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23 浴場のお湯を汚さない 後

 情報収集するための切っ掛けになればと言ったつもりだったのに、本当に最後の思い出作りになりそうだな。

 こんなことやってる場合じゃないだろうけど、今更やめるわけにもいかないか。

 麻衣子さんが言ったことが正しければ、一時間あるはずだしな。


 急激な痛みが走った。

 予想外の痛みに、オレの頭は混乱する。


 「カハッ」


 吐き出した息に、喉が嫌な音を立てた。


 その痛みの場所が舌だと理解できた頃には、もう口の中は血であふれていた。


 舌の動きに意識を集中していたせいで、押し寄せる痛みから逃げきれない。

 気を失いそううになるのを奥歯を噛みしめ必死に抑え込む。

 口の中全てが焼き切られたような苦痛で血圧が上がり、熱くなった脳に視界がぼやける。


 口の中であふれた血が、喉の奥から鼻へと逆流する。

 喉が詰まりかける。口の中の何かがオレの喉を塞ごうとしている。


 歯を食いしばって痛みに耐えてるのに、口を開けなきゃ窒息なんて、シャレにならない状況だな。


 無理やり口に自分の指を突っ込み、歯をこじ開ける。

 ゴボリと口から血が溢れ出た。


 そのまま指で口の中の物を掻き出して、吐き出した。

 肉の塊がオレの口から零れ落ちた。

 ぼやけた視界の端で、オレはそれが何なのか確認する。


 舌だな……。


 くそ、噛み切られたか。

 舌を絡めている時に、オレの舌を噛み切って来るとは思わなかった。

 噛み切られた舌がショックで痙攣し、喉の奥を塞ごうとしていた。


 それをオレは突っ込んだ指で抑え込んだ。


 ミシミシと指の骨が悲鳴を上げている。口に指を突っ込んでいるというのに、痛みを抑えようと自然と歯を食いしばってしまう。

 こりゃ、指の骨が砕けるな。我ながらどんな噛む力だよ。これでも可能な限り力を緩めてるつもりなんだがな。


 ゆっくりと、息を吸う。


 慌てれば肺に血が入り込みそうだからな。自制心を総動員だ。

 慎重に呼吸をすると、やっと自分の状況を確認できるほどの気持ちの余裕ができた。


 噛みしめている指を口の中で動かす。

 ああ……舌が、短くなってるな。

 初めて感じた痛みに慌てているだけだ。オレは、痛みに慣れているはずだ。

 耐えろ。傷口がふさがり、()()するまでの我慢だ。


 ぼやけた視界が、ゆっくりと戻ってくる。

 身体が熱い……と思ったが、そういや湯の中だったな。必死過ぎてそんなことすら忘れていた。


 オレの周りは真っ赤だった。

 痛みに耐えるのに力みすぎて眼球の血管まで切れたのかと思ったが違った。

 湯に血が混ざって広がり、血の池になっていた。


 そこに浮かぶ白い身体。

 麻衣子さんの……死体だった。


 舌を絡めているときに相手の舌を噛み切ろうとしたらどうなるか?


 そんなのは決まっている。麻衣子さんは自分の舌ごと、オレの舌を噛み切っていた。


 どれくらいの時間が経っているのだろうか?痛みに耐えていた間の時間感覚が無い。必死だったもんな。

 麻衣子さんはもう指先ひとつも動くことはなかった。


 洗脳か……。


 どうせ、チャンスがあればオレを殺せと命令を受けていたんだろう。


 麻衣子さんからは殺気も、自殺の覚悟も感じられなかった。だからオレもすっかり騙されたんだ。


 洗脳でも催眠でも、一番難しいのは自殺させることだと聞いたことがある。生存本能と言う最も強い本能に反する行動をさせることは不可能に近いと。


 それをキスをするついでの行動の様に、何の覚悟もなく行わせたのか。

 オレが隙を見せなければ……。

 オレがもう少し気を付けていれば、彼女は死ななかったかもしれないな。


 「まひこしゃん……」


 クソ、上手く発音できない。

 名前さえちゃんと呼べずに終わるのか。バカ過ぎるよな。


 オレは麻衣子さんの話を聞いた時、もう素直に従って帰ってしまおうと思っていた。

 オレとの交渉が麻衣子さんの命が救われる条件なのだとしたら、オレが帰らなければどうなるか分からない。

 オレが帰ることで麻衣子さんの命が助かるなら、それでいいと思っていた。


 オーナーには義理はないが、麻衣子さんにはある。それだけで理由は十分だった。


 そして谷口のこともある。

 オレが手を引いて、運が良ければ谷口も無傷で返してもらえるかもしれないと思った。


 だが……。


 引くに引けなくなったな。

 もう、この事件、最後まで付き合うしかない。


 オレは覚悟を決めた。

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