第漆話「フレンズ」(後)
真砂ケイジは悩んでいた。
次の作品のネタが思い浮かばず困っていた。
彼は物書きだ。
文芸部に所属し、部長として後輩を率いる立場にある。
原稿を落とすわけにはいかなかった。
うんうんと唸る彼を、長老先生と呼ばれる男が横目で見ていた。
長老は次いで他の部員──今日は三人が部室に来ていた──に視線を移す。
そちらも似たような有様だ。
ふいに顎を撫でる。
この癖が彼をより長老らしくしている。
パッと、ケイジの頭脳に電灯が点く。
そう言えば、と。
昨年のことであるが、クラスメイト複数人が同じ夢を見た時期があったことを思い出していた。
彼はホラー専門ではないが、背に腹は代えられない。
ケイジは打鍵し、まずは一行だけのプロットを記す。
それを肩越しに長老が覗きこんだ。
「ほお。珍しいな」
「うぉっ!?」
突然、耳元に息が吹き付けられてケイジは思わず飛び上がった。
周囲の視線が痛いくらいに突き刺さり赤面する。
「驚かせないでくださいよ」
「いや、スマンスマン」
長老はばつの悪そうに、頭を掻いてから「ホラーか?」と投げかけた。
「まぁ、一応」
「珍しいな、うん。珍しい」
そんなに珍しがられても……と、ケイジは心の内で密かに苦笑する。
「まァ、頑張りなさい。たまには違うジャンルを書くのも、いいものだ」
「断念するかもしれませんけどね」
ケイジは自嘲的な笑みを浮かべた。
「よくあることだろう、物を書く以上は」
「……ですね」
しばらくの間、室内を占めていたのはカタカタという打鍵の音だけだった。
音楽室と化した文芸部の調和を乱すのは、かつて部長であった女に他ならない。
「こんにちはー」
進学し、すっかり垢抜けた墨名が遠慮なく扉を開けた。
卒業後も彼女は、月に二三度は顔を出す。
そして後輩らに何か一文書かせて去っていくのだ。
ケイジは溜息を吐いて、書きかけのプロットを保存した。
長老は窓から空を眺めていた。
ある学校には座敷童がいる。
その名をシノと言う。
それはかつて、人間が座敷童に対して抱く印象とは真逆に、学校にて生贄を貪る妖怪であった。
今では、授業から授業を渡り歩く勉学妖怪である。
自ら望んで血を啜っていたわけではないが故に、その過去を悔い、日々、この学校に通う生徒たちが少しでも幸多からんことを願っている。
全校生徒ともなると、いくら座敷童と言えども力が分散してしまい、満足のいく結果にはならないのだが、ささやかでも、と彼女は毎日の祈りを欠かさない。
そんなシノの自室とでも言える場所は、かつて“開かずの教室”と呼ばれ忌避されていた教室だ。
古くからの友人であるイチコと、放課後から次の授業の時間までを過ごす。
退屈しないように、お菓子やゲーム類が置かれている。
それらは恩人であるナチノに貰った物だ。
シノは彼女には本当に感謝していた。
生徒への祈りのほかに、ナチノへの祈りの時間を設けるほどにだ。
今はそのナチノも、イチコもおらず、ただ一人だ。
机の上に、一冊の本がある。
これはシノ自身が持ってきたものだ。
文芸部が定期的に発行している同人誌である。
学校の各所に『ご自由にお取りください』の体で置かれている。
暇つぶしになれば、と思い貰ってきたのだが、読み終えたシノはそれを机の上に静かに置くと、瞼を下ろしてじっと固まってしまった。
その表情は悲しげであり、悩んでいるようにも見えた。
ある作品が原因であった。
その作品が彼女の罪の一端を元にして書かれたであろうことは、シノにはすぐにわかった。
作者は当事者ではないのだろう、ふんだんに脚色されていたが、それでもシノにはわかる。
自分のしたことだからだ。
贖罪は終わっていない。
それは重々承知しているし、これから先、長き時をかけて人間に対して行っていくつもりだ。
だが、今すべき相手がいるのだと、彼女はこの本を読んで思い直す。
扉が開いて、イチコが顔を出す。
シノの湿っぽい表情を見て、すぐに心配の声を発した。
「なにかあったの?」
「少しだけ」
