Lythrum Night Vampire
走らなきゃ。
逃げなきゃ。
それだけを強く念じながら、私はどこかを走っていた。
どうして今、自分が走っているのか、走らなくてはならないのか、今の私にはわからない。ここがどこなのかも、わからない。その意味を探すために、私は何かから逃げているのかもしれない。
その場所は、汚い海の沿岸のようにも見えたし、廃墟のビルの長い長い廊下にも見えたし、或いは車通りのない、深くて暗いトンネルのようにも感じられた。視界は真っ暗で、見えるものといえば嫌に青白い自分の両腕だけだ。
音もなく、ただ自分の苦しげな息遣いが聞こえるだけ。五感は敏感にさえわたっているはずなのに、そのどれもが今の状況ではほとんど意味を成していなかった。
その場所を、一人走り回る。
けれど、いくら走り回っても、何度足を前に踏み出しても、大きく腕を振っても、光が見えることはなかった。
どんなにどんなに走っても、出られるまでは止まれない。
一体どこから出るのか?
そもそも出口などあるのか?
疑問は後を絶たないが、に足を止めようという気持ちは一向に湧いてこなかった。自分自身に聞こうが、その答えを今の私はもっていないようだ。
だから、走っているのだ。
ビチャっ。
右足を踏み込んだ瞬間、嫌な音と共に足に生暖かい感触が伝わった。いきなりの感覚に、私はひっ、と小さく悲鳴をあげ、後ろに後ずさった。何か、あるみたいだ。
荒立つ呼吸を無理やり抑え、しゃがみ込んでそっと手で触れる。水の感触がした。
どうやら、水たまりを踏んで驚いたらしい。
普段の私なら、「なんだ、そんなものか」と一瞥して終わっただろうが、初めて自分以外の「何か」に触れた私にとって、その水たまりは好奇の象徴のように思えた。
水があるということは、川か、海か、或いは水道か、何か水源になるものがこの近くにあるということだ。
それを辿れば、ここから出られる。
四つん這いになって水溜りの先を、見失わないように少しずつ辿る。冷え切った指先で、水温が、どんどん暖かくなるのを感じた。温水、私は自然とお風呂の水を思い出す。今の今まで無自覚だったが、ひどく体が冷え切っていることに気が付く。だが、なぜか冬場のような凍える寒さが襲ってくることはなかった。
ぐに。
私の指が、何かに触れた。
思わず、手を引っ込める。これは、なんだ?
温かい水を確かに感じていたはずの私の指は、それに触れる感触で唐突に目を覚ました。餅のような柔らかい何か。あの感触は、一体なんなのか。
好奇心で支配されていた私の心は、一気に不安と恐怖で埋め尽くされた。液体ではなく、確かに固形だった。弾力があって、それでいて……。
確かに触れたことのある「何か」。
わからない。でもこれが何か大きな鍵になる気がして、ならなくて。
さっきよりもずっと慎重に、丁寧に腕を伸ばす。
これほど視界が暗いことを恨んだことはないだろう。震える指で少し、またすこし、それに近づいていく。
走っていた時とはまた違う動悸が私を襲っていた。
後、数センチ。
中指が、触れる、その瞬間。
私はーーーーーーー
目が覚めた。
あたりはまだ暗く、早朝に起きてしまったことを物語っていた。
あんなに衝撃的で、印象的な夢を見たというのに、私に体は汗のひとつもかいていなかった。それどころか、もうすでに記憶が薄れている。所詮は夢の中のおとぎ話ということか。あの指で触れた温かい水の感触は、もう私の体のどこにも残ってはいなかった。
ぼんやりと開く眼と、徐々に覚醒し出す頭で、私はポツポツと昨日のことを思い出していた。どうやら私の脳は春の儚い夢よりも、昨日自らに降りかかった2度と忘れることができないであろう事実を優先したようで、昨日の記憶が鮮明になるたび、何かから逃げる焦燥感も、息切れする呼吸の苦しさも忘却していった。
もちろん、昨日のことは覚えている。それもありありと。
母と父の真剣な顔。湧き上がる不安感。戦慄。拷問のように繰り返される宣告の言葉。
そのどれもが私の脳に焼き付いて、再度針を刺してくる。
自分の部屋を見渡す。それは眠る前に一瞬見えた部屋と何ひとつも変わりない。
その風景は誰も部屋に入らなかったことへの安心感と、若干の寂しさを私に植え付け、すぐに風化していった。
やることなんてない。日曜の、こんな朝早くに起きている物好きはきっと少数だ。もちろん、家族の誰もまだ起きていない。
やけに覚醒し切った頭で、外に出てみよう、と思った。
こんなに早い時間に起きたのは初めてだ。いや、去年の家族旅行で那須の高原にいった時はこのくらい早かったか。特に鮮明な記憶があるわけでもないのに、どこか懐かしい感じのする早朝の空気が身体中に染みた。夏の到来を仄めかすように、私の傍を涼しい風が吹き抜ける。パジャマに、母から借りているウィンドブレーカーを着ていた私にとって、その風は柑橘類のような爽やかさを孕んでいた。
なぜかわからないけど、今起こっている事象全てを、刻み付けなければならない気がして、浮かんだ単語を自由に文章化して暗唱するように脳にインプットした。
日は昇ったばかりだ。
土手を歩く私に、眩い太陽が照りつける。そういえば、吸血鬼は日光を浴びると死ぬと聞いたことがある。私は、なぜだかウィンドブレーカーの襟を立て、フードを被った。その直後、これが私は吸血鬼です、と伝える行為のように思えて、襟元を押さえていた手をパッと離し、フードも頭からはずした。周りには誰もいなかったけれど。
目から入ってくるものは、一昨日のものと何も変わらない。見覚えのある土手と、鳥が行き交う川。白鷺がバサリと飛び立つのが、目の端でうかがえた。
道端に置いてある時計は、5:12の数字を指していて、もうずいぶん歩き回ったな、と思った。
冴え渡る思考と、相反して考えることを放棄した脳で、家に帰ろうと、思った。
今だけは、自分が自分ではないような気がして。




