25 音楽を聞くときは静かにしよう 後
谷口の仕事は事務がメイン。
だが、血生臭い仕事に関わっているだけあって、常人よりもはるかに鍛えている。
元々の巨体と、鍛えられた身体。
格闘技なんかは素人同然だが、それでも十分に強い。
そんな谷口が怪物になっているのだから、間違いなくオレにとっても脅威だろう。
…………手抜きしてる場合じゃないな。
殺すだけならこのままでもなんとかできる。
だが、もし、谷口を元に戻せる可能性があるなら。
オレは殺さずに倒すために、手を抜くことはできない。
敵に監視されてるんだろうけどな……。でも、そんなことは今はどうでもいい。
出し惜しみは無しだ。
「きょいよ」
「来いよ」と言ったつもりだが、締まらないな。
オレは赤鬼に向かって笑いかける。挑発的な笑み。
発音は怪しかったが態度から意図は伝わったらしく、赤鬼の表情が変わった。
あちらも覚悟を決めたらしい。
赤鬼が構える。
オレに向かって、駆けだすために。
十分な間合いがあったはずだが、赤鬼のスピードは驚異的だった。
本当に一瞬だった。
赤鬼が地面を蹴りると同時に、オレの頭目掛けて巨大な岩塊のような拳が振り下ろされた。
巨体の重さを全て乗せたような拳だ。
さて、オレも全力だ。
オレは短く息を吐いた。
オレは、振り下ろされた赤鬼の拳を、振り上げた右腕で止めた。
ミシリと、オレの骨が音を立てる。
だが、折れたりはしない。
オレは抑えていたものを開放する。
それはいつもオレの中で暴れているもの。
オレが嫌いなもの。憎んでいるもの。
それがオレの身体を変質させていく。
人間から、バケモノへと。
身体を駆け巡る力が、オレを強化する。
たかが赤鬼の拳なんかで、傷一つつかない。
へその下あたりから脳天まで熱いものが駆け上がっていく。
この瞬間が気持ちいのが逆に気に食わない。悪いものってのは、だいたい気持ち良いもんだからな。
いつだってこの快楽が、オレをバケモノとして生きる道へ引きずり込もうとしている。
誰がそんな生き方してやるかよ!
ミシリと背骨が鳴る。
身体が作り変えられる。
赤鬼の追撃が来る。
拳を留められたことに動揺すらせず、もう一方の拳をオレの顔面に叩き込もうとする。
オレはそれを左手で手首を握って止めた。
「よう、谷口。オレもバケモノなんだぜ?」
舌が復活し、滑らかに話すことができた。
赤鬼の手首を掴んだ左手は、びっしりと獣毛に覆われていた。
白く、黒い縞模様の獣毛。
指先には鋭い爪。
視界が切り替わる。
人間の視界から、獲物を狙うための獣の視界へ。
オレの瞳は今、赤く輝いていることだろう。
人虎。
オレはそう呼ばれているバケモノだった。
それも白い虎、ホワイトタイガーの人虎だ。
白い人虎が珍しいのかどうかなんて知らない。そもそもオレはオレ以外の人虎に出会ったことはない。
オレは、オレが知る限り、ただ一つの存在だ。
あのクソ親父も、死んだ母さんも人虎の血筋ではあったらしい。だがそれは劣性遺伝で、その性質が発現したのはオレだけだ。
仲間が存在するのかすら、オレは知らない。
虎児……オレの名は、小虎の姿で生まれたオレに対しての、クソ親父の最悪のブラックジョークだったのだろう。
オレは肉体の変化を人型で止める。
オレ自身が半獣化と呼んでいる姿だ。
今のオレは二本足で直立する虎のバケモノ。
肉食獣の強力な筋肉が支える二メートル超えの巨体は、人間のシルエットを保ちつつも分厚く白い毛皮に覆われている。
牙の並んだ前に迫り出した口に頭の上に移動した耳は、虎の頭そのものだ。人間にはありえない、蛇のようにうねる尾。
人間と虎の特徴を兼ね備えた、不自然で、強力なバケモノだった。
人間と虎の特徴の良いところ取りをしているせいで、完全な四足の獣の姿よりはパワーはない。
だが、赤鬼を抑えるには器用に手足が使えるこの姿が一番適している。
「谷口、お前、人の意識あるのか?」
オレは赤鬼の腕を掴み抑えたまま、問いかけた。
肉体を変化させたオレは再生能力も高められている。
噛み切られた舌を治すくらいは一瞬で治る。発音もばっちりだ。
完全な人間体のオレでもそこそこ強力な再生能力がある。
まあ、今は半月にも満たない時期だから、最盛期よりは弱いが。それでも、抉られた肉が数時間でキレイに再生するくらいには常人離れしている。
オレの生理は月の満ち欠けに影響される。
新月だと鍛えた人間程度の力しか出せないし、獣化も出来なくなる。
逆に満月だと人間の姿でも常に獣化してる時と力は変わらない。
その代わりに、人間の姿でい続けることに苦痛を感じてしまう。
満月で人間の姿でいるのは射精を寸止めしてるような、解放の快楽を抑えこむ苦痛と言って理解してもらえるだろうか?