シノは該当の作品が載るページを提示する。
それにさらっと目を通すと、イチコは勢いよく本を閉じて、机に叩きつけた。
「こんなの……ただの小説でしょう! 貴女が気に病むことなんて……!」
口から泡を飛ばす彼女をなだめつつ、シノは静かに首を横に振って自らの考えを語った。
「ここから、始めなくちゃいけないんです。本当は」
しばらくの沈黙の後に、イチコは「わかった」と頷いた。
「シノの罪は……私の罪でもありますわ」
イチコは真っ直ぐにシノの目を見つめる。
シノもまた、見つめ返す。
「ありがとう、イチコちゃん」
二人は互いに手を取り合い、教室を後にするのだった。
「ライブのチケット当たっちゃったぁ!」
「うっそ!? いいな~!」
ナチノは黄色い悲鳴をあげるクラスメイトを横目に、自分の席に着いた。
既に登校していたケイコに肩をぽんと叩かれ振り返ると、ガックシと肩を落とした姿がある。
「どうしたの?」
「私も応募してたのよぉ~!」
チケットを見せびらかすクラスメイトを指さして、ケイコは青い悲鳴をあげた。
指された方はちらりと彼女を見て、申し訳なさそうに頭をさげる。
恨めしそうなケイコの代わりに、ナチノがお辞儀を返した。
ナチノがケイコを宥めながら席に着かせると、愚痴が始まった。
そのライブにどれだけ行きたかったか、倍率がどれだけ高いか、果てには自分にはくじ運がまるでないから仕方ないのだと、言い聞かせるようになった。
それをナチノはうんうんと、適当に相槌を打ちながら聞き流す。
そうしながら、珍しく朝からいるイチコの方を見た。
彼女はやれやれと言うように、肩をすくめる。
(早まったかしら……)
ナチノは、ほんの少しだけ後悔していた。
チケットが当たったクラスメイトの他にも、ここ数日でラッキーなことが起きたクラスメイトがいる。
それら全員に共通するのは、かつて悪夢を見たことがあるという一点のみだ。
ナチノも同様に悪夢を見た者であったが、他の人のような幸運を授かっていないし、これからも授かる予定はない。
シノはまず第一に、ナチノに対してなにかしなくては、と思いその旨を伝えたが、見事に断られたのだった。
それはナチノの見栄であった。
だから少しだけ後悔する、ほんの少しだけ。
「でも、それじゃあ、気が済みません!」
当然ながらシノは納得しなかったが、
「じゃあね……これからも友達でいてくれる?」
「それは勿論ですっ! ね、イチコちゃん?」
「ええ、それはもう。貴女が死んで幽霊になったとしても、ですわ」
「それはありがたいわ。幽霊は長くなりそうだし、寂しくないわね」
これにて、この話は片が付いたのだった。
そして「私よりも他の人をお願い」されて、シノは最近張り切っている。
それはおよそ一週間続いた。
今度はあまりにもささやか過ぎて、誰一人として関連性にも奇妙さにも気付くことはない。
本に書かれることもない。
静かに始まり、静かに終わったのだ。
そしてこの後も、いやそれ以前から、この学校の生徒にはもっと小さな、ささやかな幸運を授かり続けていることにも、ナチノ以外に知る者はいないのだ。
幸福な人間がいる一方で、不幸な人間もいる。
座敷童の住む学校に通っていても、不幸にはなる。
たとえば逆井サカキがそうだった。
この一週間の彼はついていなかった。
一日目の朝には鳥の爆撃を食らい、昼にはいつもなら買えるはずの食堂のパンが売り切れていて、帰宅すると黒く速い平らな虫が主人の帰りを玄関で待つ忠犬がごときだった、飼ってなどいないというのに。
そのような、些細ではあるが確かな精神的ダメージとなる不運に見舞われていた。
ついていない、と彼は事あるごとに呟いた。
だが実際には、憑いているのだった。
そのことに気付いたのは七日目の朝で、ナチノがだった。
彼女の左眼は時として、あるいはその対象によって、右目にも異常なる像を映す。
逆井先生の首の後ろに、黒いアザのようなものが視えたのだ。
丸が三つほど重なり合うような形になっている。
アザにしては奇妙で、どうにも気になるので、シノとイチコに相談することにした。
