれは剣闘士の調子が悪かっただけだ」
そう言いながら、本人は空いた椅子を見ている。
闘技場で負けた理由を、自分が賭けたことではなく剣闘士に求める。
止められても席から目を離さない。
前の世界でも、よく見た種類の客だった。
「ここ、座っていいのか?」
「どうぞ」
「一回だけやってみたい」
神官服の女が深いため息をつく。
俺は木札を集めながら尋ねた。
「賭け金は?」
アルベルトは懐から銀貨を一枚出し、卓へ置いた。
「これで」
銀貨が木に触れ、乾いた音を立てた。
周囲がざわつく。
それまで銅貨数枚で遊んでいた卓に、いきなり銀貨が置かれたのだから当然だった。
向かいに座っていた髭面の男も一瞬ひるんだが、周囲から銅貨を借りて同額を揃えた。
「ルールは?」
「最初に札を二枚。合計が二十一に近い方が勝ちです。途中で追加してもいい。ただし、二十一を超えたら負け」
「分かった」
一枚目。
アルベルトは九。
二枚目は十二。
合計二十一。
一瞬遅れて、卓の周囲から歓声が上がった。
「いきなり二十一だ!」
「勇者様、すげえ!」
向かいの男は十六。
勝負にならない。
俺が勝敗を告げると、卓の中央に積まれた金がアルベルトの前へ移った。
銀貨一枚が、ほんの数分で二枚になった。
アルベルトはそれを見下ろし、口元を緩める。
「なんだ。俺、こういうの向いてるかもしれないな」
「たった一回でしょう!」
神官服の女がすぐに言い返した。
アルベルトは笑いながら、勝った銀貨のうち一枚を指先で転がす。
そのまま懐へ戻すのかと思ったが、銀貨は再び卓の中央へ置かれた。
「もう一回」
「一回だけって言ったでしょう!」
「今のはルールを覚えるための一回だよ」
俺は何も言わず、散らばった木札を集めた。
まだ粗末な木の卓で、カードですらない木片を使った遊びにすぎない。
それでも、勇者はもう席を立たなかった。
「では、次の勝負を始めます」