いや、マジでそれくらい苦痛なんだよ。
どうして月の満ち欠けに影響を受けるのかはオレ自身よくわからない。昔からそうなんだから、仕方ない。
映画の中の狼男みたいに月を見たら無条件に変身なんて極端な影響じゃなく、オレ自身で抑え込める程度だからマシだって思うことにしている。
まあ、呪いみたいなもんだろ。オレの身体は呪われてる。
オレの正体が人虎だということを知っているのはクソ親父と、他は数人だけだ。
「谷口!」
オレは呼びかけるが、赤鬼はオレの手から逃れようと藻掻くだけだ。
意識は残っていないのか?無理なんだろうか?
だが、元に戻せる一縷の希望に縋って、オレはこのまま無力化する選択しかできない。
ぴんぽんぱんぽん~~。
突然、軽快な鉄琴?木琴?……とにかく、ありがちな放送開始を知らせる音と共に館内放送が鳴り始めた。
赤鬼を押さえ付けてたオレは、その軽い響きに力が抜けそうになる。
「なんだよ?」
間が悪すぎる。
思わずスピーカーがどこにあるのか探してしまうが、上手く隠されているらしく目につく位置にはない。
「ただいまより、オープニングレセプションの目玉である、アルモニカ演奏のリハーサルが行われます。今はダム湖の底になってしまった村で発見された貴重なアルモニカを、世界で数十人しかいないプロのアルモニカ奏者の一人、ヒロコ・フランクリン氏に演奏していただきます。今回はオーナーとフランクリン氏のご厚意により特別にそのリハーサルをホテル全体に放送さていただきます。素晴らしい音楽をお聞きいただき、明日からの多忙な日々を乗り切るための英気を養ってください」
ちょっとたどたどしいアナウンスが流れた。
なるほど、あの初日にロビーで見かけた変なガラスオブジェみたいな楽器が演奏されるのか。
館内放送で流すなんて粋なことするな。
ただ、オレは今、そんなのを悠長に聞いてる場合じゃない。
音楽が流れ始める。
空気に染みわたる様な、澄んだ不思議な音だ。
管楽器に弦楽器にも似てない不思議な音だった。
幻想的で、それでいてホラー風味で、スッキリとして心地いい。……なんて、グルメレポート並みの表現ができそうな音だな。
どことなく、スピーカーのハウリング音を思わせる。
不快感と快感のギリギリの境目で、快感を感じさせるような音だ。
時々、虫の音のような蚊の羽音のような音が混ざるのは、演奏ミスなのかそういう演出なのか?
なるほど、こんな音がする楽器なのか。もっとガラスを叩いたようなガチャガチャした音がするもんだと思ってた。
「うお!??」
赤鬼が急に激しく暴れ出した。
今まで力比べの様になっていたのに、無茶苦茶な動きを始める。
「ぐおおおぁぁ……」
吠える声も苦しそうだ。
なんだ?音楽に反応してる?