「こんな感じのアザなんだけどね?」
紙にそれの絵を描いて、二人に提示する。いの一番に反応したのはシノだった。
「虫刺されっ!」
「いや、違うでしょう」
いくらなんでもその答えはない、とバッサリとナチノは切り捨てる。
だがシノが言いたいことは、そういうことではないようで、すぐに補足説明を挿んだ。
「名前は知らないんですけど、幸福を吸い取ると言いますか、不幸を注入すると言いますか、そういうことをする虫がいるんですっ」
「その刺され痕に似てると?」
イチコの問いにシノは何度も頷き、ナチノは「なるほど」と納得した。
シノが続けて、その虫の特徴を述べると、二人はすぐに今後の対策を出す。
「放置で」
「異論なしですわ」
対策ではなく結論だった。
「えっ!?」
素っ頓狂な声を出すシノに対して、
「だって、一週間くらいで痕も消えるんでしょう? 死ぬほどの不幸はないみたいだし」
とナチノが答え、
「先生が自分のついてない話を授業のネタにし始めてから、もう五日くらい経ちますわね」
とイチコが呆れ返る。
これではなにを言ったところで結論は変わらない。
「気は済んだし、私はもう帰るわね。ばいばい」
「さようなら、ナチノ」
「え、えーっ!?」
シノだけは納得していなかったが、逆井サカキのついてない話は生徒に結構好評だった上、逆井本人の少しばかり誇張して面白そうに話して積極的にウケを狙う姿に、不幸も使いようなのだという新たな概念を学ぶに留まった。
逆井サカキは教師の鑑であろう。
八日目あたりから不運に見舞われる頻度も減っていき、二週間後にはアザも完全に消えた。
逆井先生は今日も元気である。
* *
三年生も中盤を過ぎた頃、ナチノの通う学校はどこか色恋の匂いが漂っていた。
それはやがて来たる文化祭を強く意識したものだろう、とナチノでも推察できた。
高校生活最後の文化祭を恋人と楽しめたら、それはきっと一生の思い出になる。
たとえその後、別れようとも。
だがしかし、そういうものではないとナチノは思うのだった。
恋人が欲しいから好きな人を作るのは、ちぐはぐだ。
好きな人がまずいなくては。
憧れや理想はあるのだが、柳田ナチノは恋をしたことがない。
怪の経験だけは豊富だが。
恋は自然災害のように劇的なものと信じて疑わないから、自ら恋のお相手を探すなど、頭の片隅で考えたことさえない。
恋は知らずにやって来るものだ、自分の心の内に。
それが柳田ナチノの恋だ。
誰かの心の内に、ナチノへ向いた恋がやって来ることなど、考えたこともない。
告白された経験だって皆無なのである。
そんな彼女と言えども、他人の色恋に関しては人並みに敏感であった。
たとえば友人の鹿渡ケイコが、その幼馴染たる猫実トオルに対して淡い思いを抱いていることには、すぐ気が付いた。
お節介は滅多に働かないが出来るだけ気を使うようにすることで、密かに応援している。
だから文化祭の日にも、彼女はイチコとシノを連れてひっそりと二人の前から隠れるのだった。
ナチノのクラスの催し物は“休憩室”だ。
適当な椅子と机にクロスをかけておくだけでいい。
特別進学クラス故に、文化祭準備期間中の放課後は、受験勉強の為に使えというわけだ。
これは去年の文化祭の段階で決定していた。
担任の逆井サカキは渋い顔をしたが、全員の協議の末に決まったことだから何も言わなかった。
ほぼ全員が賛成していた。
これが過半数を僅かに超える程度だったならば、一言添えていたかもしれない。
「最後の年に、何もしないなんてどうなのかしら」
イチコは内心では不満を抱く一人だった。
「でも朝からじっくり周るのも、悪くないわよ」
対してナチノはそのような感傷はなく、純粋に今を楽しむ気満々であった。
彼女が手に持つパンフレットには、前日の内に気になる場所に印がなされている。
シノも久しぶりの文化祭に目を輝かせて、心情はナチノのそれに近い。
「……まぁ私は、シノが楽しければなんでもいいですけど」
