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第20話 夜・仕事のできる女と母の顔

部屋に戻ったら、もうヘトヘト。全身の力が抜ける。


「疲れた……でも、いいデータ撮れた!最高のデータ!プロ級!」


ボトル子に報告。枕元から持ってきて、目の前に掲げる。


「ねえボトル子!今日もすごかったよ!超すごかった!」


「巨大な目玉を撮影したんだ!ドルシックナーっていうんだけど、知ってる?」


ボトル子は笑ってる。


「知らないよね、私も1週間前は知らなかったし。でもね、すごいんだよ。本当に目玉みたいなの」


まずシャワー。汗と砂を洗い流す。


「あー気持ちいい!生き返る!人間に戻る!」


今日も石炭の粉で真っ黒。手も、足も、顔も。


「爪の間も真っ黒……どんだけ触ったんだ私……ゴシゴシ……」


「あっ!滑った!」


拾って、今度は慎重に。両手でしっかり持つ。


「よし……落とさない……」


「痛っ!もう!毎日恒例!デイリーミッション達成!」


でももう慣れた。驚きもしない。すぐに水で流す。


シャワーから出て、タオルで髪を拭きながら、タッチパネルで夕食注文。今日は煮魚定食。


「やった!煮魚だ!和食!日本の心!」


ウィーン、という音と共に、煮魚定食が出てくる。煮魚、ご飯、味噌汁、小鉢。


湯気が立ち上る。醤油の匂い。生姜の匂い。


温かい匂い。


でも、この部屋は相変わらず、よそよそしい。


PCの隅に、毎日の業務報告の入力欄がある。今日の進捗と、コメント。私はコメント欄に、いつもの一言を打ち込んだ。


『今日も、部屋がよそよそしいです』


カメラの調子とか、撮影枚数とか、書くことは他にもあるのに。なぜか毎日、これを書いてしまう。誰が読むのかも分からないのに。


「お魚の優しい味が染みる~。おばあちゃんの煮魚思い出すな。『ユイ、たくさん食べなさい』って言ってくれたな」


箸で魚の身をほぐす。ふっくらしてる。柔らかい。お箸がスッと入る。


「美味しい……」


一口食べて、ご飯も一口。


「ご飯が進む~。おかわりしたい~」


必死で取ろうとするけど取れない。喉の奥に刺さってる。


「もう!なんで魚には骨があるの!進化の過程で骨なくならなかったの!」


舌で探って、指で引っ張る。でも取れない。


「取れない……痛い……マジで痛い……」


格闘すること5分。ご飯を丸呑みして、やっと取れた。


「ふう……やっと……地味に痛かった……」


「魚は美味しいけど、骨が大変……トレードオフ……」


残りを慎重に食べる。もう骨に当たりたくない。一口一口、確認しながら。


「小骨ないかな……大丈夫かな……よし、食べよう……」


慎重に、慎重に。


食事を終えて、ほっと一息。


「ごちそうさまでした……おばあちゃん、美味しかったよ……」


残高34,650円。順調に減ってる。でも、問題ない。計算通り。


PCの前に座る。ボトル子を隣に置く。一緒に作業する気分。


「よし、記憶の紡績メモリー・スピニング、スタート!」


2700枚の写真をPCに取り込む。転送に20分。今日は枚数が多い。


「待ってる間、お菓子でも……」


ポテチをボリボリ。塩味が疲れた体に染みる。


「あ、食べられないか。ごめんね」


一人で食べる。サクサク、サクサク。


「美味しい……でも、誰かと食べたいな……分け合いながら食べたいな……」


ミカと一緒にポテチ食べながら映画見たこと思い出す。ミカ、いつも「最後の一枚ちょうだい」って言ってた。「自分で買いなよ!」って言っても、「ユイのが美味しいんだもん」って。笑いながら、最後の一枚あげてた。


「また一緒に食べたいな……ミカ……元気かな……」


転送完了。RealityScan起動。画面が立ち上がる。


「よし、行くよボトル子!見ててね!」


Align Images実行。処理開始。プログレスバーがゆっくり進む。


部屋の換気扇が、低く回ってる。ヴーーーン。PCのファンも唸ってる。ブゥゥゥン。


「20分くらいかかるって……長い……」


「直径20mの巨大な円形で、中に放射状の仕切りがあるの。何本も」


「上から見ると、目玉みたいに見えるんだ。本当に目玉」


「不思議でしょ?芸術でしょ?」


ボトル子は笑ってる。


「そうだよね、不思議だよね。私もそう思う」


ピコン。処理完了の音。


画面に現れた点群。白い点の集まり。


「おお!完璧!バッチリ!」


ドルシックナーの形がはっきり分かる。円形、放射状の仕切り。細部まで。


「見て、ボトル子!できた!点群ができた!」


Create Model実行。また処理。プログレスバーが進む。30分待つ。長い。


待ってる間、解説資料を読む。炭鉱で働く人の家族のこと。


「夫が地下1000mで働いてるって、奥さんはどんな気持ち?」


「毎日無事を祈ってたんだろうな。『今日も無事に帰ってきて』って」


お母さんの顔が浮かぶ。私のお母さん。パートで疲れてても、笑顔で「おかえり」って言ってくれる。


お母さん、私、今どうしてるか知ってる?