「おっと」
赤鬼は掴まれている腕を振りほどこうと、オレの腹に蹴りまで入れやがった。
オレは少し体勢を崩す。
赤鬼の攻撃が効いたわけじゃない。不意に足に力が入らなくなったからだ。
今日の月は半月にもなっていない。
本性を出しても、大量に流した血を補いきれなかったらしい。こりゃ、長引くとキツイな。
早急に決着をつけるか。
オレは暴れる赤鬼の拳を避けながら、背後に回る。
赤鬼を……谷口を無力化しないといけない。
無力化するのに一番良いのは、気絶させることだ。
オレは背後から赤鬼の首に腕を回し、力を込めた。
太い首だな。
筋肉でしっかりと覆われていて、上手く頸動脈だけ圧迫できているのか分からない。だが、緩く締めたらそれこそ意味がない。
強く締めすぎて気管まで締まって窒息死したら……スマン、その時は運が悪かったと思って欲しい。オレができる手加減の限界だ。
殴って気絶させるとか出来ればいいんだが、そっちの方が殺しかねない。
オレがやってるのはいわゆる絞め技だ。
首を完全に絞めて窒息させる絞め技ではなく、頸動脈の圧迫で失神させる方だ。
柔道が有名だが、色々な格闘技に存在している。
頸動脈を圧迫すると、血液を送り出している心臓側の圧力が増しす。
そうすると、血流を管理している神経が脳の血圧が急激に増したと判断して、全身の血圧を下げるらしい。
すると、脳に送られる血液の量が少なくなって脳が酸欠になり気絶する……って教えられた。
単純に血管を絞めてるから脳に血が送られなくなるって話じゃないらしいんだよな。
人間の身体って不思議だ。
そんなことを考えながら暴れる赤鬼の首を絞めて数十秒後、やっと抵抗が止んだ。
ダラリと、赤鬼の全身の力が抜ける。落ちたか。
気絶したら元に戻るとか都合の良い設定があればいいんだが、赤鬼の姿はそのままだ。
首に回した腕を少し緩めて脈を確認してから、赤鬼の呼吸を確かめる。
うん、ちゃんと息はしているな。
意識を失ってるだけだからすぐに復活してくるだろう。
また何かで縛って芋虫にしておくか。彼とやらの仲間がどこかで監視してオレが離れた途端に復帰させるかもしれないが、何もしないより良いだろ。
まだ音楽の放送は続いている。
「この音楽が関りがありそうだ……」
赤鬼はこの放送を聞いて暴れ始めた。
音楽自体は普通の物でも、聞いた者たちに何らかの行動をさせる鍵になっている可能性がある。
麻衣子さんが舌を噛み切った時のように。
あれはオレとのキスが鍵で、行動の条件になっていた。
「襲撃開始の合図みたいなもんかなぁ?」
オレは呑気に呟くと、長い舌で鼻先を舐めた。
麻衣子さんは一時間後に襲撃が始まり、ホテルの人間が皆殺しにされると言っていた。
オレの考えが正しいなら、今頃ホテル全体で地獄絵図が展開されているのだろう。
襲撃され、逃げ惑う人々。
泣こうが、悲鳴を上げようが、無残にもその身体は引き裂かれて血を流す。
むせ返る、血の匂い。
「……楽しみだ……」
そう呟いてから、オレは虎頭の鼻先に盛大に皺を寄せる。
自分の呟きに嫌悪した。
「くそっ」
獣化しているとダメだ。獣の思考に引っ張られる。
オレは身体を人間に戻した。
途端に、閉塞感と背徳感が押し寄せた。
それはオレの本性が獣であり、偽って人間の姿を保っているために感じているものなのだろう。
オレは頭を軽く振り、その嫌な感覚を頭の隅に追いやった。
視界の端でオレの白い髪が揺れている。
人間になっても消えない、オレが白い獣である証。
「ふう……」
軽く息を吐くと、急激な疲労感が身体を襲った。
身体に傷はない。すべて、人虎としての本性を出した時に治っている。
獣化で底上げした体力と治癒力が人間になって失われ、その落差で不調が強調されてしまっているのだ。
オレは立っていられなくなり、床に膝を付いた。
少し耐えれば獣化前の状態くらいには戻るだろう。
だが、血が足りないのは補いきれない。足りない血を増やすには、材料が必要だ。
「何か食って、エネルギー補給をしないと無理か」
このままじゃ、倒れる。
死にはしないが、しばらくは動けなくなる。
今はまだ、倒れるわけにはいかない。
オレは、この事件に最後まで関わると決めたのだから。