イチコの手がそっと、彼女の黒い頭に置かれた。
シノは少し照れくさそうだった。
それを吹き飛ばすかのように、明るい声を出す。
「まずは外の出店に行きましょう!」
シノが二人の手を取る。
ナチノとイチコは顔を見合わせて、姉にでもなったような気持ちになるのだった。
三人で過ごす最後の文化祭をハメを外して楽しんだ。
それは柳田ナチノにとって、高校生活で最も幸福な時間であったに違いない。
卒業まで、あと僅か半年程度なのだ。
その半年のうちに、これを超える幸福など存在しようか。
文化祭は終わった。
片づけも済んだ。
ナチノたちのクラスが、たとえ早くに片づけが済んだとしても、すぐには帰れなかった。
最後に閉会式というものもある。
それが終わって、ようやく文化祭という一大イベントが終結するのだ。
生徒はあらかた帰路に着き、学校はすっかり静まり返っている。
昼間の喧騒は遥か彼方の出来事のようだ。
イチコとシノとは別れて、彼女たちの住む教室からも遠く離れた空き教室を、ナチノは一人で訪れていた。
戸に鍵はかかっておらず、容易に入り込むことができた。
教室は椅子と机が窓側に寄せられていて、がらんとした有様をしている。
「よぉ」
猫実トオルの姿が、夕闇に浮かび上がる。
教卓の傍で、黒板に向かって立っていた彼は、ナチノが現れたのに気付くと振り返った。
「何の用かしら?」
そう訊くナチノの顔は普段と何ら変わりがない。
自分がどうして呼び出されたのか、皆目見当もついていないのだ。
この状況……男が女と二人きりになりたがる理由など、ただ一つだけだ。
しかしナチノは幼稚なのだ。
自分が誰かを好きになることは想像できても、誰かに好かれることは想像すらしたことがない。
ナチノの場合は無知からくるものではあるが、女子のあまりにも自然体な様子はきっと男子としては、たまったものではないだろう。
告白らしいシチュエーションが見事に破壊されてしまっていて、既に脈の有る無しがハッキリと着いているようなものだ。
軟弱な心ならば、確実に折れている。
「あー……まぁ、なんだ」
「何よ。珍しく歯切れが悪いわね?」
察しの悪さにトオルも流石に参ってしまったのか、頭を掻いて言いよどむ。
だがやがて、意を決して口を開いた。
「俺さ……ヤナギのことが好きだ。だから、付き合ってくれないか?」
予想だにしていなかった言葉に、ナチノの頭が停止する。
それが再び動き出すにつれて、頬がひっそりと朱に染まっていった。
彼女にとってトオルは“ただのお友達”だ。
告白されたからといって、意識するような相手ではないけれど、誰かに好かれること、それ自体は心地の良いものであり、気恥ずかしいものだった。
初めての経験に、顔を赤くするのも致し方のないことだろう。
幸いなのは、その赤さは窓から差し込む夕日の色と交わって、誰の目にもおぼろげだということだ。
でなければきっと、彼は勘違いしてしまっていたに違いないのだ。
「ごめんなさい」
しばしの沈黙の後に、ナチノは思い切って答えた。
トオルの顔が明らかに落胆の色を浮かべる。
それに、心底申し訳なく思ったナチノは、逃げるように踵を返すのだった。
が──、その瞬間、トオルの瞳に邪な光が灯る。
黒く黒く、輝いた。
「きゃっ!?」
力強い男の腕に片手を引っ張られて、ナチノは床の上にすっ転んだ。
その上にトオルの影が覆いかぶさる。
ナチノは自身の色恋に関しては、幼さが残っているが、ことここに及んでは一つの危機を感じずにはいられなかった。
だが彼女の細腕では、どんなに殴りつけても無意味だ。
腕が胸元へと迫る、かのように見えてナチノは、幾らかの覚悟をしたのだが、それは真っ直ぐに彼女の顔へと伸びてきた。
一体なんのつもりだろう、そう考える間もなく、トオルの手はナチノの眼帯を剥ぎ取る。
バチン、と勢いよく耳にかけるゴム紐がその手の甲を叩いた。
怯えた表情で、左眼をぎゅっと瞑る彼女に対して彼は、
「目、開けろよ」
重い声で命ずるのだ。
もしも逆らったら、と考えれば、それには従わなくてはならない。