ここで、一人で、頑張ってるよ。——『頑張ってる』。生まれて初めてかも、この言葉を自分に使うの。


東京にいた私は、何にも頑張ってなかった。空っぽで、ただ流されてた。なのに今、この島で、誰に見られてるわけでもないのに、必死で建物を撮ってる。錆びた手すり一本に、夢中になってる。


なんでだろう。ここには、私の『すごいね』を聞いてくれるミカもいないのに。


「……でも、嫌いじゃないかも。こういう私」


ピコン。処理完了。


灰色の3Dモデル。まだテクスチャなし。でも形は完璧。


「よし、次!どんどん行くよ!」


Simplify、Unwrap、Texture。もう慣れた。手順を覚えた。サクサク進む。プロの仕事。


「ボトル子、私、もうプロみたいでしょ?フォトグラメトリのプロ。エキスパート」


初日とは、全然違う。


成長してる。確実に成長してる。


でも、寂しさも成長してる。


最後のTexture処理。80分待つ。もう日付が変わりそう。


待ってる間、ボトル子を手に取る。プラスチックの、ひんやりとした感触。


「ボトル子、いつもありがとうね。いつも一緒にいてくれて」


「一人じゃないって思える。それだけで、頑張れる」


ピコン。完成の音。


画面に現れたのは、完璧なドルシックナーの3Dモデル。


「すごい……完璧……これ以上ないくらい完璧……」


マウスでグルグル回す。どの角度から見ても、完璧。


「放射状の仕切りもバッチリ!一本一本!」


「本当に目玉みたい!生きてるみたい!」


「コンクリートの質感も!風化した感じも!全部!」


上から見る。真上から。


「うわー!本当に目玉だ!瞳だ!虹彩だ!」


拳を握りしめる。ガッツポーズ。


「よし、今日の私は仕事できる女!デキる女!プロフェッショナル!」


「そうだよね、すごいよね!私、天才かも!いや、努力の天才!」


選炭施設の他の部分の3Dモデルも完璧。ベルトコンベアの支柱、31号棟の穴、ボタ捨て場の跡。全部。


「全部記録できた……全部残せた……」


完成した3Dモデルを見つめる。画面に映る、デジタルの世界に蘇った過去。


「時間の化石タイム・フォッシルだ……」


「炭鉱で働いた人たち……家族を支えたお母さんたち……」


「みんなの記憶が、ここに残ってる。デジタルの世界で、永遠に」


考えて、試して、失敗して、乗り越えた。初日からずっと。


「私、成長してる。確実に成長してる」


その瞬間――


足首が猛烈に痒い。突然来る、あの感覚。


「痒っ!なにこれ!また!またまた!」


見ると赤くぷっくり腫れてる。蚊に刺された跡。いや、蚊じゃないかも。もっと凶悪な虫。


「スプレーしたのに!ここの虫、最強すぎ!進化しすぎ!スーパー虫!ムテキング!」


掻きむしりたいけど我慢。両手で太ももを掴む。


「掻いちゃダメ、掻いちゃダメ……掻いたら悪化する……我慢……我慢……」


でも痒い。めちゃくちゃ痒い。


「ダメだ、我慢できない!限界!」


結局掻いちゃう。ガリガリガリ。


「あー!掻いちゃった!意志弱い!自制心ゼロ!」


ボトル子に謝る。申し訳なさそうに。


「ごめん、ボトル子。我慢できなかった……私、ダメな子……」


【残り日数:24日】


画面の右上の赤い数字。冷たく光る。


カウントダウンの数字を見る。じっと見つめる。


「24日……もう1週間近く経ったんだ。6日間……」


「6日間で6カ所……順調……計算してみよう……えーと……30日で30カ所?いや、違う……まあいいや。計算苦手」


「でも、なんとかなりそう。絶対なんとかなる」


本当に?


「今日は選炭施設を記録できた」


「ドルシックナーの目玉も。完璧に」


「私、歴史的な仕事してる。文化財保護。デジタルアーカイブ」


「そうだよね、私、頑張ってるよね。すごいよね」


ベッドに入る前に、ボトル子を枕元に置く。いつもの場所。


「おやすみ、ボトル子」


「明日も一緒に頑張ろうね。ずっと一緒」


今日も一人じゃなかった。


ボトル子がいた。


それだけで、心が温かい。寂しくない。


少しだけ。


「おやすみなさい……また明日……」


目を閉じる。


暗闇の中、ボトル子の笑顔がぼんやり見える。


いつも同じ笑顔。


変わらない笑顔。


それが、怖い時もある。


でも、それが、安心する。


明日も、頑張ろう。ボトル子と一緒に。静寂が、部屋を包む。


電気を消して、ベッドに入って、ふと窓の方を見た時だった。


グラウンドの上を、細い緑色の光の筋が、すうっと横切った。


「……え?」


一瞬だった。瞬きしたら、もう、ない。ただの真っ暗なグラウンドが広がってるだけ。


「……目の疲れだ。うん、目の疲れ」


最近、画面見すぎだもん。明日はホットタオルしよう。そうしよう。


布団を、頭までかぶった。

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