恐々としながらも、ナチノは左の瞼をあげていく。
何が怖いかと訊かれれば、何が視えるかわからないのが怖かった。
今のトオルが、灰色の世界でどのような姿で映るのか確かめることが、何よりも恐ろしいのだ。
真っ白な左眼が、全て露わになった。
その懸念は確かで、彼は他の人を視た時と同様に、灰色の人間だった。
それはつまり、正常であることの証なのだ。
比喩ではなく魔が差したのであったならば、気持ちの上では救われる。
「やっぱり、綺麗だな。真珠みたいだ」
独り言のように漏らしたそれで、ナチノは、彼にとっての“魔”は自分なのだと察した。
「なぁ、頼むよ。俺のものになってくれよ」
ナチノは首を真横に振って、もう一度拒絶する。
それから両の目で、じっとトオルを見据えた。
恐怖は最早ない。
「私は貴方のことは友達としか思えないわ。それも“友達の友達”にしか」
舌打ちし、トオルは憎々しげにナチノを見下ろす。
だがその対象は、かの幼馴染に向けてだった。
「幼馴染というだけで、本当にうざいことこの上ないぜ」
そう吐き捨てて、今度こそナチノの胸元へと手を伸ばそうとする。
言ってダメならやってみる、ということなのだろう。
だが、それは意外にも阻まれるのだった。
「がっ!? ……あ?」
後頭部への一撃が、トオルの意識を曖昧にする。
更にもう一撃。
気の抜けそうな、金属のたわむ音が教室に鳴り響いた。
それで完全に意識が闇へと沈んだ。
バケツが、ナチノの窮地を救ったのだった。
夕陽も地平へと落ちて、空は藍色に塗り替えられている。
ナチノは崩れ落ちたトオルの体を押し退けて、自分を助けた人物を見た。
「ケイコ……どうして……?」
そこに立っていたのは、鹿渡ケイコだった。
彼女はにっこりと微笑んだ。
だがそれは、無事な友達を思ってのものではない。
「メール見たからね」
「えっ?」
「トオルのメール、全部私のとこに転送されるんだ。トオルは知らないだろうけど」
果たして、そこに立っているのは本当に鹿渡ケイコなのだろうか。
ナチノはそう疑わずにはいられなかった。
「だから待ってたんだ、先に」
彼女が手にするバケツは、掃除用具入れにあるはずのものだ。
現に、教室の隅にあるそれは、扉が開け放たれている。
彼女の言う通り、待っていたのだ、そこで。
そしてずっと、様子を窺っていたのだ。
「そいつ、私のものだから」
ケイコに微笑みかけられて、背に冷たいものを挿しこまれた気になる。
それはナチノが何度か経験したことのある、あの“嫌な感じ”と同じ気配なのだった。
「ナチノのことは好きだけど、あーげない」
鹿渡ケイコは猫実トオルが好きだ。
幼馴染としての情など、とうに超えて、女として好きになっている。
昔のこと過ぎて、いつからなのかは本人でもわからない。
気付いた時には、そうだった。
二人は幼稚園に通っていた頃からの付き合いなのだ。
家族ぐるみの付き合いをしている。
おかげで、ケイコはほとんど労せず外堀を埋めることができた。
今ではどちらの両親も、二人は深い仲を築いているものだと“勘違い”している。
現実と理想との間に横たわるギャップに、ケイコはやきもきしているのだった。
あとはただ本人を落とせばいいだけなのに、それがまるで捗らない。
どころか、彼は最近どうやら気になる女がいるらしい。
その相手が誰なのか。
ケイコは知ろうとして、トオルのケータイの設定を変えて自分のところへメールが転送されるようにした。
中々ボロを出してはくれなかったが、文化祭の日にようやくわかった。
いや、薄々そうでないかとは感じていて、違えばいいなと願っていたのだ。
自分の友達が相手となると恨むに恨めないから嫌だった。
ケイコにとってはある種の不幸であり、ナチノにとってはある種の幸いであった。
トオルとナチノの動向を探る為に、先回りして掃除用具入れに隠れる。
すえた臭いが鼻をついて不愉快だった。
だがそれ以上に不愉快なのは、彼がナチノを押し倒したことだった。
自分ではなく、ナチノを!
ケイコの脳裏が真っ赤に染まる。
その手にはバケツがしっかりと握られていた。
猫実トオルは決して鹿渡ケイコのことを好きになれない。
いやケイコだけではなく、多くの女性に対して同様なのである。
何故ならば、この世の多くの人間は“完璧”だからである。
その言葉に抱くイメージは人によって差異があるだろう。
人によっては、完璧な人間などいないと憤慨するかもしれない。
トオルにとっての完璧とは、両手があることであり、両足があることであり、体に派手な傷跡がないことであり、両の目があることである。
つまりおおよそ健全な人間という雛型に、すっぽりと嵌り込む者を指す。
大雑把に左右対称であれば、それだけで人間は完璧だと言える。
対称性は美しい、とされている。
だがトオルは常々それが理解できずにいた。
彼にとっての美とは欠けていることに他ならない。
ミロのヴィーナスは、その欠落した両腕から真実の姿に思いを馳せることで無数の美を創造するから普遍的な美を内在していると言えるのだが、その欠損こそが美しいのだ。
腕の断面図が最も美しいのだとトオルならば豪語するに違いない。
両腕があったならば彼はいかなる美女にも見向きしない。
ミロのヴィーナスに想像の世界であっても腕を補填してやろうという行為は、唾棄すべき悪行だ。
本来あるべき黒き瞳が欠け落ちた彼女は、猫実トオルにとってのヴィーナスなのだ。
ともすれば、罪を犯してでもそれを得ねばなるまい。
決して衝動的なものではなかったのだ。
常々思い描いていたことだった。
もしも、自分を受け入れてもらえないのなら、道は一つだとトオルは確信していたのだ。
柳田ナチノは、それ以上ケイコと言葉を交わすこともなく、逃げるように家路を急いだ。
自分はまたぞろ悪夢を見ているのだと信じたかったが、解放された左眼が許さなかった。
翌日、ケイコはいつものように彼女に話しかけてきた。
まるで昨日のことなど、なかったかのように。
ナチノは努めて冷静で、いつも通りに振る舞うことができた。
残りの半年間を、偽りの仮面を被ることに決めた瞬間だった。
トオルとは二度と言葉を交わすことはない。
彼もまたナチノを一瞥することはなかった。
シノとイチコは、不穏な空気を感じ取ってか、何も訊かずにナチノの傍にいた。
そして──、卒業式が終わる。
柳田ナチノの三年間は、獲得と喪失の繰り返しだった。
かつて“開かずの教室”と呼ばれていた場所で、いつものように三人が集まっている。
最早ナチノにとっての友人は、この二人しかいないのだ。
だが卒業してしまえば、気安く会うこともできなくなる。
三人の間には、どこか湿った空気が漂っていた。
「とりあえず、大学合格おめでとうございますわ」
「おめでとー!」
二人に賛辞の言葉を告げられて、ナチノは少し照れくさそうにする。
「ええ、ありがとう」
それから「貴女たちは、これから?」と訊ねた。
シノとイチコは顔を見合わせ、
「学校は出ますわ」
「その後は、まだわかんないです。今の世というものを見て回って、それから考えたいと」
口々にそう答える。
「地球童にでもなっちゃう?」
ナチノの冗談にシノはくすりと微笑んだ。
「あはは、なれたらいいです。ほんとに」
不意に沈黙が訪れる。
最後なのだから、もっと色々話したかったのに、三人が三人とも言葉が浮かばなかった。
だからと言って、このまま別れたくもないのだ。
「あの」
静寂を打ち破ったのは意外にもシノだった。
彼女は深々とナチノに対して、頭を垂れる。
「本当に、ありがとうございましたっ!」
急なお礼に戸惑うナチノを置いて、イチコも同じように頭を下げた。
「私からも。本当に感謝しています。ありがとう。……本当にありがとう」
そして揃って顔を上げる。
目尻にうっすらとだが輝く雫があった。
それに気づいたナチノも感極まったかのように、口元を抑えて背を向ける。
声が震えていないかどうかが、気になった。
「お礼を言うのは、私の方よ。友達になってくれて、本当にありがとう」
なんとかそう絞り出した後に、ナチノは再び向き直って
「ありがとう」
と、もう一度だけ重ねる。
柳田ナチノの三年間は、獲得と喪失の繰り返しだった。
けれど最後には、かけがえのないものだけが残ったのだ。
これ以上の幸せはない。
「それじゃあ……また、いつか」
ナチノの言葉に二人が頷く。
「ええ、またどこかで」
「うんっ、またいつか会いましょう! 絶対に!」
これからも彼女たちは喪失と獲得を繰り返し、生きていくに違いない。




